天恢の霊感遍路日記 (松山〜結願編)
朝、目覚めて、いよいよ結願も間近となった。早めに身支度を整えて、そのまま歩きだせる格好で、ホテルの無料朝食!サービスを利用する。ここでは、地元の新聞にも載る名物おばあちゃんが作る讃岐うどんが大評判!です。美味しく、しっかりいただいて、おばあちゃんの久本さんにお礼を言って、写真を1枚撮らせていただきホテルを出発した。 琴電で瓦町から潟元までの乗車だが、今日は日曜日なので本数も少なく、駅でしばらく待って、志度行きの電車に乗って10分余りで潟元に着く。屋島寺への登山口に入るポイントがなかなか探せず、屋島小学校脇に出たのでもう一安心。ほどなく徐々に上り坂になってきた。途中に、水が枯れてしまった番外霊場の「屋島の御加持水」、石仏があるだけの「食わずの梨」があった。潟元の駅から仁王門まで約2qだが、日曜日なのでウォーキングを楽しまれる市民の方も多く。このあたりで約半分くらいの距離だと聞いて、がっくりきた。
屋島は、台形に近い形をして、瀬戸内海に突き出している高さ300m近い溶岩台地で、南北約5q、東西約2q。周縁は天然の要塞ともいえる絶壁になっている。ちなみに屋島の名は、どの方向から見ても屋根の形をした独特の姿によるものだそうだ。かなりの坂道を上りきって、平らの頂上を回り込むようにして、やっと仁王門に辿り着いた。 第84番 屋島寺
仁王門から境内に入り、200mほど歩くと、仏法を守護する四天王を祀った四天門に着く。門の柱の間から見える正面の本堂の眺めはなかなか趣がある。本堂までの途中に、右手に納経所と大師堂、左手に宝物館がある。本堂は、単層の入母屋造。鎌倉時代末期の建築で、国の重要文化財である。そもそも屋島寺は、鑑真和上が屋島北嶺に創建し、後に空海が南嶺に移したと伝えられ、源平合戦の古戦場の舞台に建つ古刹である。 さてさて、ここの見所は? 宝物館には、雪舟の「滝見観音」、土佐光起の「屋島合戦屏風」、徳川家康が所持していた太刀など、貴重な文化財や美術品が保存、展示されている。また、境内には白い凝灰岩が露出して、夏場でも雪が降ったように見える美しい書院庭園・名勝「雪の庭」もある。 そして、ご利益は?
先ず、佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸とともに「日本三大狸」と称される、四国の狸の総大将格、屋島の太三郎狸が祀られている。霧深い屋島で道に迷った弘法大師の前に、蓑笠をかぶった老人の姿で現れ、案内をした伝説の狸が、この太三郎狸とされている。本堂に向かって右隣の「蓑山大明神」の前に高さ3m余り、幼子を従え、乳飲み子を抱いた狸夫婦の石像が立つ。この狸は夫婦の契りも固く、家庭円満、縁結び、子宝を授け、水商売のご利益があることで全国からも多くの人が訪れている。
他に、ご利益がありそうな屋島稲荷、熊野権現社、七福神、一願不動尊、三体堂、千体堂、子安地蔵、十一面観音などと盛りだくさんである。 参拝、納経が終わって、境内に隣接する土産物店「扇誉亭」内のギャラリー「アコスタージュ」で、元宇高連絡船・土佐丸船長の萩原幹生さんの個展「切り絵で巡る八十八ヶ寺」が開催されていて、勧められるまま、しばしの時間鑑賞させていただいた。なかなかの見ごたえのあるもので、見損なった方のために、成山堂書店より出版されている「四国八十八ヶ所霊場めぐり切り絵集」 萩原幹生 画・文 \3,150 を紹介します。 http://www.seizando.co.jp/index.php?main_page=product_info&products_id=894
東大門をくぐって、源平合戦に勝利した源氏の兵が血刀を洗って赤く染まった「血の池」の脇を通って、パーキングエリアに出た。屋島ドライブウェイの利用者が圧倒的なので、現在では東大門から境内に入るのが一般的である。それにしても、かつては四国の代表的な観光地であった屋島であるが、瀬戸大橋開通時の賑わいを最後に観光客が激減した。この影響で山上にあったみやげ物店・宿泊施設が相次いで閉鎖されているようだ。
次の札所の八栗寺を目指すことになるが、屋島の山頂から、はっきりと稜線が独特な、ラクダのコブにも見える五剣山が望める。あの山麓まで歩くことになる。元ホテル甚五郎の脇からの細い急峻な遍路道を一気に下って、ドライブウェイを横断して、さらに下って、古戦場の檀の浦を左手に見ながら、相引川を渡って牟礼町に入る。この辺りは石の町とのことでやたらと石屋さんが目立つ。それと讃岐うどんでは超有名店で、「うどん本陣山田家」である。うどん屋さんにしては立派な風格漂う店構えで、中の様子はわからないが、お昼前なのに客の出入りは多そうである。
ほどなく八栗ケーブルの駅があって、その横から鳥居をくぐると急坂が始まった。急坂の途中で「休んでいかれませんか?」と、声を掛けられた。お接待所のようだが、「ありがとうございます」と、頭を下げて通り過ぎた。ここで休憩すると先に進むのが嫌になりそうなので、いつもながらお気持ちだけをいただく。ところどころ石仏がある険しい坂道をいくつか上って進むと、また石の鳥居が現れた。その鳥居の先に仁王門が見えてきた。 第85番 八栗寺
八栗寺への道は、この登山道以外に、車道とケーブルカーの利用で、山上にある八栗寺に着くことができるが、どちらも仁王門とは反対側に着くことになる。寺の裏参道口から本堂へと向かう参拝者が主流となった。ラクラクお参りと車社会なので裏口入山も時の流れのようである。境内から見上げると、五剣山が間近に屏風のようにそそり立っていつのだが、どう数えても一峰足りない。それもそのはず、元禄11年(1698年)の豪雨で西の峰が半分に割れ、宝永3年(1706年)の地震で東の峰が崩れ、現在の形の四峰となった。寺創建から1200年、地形すら大きく変わる歴史をまざまざと知らされる。 そもそも八栗寺は、弘法大師がここで虚空蔵求聞持法を修行した際に、5つの剣と蔵王権現が現れたとされ、大師は五剣を山中に埋め大日如来を本尊とした。 寺名は、弘法大師が唐への修行の成果を試すために、あらかじめ8つの焼き栗を植え、帰国した際にみごとに成長していたことに由来する。 さてさて、ここの見所は? 岩肌の荒々しい山容とは対照的な落ち着いた佇まいの五剣山を背景に建つ本堂、昭和58年に建立された朱色の総檜造の多宝塔、昭和59年の改築で鮮やかな彩色が復元された歓喜天を祀る聖天堂など。それと、これらの堂宇といくつかの鳥居が立つ不調和が、ほかの寺院とは異なった趣を醸し出している。
そして、ご利益は? 昔から「八栗の聖天さん」として庶民の信仰が篤く、普段から賑わいのある札所である。聖天堂の堂内には、水尾天皇の皇后(徳川2代将軍の娘である東福門院和子)より賜り、この寺に祀ったとされる弘法大師作の大聖歓喜天像が安置されている。この夫婦二天の歓喜天は、高さ約15cmの黄金像で、50年に一度しか開帳されない秘仏である。歓喜天は、商売繁盛、福徳自在、夫婦円満の守り本尊としてご利益があるといわれる。他に、厄除け、招福の「十二支一代守御本尊」。八栗寺へお参りして、露店のお兄さんから必ず焼き栗を買われて、ゲン直しされる方もいらっしゃる。 次の札所・志度寺に向かうため、仁王門とは反対の裏道?から出ることになる。車とケーブルカーを利用する参拝者が圧倒的なので、こちらの方がお食事処やお土産屋もあって賑やかである。今日も好天に恵まれ、快調に下っていくと、二つ池親水公園に出た。
ちょうど昼時なので、休憩を兼ねての昼食を取ることにした。訪れる人もほとんどいない静かなのんびりした公園である。食事が終って公園の出口で、女性のお遍路さんお二人と出会った。下まで降りるのが大変なのでここで休んだとのこと。お二人は偶然ここで一緒になったそうである。今日は志度寺までなのでゆっくりできるとのことである。お菓子をいただき、四方山話に花を咲かせて、名残は尽きないが先を急ぐ身である。一人の女性はベテランで3巡目だそうで、ご朱印用の判衣が真っ赤かであった。いろんなハンディがある女性お遍路さんは、男と違って、何か思い込む信念が違うような気がする。
下りきったところから、JR高徳線、琴電志度線にほぼ沿った志度湾沿いの道を東に進む。振りかえると海の彼方に五剣山を仰ぐことができる。琴電・原駅を過ぎれば志度町である。古い町並みがいまも残り、昔から富商の多いところでその面影が残っている。また志度といえば、エレキテルで有名な江戸時代の異才、平賀源内の故郷として知られる。遍路道沿いに残る旧邸宅は、遺品館を併設している。町並みをそのまま進むと、やがて志度寺の五重塔が見えて、どっしりとした仁王門が通りのつきあたりに現れる。仁王門の手前にある自性院常楽寺に、
「源内さんのお墓所」の看板があった。一般的に「源内の墓」として知られているのは東京都台東区のお墓であるが、志度寺の方は元々平賀家の菩提寺であるのでこちらにもあるようだ。こちらも、「♪〜私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません・・・」である。仁王門にかかる大草履を見やりながら、門をくぐる。 第86番 志度寺
高松藩主より寄進されたというどっしりとした仁王門、金剛力士像は運慶の作と伝わる。境内に入ると、左手に聳える五重塔は、寺門興隆を願う関係者の浄財で昭和50年に再建された。朱の色も鮮やかな高さ33mの五重塔は、ひと際参拝者の目を引く。五重塔好きの天恢も、先ずはここで記念写真を一枚撮らせていただく。東讃随一の大寺と言われるだけあって、広い境内には、重文の重厚な構えの本堂、その前に山頭火の「月の黒鯛ぴんぴんはねる」の小さな句碑があって、なんでこんなところに? 真にアンマッチである。本堂の隣が大師堂である。その後ろに聳えている大楠は、大師のお手植えといわれている。そもそも志度寺は、推古天皇の時代に、薗子という尼が志度浦に漂着した霊木で十一面観世音菩薩を刻み、安置したのが始まりで、その後弘法大師がこの寺を訪れ、第86番の霊場に定めたとされる。
さてさて、ここの見所は? この寺には、一人の海女の悲しい伝説が伝えられている。 《 時は千三百余年前、天智天皇のころ。藤原鎌足が亡くなり、その息子不比等が、父鎌足の供養のためにと、唐の高宗皇帝から、その菩提を弔うためにと宝珠を船で贈られた。 しかし、都への船が志度浦で龍神に奪われ、不比等は玉を取り戻すため、志度に出向き、そこで地元の海女と契り、一子房前をもうけた。不比等は宝珠の奪還を海女に頼む。海女はわが子の立身出世を願い、「もし宝珠を取り戻したら、房前を藤原家の跡取りに約束してくれるか」と尋ねる。不比等がうなずくと、海女は観世音に祈願し、死と引き替えに龍神から宝珠を奪い返した。 その後、房前は藤原家を継ぎ、大臣に出世した。ある日、不比等から母の死の理由を聞かされ、志度を訪問。千基の石塔とお堂を建て、「死度道場と名付ける。
》 これが謡曲『海人』の原話であるという。苔むした石造物が目に入る。五輪塔の形をしているのは「海女の墓」。
もう一つ、水墨で描いた山水画をほうふつとさせる景観で知られる曲水式庭園は、室町時代に讃岐の守護であった細川氏の寄進による美しい庭で、滋賀の秀隣寺、三重の北畠神社と並んで、わが国には三つしかない珍しい庭園。この庭園に隣接する枯山水庭園の無染庭は、海女の玉取り伝説の情景を七個の石と苔むした岩、そして庭一面に敷き詰めた白砂で表現している。 そして、ご利益は? 八十八カ所の本尊を刻んだ石碑「四国八十八カ所光明真言一億万遍」と刻まれた大きな石碑には、四国八十八カ所のご本尊が刻まれている。仏の徳の光が遍く届くようにとの強い願いが込められている石碑である。
お参りと納経を済ませ、いよいよ今日最後の札所となる長尾寺を目指す。快晴で、夏日である。水分補給に気にしながら歩くことにする。志度寺から長尾寺までは、県道3号線をほぼ直線的に進む。高松自動車道をくぐり、道沿いにある番外霊場・玉泉寺にお参りする。広瀬橋の手前で県道から離れ、田んぼやビニールハウスの遍路道に入る。前を歩くお遍路さんを見掛けた。道端に落ちているゴミや空き缶を拾いながら歩く青年だった。
まだ、この日本にはこんな若者が存在すると思うと胸が熱くなる。急ぎ足で追いついて一緒に歩いた。岡山出身で長野市に住む鈴木君(仮名)だった。再就職のために、これまでの根性を鍛え直すために遍路に出たという。若い人でも働く場所が簡単に見つけられないのが、今の日本の現状である。野宿に近いスタイルで遍路を続けられ、明日は結願とのこと。年金でのうのうと遍路を続けるわが身が恥ずかしい。そうこう話していると、長尾の古い町並みに入り、左右に4メートルほどの大草鞋が掛けられている仁王門が現れた。
第87番 長尾寺
仁王門の前に立っている2基の「経憧(きょうどう)」は国の重文。蒙古襲来に出征した将兵の霊を祭るため立てられたもの。経憧は、写経を埋めた上にたてるもので、四角柱の上には八角の笠と宝珠のせたもので仁王門前に左右一対で立っている。お遍路は経憧に手を合わせてから門をくぐる。 札所には珍しく、鐘付きの鐘楼門になっている仁王門。三角寺のように撞いて境内に入るものではない。門の正面には、「葵の紋」入りの丸瓦が残っている本堂と大師堂が建つ。 そもそも長尾寺は、聖徳太子の開創と伝えられ、行基巡化の時、霊夢により柳の木で本尊を刻み安置したという。その後、弘法大師が一字一石の塔を建立し年頭七夜の護摩秘法を修し、国家安泰・五穀豊穣を祈願し、丘から護符(お守り札)を人々に投げ与えたという。
さてさて、ここの見所は? この寺は、源義経の愛妾静御前が出家して尼になったことで有名だ。静御前の母が讃岐の出身で、源義経と吉野山で別れ母と共にこの寺へ来たという。義経が奥州へ逃れ藤原泰衝に襲われ殺されたのは、その翌年のこと。境内に静御前が得度した際、剃髪した髪を埋めたという「静御前剃髪塚」がある。 もう一つ、正月2日の「三味線餅つき」である。三味線などの鳴り物にリズムを合わせ、一俵の餅をつきあげる。また、護符を人々に投げ与えたという大師の護摩修法に由来して、今でも正月7日に「大会陽福奪い」が催される。これは福棒という三本の宝木を若者が奪い合う行事であったが、現在はやり方変更されている。 そして、ご利益は? ご本尊の聖観音像は、度重なる火災にも不思議と無事で、秘仏として祀られている。高松藩主松平頼重は、この本尊を、讃岐国の主な観音像7体の中でも随一だと称えられ、篤く庇護されたという。まことにご利益がありそうな御本尊である。
納経をすませ、境内にある「静」という茶店で、佐藤君と明日の結願を語らった。野宿といっても、お堂や善根宿の利用となるが、けっこう競争率が高いので早めの確保がカギとなるそうだ。明日の再会を約束して、仁王門を出て、隣にある本日の宿「ながお路」へ。ながお路は母屋と宿泊所が道路を隔ててあって、食事は母屋で食べるようになっている。明日に備え、先ずは洗濯であるが、所持金の補充のため、自転車で近くのコンビニへ。ATMが無いコンビニで、銀行も日曜日の営業で間に合わず、少し心細いけど我慢することにした。ゆっくりとお風呂に入り、洗濯をすませ、食事となった。私と同様に明日の結願を迎える方が数名いらっしゃる。大事の前なので大酒は慎むことにした。宿の女将さんは有名人で、最近は足が痛むそうである。息子さんから「おへんろ交流サロン」のことや、「大窪寺結願までの地図」を参考にコース選び、コミュニティーバスの時刻表などの説明を聞いた。ついでに高野山へのお礼まいりで、難波周辺の宿の情報など教えていただいた。 参考文献『週間四国八十八ヵ所遍路の旅』(講談社) |
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