天恢の霊感遍路日記 (松山〜結願編)

 

3回・7日目  79番:天皇寺83番:一宮寺 2009530(土)       

タイム

ポイント

備考 (見処&移動機関)

6:20

 

ホテルサンルート瀬戸大橋

 

 

JR 宇多津 6:31 → 八十場 6:48

7:007:25

79番:天皇寺

山門無しの赤い鳥居 御神木 白峰宮 霊泉:八十場の水

 

 

JR 八十場7:37→国分7:46 

8:008:20 

80番:國分寺

松の仁王門 鐘楼 願掛大師・水かけ地蔵 お願い弁財天 福龍 

10:3011:00

81番:白峯寺

国の重文・七棟門 勅額門 玉章の木 御廟所 西行石碑 

12:4513:10

82番:根香寺

仁王門の大草鞋 大師堂 牛鬼の像 万体観音堂 

 

 

JR 鬼無15:15→高松15:22 琴電 高松築港15:45→一宮16:10 

15:2016:35

83番:一宮寺

吊灯篭の大師堂 楠の巨木 地獄の釜・薬師如来祠 一宮御陵

 

 

琴電 一宮→瓦町

17:30

 

BHアサノ

宇多津駅ホームで「瀬戸の花嫁」のメロディーが流れ、讃岐富士がくっきり

 

早々に起きだして、ホテルサンルート瀬戸大橋を出た。このホテルも、お遍路さんにはいろいろなお接待をしてくださるのですが、モーニングサービスは早朝のため間に合いませんでした。ホテルは宇多津の駅前なので、天皇寺のある八十場の駅まで列車で移動です。宇多津駅でも、列車の発着時には「瀬戸の花嫁」がメロディーとして使用されていました。駅のホームからは正面に讃岐富士がはっきり望めます。今日も好天に恵まれたようです。宇多津を発車して、坂出駅、そして八十場で降りて、目と鼻の先に天皇寺が・・・。静かな田園地帯のなかに建つ天皇寺は白峰神社と同居していて、山門がなく、代わりに白峰神社の鳥居が迎えてくれます。

 

 

 

79番 天皇寺

気品と風格を感じる朱色の鳥居・・・

正面奥の白峰宮を護るように本堂、

大師堂が参道左手に・・・

 

朱色の鳥居は屋根瓦付きで、柱は木製、下部は礎石で支えられている。3ヵ所からくぐれる三輪鳥居で、気品と風格が感じられる。鳥居の正面奥にあるのが白峰宮で、参道左手に本堂、大師堂、地蔵堂、鐘楼などを構える。納経所や本坊は、右手の方にあって、神社が寺の堂宇に挟まれた格好の配置となっている。

そもそも天皇寺は、保元の乱に敗れ、この地に配流されていた崇徳上皇が崩御。この時、都から葬儀の指示があるまでの約20日間、御遺骸を「八十場の泉」から湧き出る冷水に浸して保存し、腐損を防いだという。その後、上皇の冥福を祈願して白峰宮を建立、神宮寺となった寺は、天皇寺と呼ばれるようになった。明治の神仏分離で廃寺となったが、末寺の高照院が移り、高照院天皇寺となった。

 

さてさて、ここの見所は? 

今も絶えることなく清水が湧き出る

「八十場の水」にところてん屋さんが・・・

イチオシが、境内のすぐ西にある、今も絶えることなく清水が湧き続けている「八十場の水」である。神話の時代、瀬戸内海で悪魚退治をした日本武尊が、八十名の兵士と共に悪魚の毒によって倒れたとき、この泉の水を飲んで回復したという伝説から、この泉から汲まれた水を「八十八の水」、「八十場の水」と呼ばれるようになった。この泉のそばで、清水屋(きよみずや)さんの霊水で冷やした「ところてん」があまりに有名だが、残念ながら早朝のため営業はやっていなか

松の枝が横に伸びる仁王門・・・

った。でも、この泉で崇徳上皇の御遺骸を浸して保存したことを思うと、果たして食欲が出るかどうか・・・。

  

八十場の泉から、天皇寺を経て、八十場駅まで戻る。八十場駅は無人駅だが、切符を券売機で買えるからとご婦人に教えていただいて、慌てて切符を求めた。四国の無人駅では、列車に乗車した時に車内で切符を購入できたはずであるが・・・。国分寺駅で降りて、静かな町並みを抜けると、すぐに左手に松の枝が横に伸びる仁王門が見えてくる。

 

 

 

80番 國分寺

仁王門をくぐれば松並木が広がる・・・

天平の創建当時が偲ばれる本堂・・・

境内はご利益のデパートのように・・

 

奥行きのある仁王門をくぐり抜けると、本堂への参道の両側に縦に伸びた大小の松による並木が広がり、境内全域が国の特別史跡に指定され、創建当時の伽藍を偲ばせる金堂や七重塔の心礎・礎石が残っていることから、このまま天平時代にタイムスリップしたような面影を色濃く残す札所である。

そもそも國分寺は、741(天平13)年、聖武天皇は護国安泰を願って全国に国分寺、国分尼寺の建立を命じ、四国は行基が勅命を受け、讃岐國分寺が落慶したのは天平勝宝8年(756)と伝わる。創建時の寺領は約5万平方メートルの広大な境内を有し、南大門を入ると東側に七重塔、中央には中門、金堂、講堂、僧房など壮麗な七堂伽藍の堂宇が並んでいた。弘法大師が訪れ、本尊や伽藍を修復して霊場に定めた。戦国時代の兵火により本堂と本尊、鐘楼を残し、ほとんどを焼失した。その後荒れ果てていた寺を、高松藩の生駒氏、松平氏が再興し、現代に至っている。

さてさて、ここの見所とご利益は? 

さすがに古い歴史を持つ古刹だけあって、広い境内の彼方此方に、霊験あらたかな、ご利益がたくさん転がっているようなところある。

 

可愛い七福神の真ん中に弁財天・・・

「願掛大師」は金箔でキラキラ・・

金箔をたくさん貼れば良縁成就・・

 

仁王門から入るとすぐに、@四国霊場のすべての本尊をかたどった石像88体が参道の両側に並び、ミニ霊場巡りができる。 A香川県には、さぬき七福神があって、國分寺の七福神は紅一点の「弁財天」。美・徳・福にご利益があるといわれている。一つ目は、「お迎え弁財天」が参拝者を優しく迎え入れてくれる。二つ目は、本堂前の放生池の傍に、可愛い七福神さんが全員集合していて、真ん中が「お願い弁財天」。三つ目は、大師堂の中に木彫りの弁財天さまがいらっしゃる。 B縁結びの縁結社では、「願かけ金箔縁結び」なる若い男女の像に、金箔を貼ってお願いずれば、良縁成就は間違いなさそうです。金箔は1300円で納経所にて買い求めます。もちろん何枚貼っても構いません。 C数々の伝説を残す県内最古の国宝の梵鐘・一突き100円だそうです。 D大師像も、稚児大師、成満大師、へんろ大師、修業大師とあります。 Eお地蔵さまも、延命地蔵尊、水子地蔵、北向地蔵、もっと見たい方は千体地蔵堂もあります。 F怖そうですが、ご利益がありそうな願かけ不動明王。 G撫でながらお願いする「お釈迦様の仏足石」、けっしてこの上に物を置いてはいけません。 H龍の形をした枯れ木が横たわっていますが、大師が本尊の補修に使ったという霊木で、「福龍」と呼ばれています。でも、「霊木ですから絶対さわらないで下さい」と注意書きがあります。 I その他、春日明神、うすさま明王、閻魔堂、毘沙門堂、萬霊堂などあります。 そして最後に、天恢がイチオシするご利益は、お金のある方は、 大師堂の入り口にある金箔を貼られた J願掛大師像に、願を掛けながら金箔(1300円)を貼り付けると願いが叶うとか。 お金のない方は、放生池の傍にある K「水かけ地蔵尊」に水を掛けながらお願いしてください。 上記の通り、第80番札所國分寺は、「ご利益の宝庫、デパート」なのです!

 

次の札所への親切な掲示板・・・

心地良い松風にあたって、遥かいにしえの「天平の甍」を偲びながら、しばし遍路を忘れて思いに耽りたいが、今日も先を急ぐ身である。山門を出たところに「歩きへんろさんへ」の親切な掲示板がありました。「・・・一本道を登りきった所が81番と82番への中間地点です。地図のように81番へは車道を通り、82番へはへんろ道を通った方が近いです」とあった。どちらにも約2時間ほどとのこと。

これから向かう白峯寺への道のりは、6.5km香川県の霊峰である五色台はその名の通り五峯(黄峯・白峯・赤峯・青峯・黒峯)からなり、白峯寺はその最も西よりの白峯(標高377m)の位置に建っている。へんろみち保存協力会のお先達宮崎建樹さんが、『私は、國分寺から白峯寺を経て根香寺に向かう五色台の道は、山中を行く遍路道のなかでも三指に入る「いい道」だと思います。ちなみにほかの2ヵ所は、第12番札所焼山寺近辺と、第66番札所雲辺寺から第67番札所大興寺へ向かって雲辺寺山を下る道です。』と書かれているように、緑の山中を登ってゆく、素晴らしい風情のある遍路道である。

 

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行く手に五色台の山並みが・・・

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高度を増すごとに眼下の景色が・・・

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これが最後の「遍路ころがし」・・・

 

しかし、國分寺を出て、山道に入って、標高300mの標高差のある五色台を一気に上る道は急坂である。「遍路ころがし」はまだまだあったのです。息絶え絶えになりながら、天然の間伐材を使った木の階段を一歩一歩踏みしめながら、ときどき後方に広がる讃岐平野を眺めながら白峯寺を目指す。やっとのことで山頂分岐点に辿り着いた。

 

高貴な方でも降ろされた下乗石

 雨月物語にも書かれた七棟門・・

この先からは自衛隊の実弾演習場の脇を通る、広い舗装された県道を進む。車も少なく、野鳥の鳴き声や実弾の発射音を聞きながら歩く。県道を離れて、近道の遍路道に入ると兵舎を間近に見ることがでる。ここからは聖地であるからどんな高貴な者でも乗り物からおりて、自分で歩いて参拝しなさいという「下乗石」まで来れば、目指す白峯寺はもうすぐである。今の世では、裏道から入ることになるが、山門にあたる七棟門の前に佇む大師像が、参詣者を迎え入れてくれる。

 

 

81番 白峯寺

長い石段を上がったところにある本堂、

その右手に大師堂が・・・

 

高麗門形式の塀を連ね、5つの瓦屋根をもつ「七棟門(しちとうもん)」が山寺の趣を感じる。門をくぐると正面に護摩堂、左折すると勅額門、その奥には崇徳上皇の御廟、頓証寺殿が建つ。御陵はさらに裏手の方、大きな杉木立の中にある。勅額門の右手の石段を上がるにつれ、鐘楼、薬師堂、行者堂、そして本堂、大師堂、阿弥陀堂が並んでいる。

そもそも白峯寺は、弘法大師が白峰山に宝珠を埋めて井戸を掘り、衆生済度を誓願した。のちに、智証大師(円珍)が山の神である白峯大権現の神託を受け、瀬戸内海に浮かぶ不可思議な光を放つ霊木を引き揚げて千手観音像を刻んで安置したのが始まりという。白峯寺の名が広く知られるようになったのは、崇徳

高貴な方用のための御成門?

勅額門から頓証寺殿、奥に御廟

上皇の悲話であろう。白峯寺は、保元の乱(1156)で敗れて讃岐に流され、失意のうちに46歳で生涯を終えられた崇徳上皇を祀る。朝廷の命によって白峯寺の稚児嶽上で荼毘に付され、御陵が営まれた。上皇没後、都で天変地異が相次いだため、建久元年(1190)に後鳥羽天皇が上皇の霊をまつる頓証寺殿を建立した。以降、上皇の菩提寺となり、公家や多くの武将から尊霊された。

さてさて、ここの見所は?

崇徳上皇の供養塔である十三重石塔・・・

先ずは、山門の「七棟門」(国の重文指定)であるが、高麗門形式の七つの棟があり、屋根は左右から段々に積み上げられ、5つの瓦屋根を持つ珍しい門である。 次に、「十三重石塔」であるが、五色台スカイラインの展望台から参道を上る途中、杉木立の中に石の柵で囲まれた十三重石塔が二基立っている。「弘安」と「元亨」の銘を刻んだ崇徳上皇の供養塔で、これも国の重文である。実は、裏道からやって来たため気付かず、これを見損なってしまった。 おまけで、付け加えるのはかたじけないが、西行は、上皇崩御の3年後、歌を通じて親交のあった上皇を悼み讃岐路をたどり、御陵前に座した西行は、上皇を偲び、「よしや君 昔の玉の 床とても  かからむのちは 何にかはせむ」と歌を詠んだ。西行像は、西行が腰掛けたといわれる石の上に像を安置し、歌碑は七棟門近くにある。

 

そして、ご利益は? 

七つの棟と五つの屋根を持つ七棟門は、国の重要文化財・・・

勅額門の手前にある「玉章(たまずさ)の木」と呼ばれるケヤキの木が一本。都を偲んで崇徳上皇は、「啼けばきく きけば都の恋しさに この里過ぎよ 山ほととぎす」と詠んだそうです。すると上皇の心中を察し、玉章の木で鳴いていたほととぎすが、このケヤキの葉を巻いて、その中にくちばしに入れて、声が漏れないように鳴いていたか。巻いた葉の形が「玉章」(手紙)に似ていたというケヤキの木。この葉を懐中にすれば必ず良い便りがあると伝えられる。 もう一つ、白峯山は、本堂、大師堂、阿弥陀堂、行者堂、薬師堂などの諸堂に干支の守り本尊を祀り、それぞれに七福神の石堂を配しています。参拝客は、「お願い絵馬」を納めて開運厄除を祈ります。

 白峯山は杉木立が密生して、霊山の霊気が漂う深い山です。崇徳上皇の霊を慰めるような静寂を湛える札所であって欲しいのですが、それを打ち消すかのように白峯寺の諸々のご利益を拡声器でがなり立てるのです。「おいたわしや上皇さま・・・」、今の世も、日々このような騒音に耐えながらお眠りになっていらっしゃるのです。感傷に耽る間もなく、早々にこの札所に別れを告げることにした。

今は、京都の白峯宮に御霊は移され

しかし、後日の調査で、「幕末の動乱期、孝明天皇は異郷に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるため、その神霊を京都に移すよう幕府に命じ、明治天皇がその意を継ぎ、京都に社殿を造営し、慶応4年(1868)、御影堂の神像を移して神体とし白峯宮を創建した。」と、判明しました。 つまりは、上皇の御霊はこの札所にはいらっしゃらないのです。「♪〜私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません・・・」 遠くから、上皇の明るい歌声が聴こえてくるのです。

 

江戸時代の風情を現代に伝える古道であるこの道は、緑の木立に囲まれた山道が続き、野鳥や野仏を楽しめるハイキングコースにもなっている。峰を渡る風が心地よく木漏れ日の中を歩く。

 

昔の風情を伝える遍路道・・・

撮った写真に、偶然古い価値ある道標↑

道中には白峯寺から根香寺までの距離を示す丁石が当時のまま残されている。白峯寺の門前が五十丁(一丁は約109m)で根香寺まで歩くにつれてその数がだんだんと減ってゆくように置かれている。その内、古田と呼ばれている四十丁と大きな地蔵がある十九丁の二ヵ所に80番札所國分寺への道を示す道標が立っている。偶然?撮った写真の中に、古田の道標の写真があった。道標の「手形の向き」が面白いことや「指先と扇子で国分寺道を指示する手形」が凝っており、この道標に石工の意気込みが感じられる作品となっている。詳しくは、四国新聞社ホームページ「辿る」・「真念の道標」を参照されたし。

 http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tadoru/index.htm 

 

十九丁打ちもどりで記念撮影・・・

 爽快な気分で、十九丁へ。ここでウォーキングされている地元の方と出会って、この遍路道の素晴らしさを聞かせていただき、写真まで撮っていただいた。ここには有名な中務茂兵衛の道標があって、正面上部には「十九丁 打もどり」とある。これは白峯寺から根香寺まで打った後、十九丁まで引き返して國分寺へと向かう逆打ちの道順を示している。今日上って来た國分寺と五色台山上の途中に「遍路ころがし」と呼ばれる急峻な坂があるが、この坂を避けるため先に五色台山上にある白峯寺、根香寺を回り、その後國分寺への逆打ちの道順が出来たと言われている。これも詳しくは、同上の四国新聞社HP「辿る」・「十九丁 打ち戻り」を参照されたし。

 十九丁を後にして、空は青く晴れ渡り、爽快な気分で歩くが、こんな時は「好事魔多し」で、ミカン園から遍路道に入るところを見落としてしまって、ぐるりっと迂回する車道を歩かせられる羽目となった。残り700m2倍以上の距離となって一気に疲れが出てくる。広い境内の外回りを一周させられて、杉木立のなかに建つ、重厚な風情の仁王門に着いた。

 

82番 根香寺

大きな草鞋が掛っている仁王門・・・

境内の一番奥に本堂が・・

楓が多く、秋に大師堂も赤く染まる・・

 

大きな草鞋が掛っている単層の仁王門をくぐった後、いったん石段を下り、上りの参道を進みながら本堂に向かうという、一風変わった境内の造りである。下り終えてしばらく歩き、30数段の石段を上がると、右に役行者(小角)の座像と牛頭観音の石像が立つ、さらに石段を上がったところに左に納経所、右手に大師堂。そして参道をさらに上がると本堂である。本堂に入るには、コの字型の回廊式の「万体観音堂」を歩いていく形式になっている。

 そもそも根香寺は、開基は弘法大師。寺伝では、入唐前の空海が花蔵院を建立、五大明王を祀ったとされる。その後832(天長9)年、大師の姪の子である円珍(智証大師)が香木で千手観音を刻み、千手院を建立。この2院を総称し、根香寺と称したという。

さてさて、ここの見所は?

 

仁王門をくぐった後、石段を下り・・・

上りの参道を進みながら本堂へ・・・

どこかユーモラスな牛鬼さん・・・

 

参道沿いや境内にはカエデの木が多い。秋にはみごとな紅葉に染まる景勝地である。仁王門をくぐった後、いったん石段を下り、上りの参道を進みながら本堂に向かうお遍路さんの姿は、映画のシーンのような絵になるだろう。赤い大師堂と参道の間に、一本の木に五色に染め分けられた葉がつくという珍しい「五色のもみじ」の木もある。もう一つ、境内には、ある伝説にまつわる怪異な牛鬼の像がある。昔、この地に「牛鬼」と呼ばれる怪獣が住んでいて人々を困らせていた。そこで牛鬼の退治を命じられた弓の名人山田蔵人高清は根香寺の本尊に祈願し、見事牛鬼を退治して、その角を奉納し、その菩提を弔ったと伝えられています。仁王門の近くの繁みのなかに立つ頭は鬼、ギョロリとした目で、牙をむいて、恐ろしげであるが、どこかユーモラスな牛鬼さんである。

 

本堂でお参りする時にあった回廊式「万体観音堂」には、3万体の観音様

そして、ご利益は? 

となると、札所として殊更PRしているような点は見当たらない。ただ本堂でお参りするときにあった「万体観音堂」であるが、堂内には信者が寄進した3万体余りの手の平サイズの観音像が祀られ、暗がりのなか、ほのかな明りに照らされ、荘厳な趣をたたえている。ご利益が無ければ、これだけの観音像が全国から寄進されないはずである。無暗矢鱈と「ご利益物件」を創出する札所もあるが、こうして暗黙のうちにこころに通じるものは、真のご利益を感じさせられる。

 

間違ったミカン園から山門への道確認

軽い昼食をとった後、今度は迷わぬように山門からミカン園へ慎重に戻る。ここで、今日最後の札所の一宮寺へ向かうため鬼無駅へと向かう道をたどる。根香寺の建つ五色台青峯からは、なだらかに下り坂が続く。行く手の前方、右手には高松市内が広がり、瀬戸内海に突き出した屋島、海上に浮かぶ女木島、男木島などを一望しながらの遍路道を歩く。鬼無に近づくと盆栽作りの農家が目立ってくる。鬼無盆栽作りの歴史は古く、江戸時代からで瀬戸内海沿岸に自生する松を掘り、 鉢植えに仕立てて販売したことに始まり、現在では全国の松盆栽80%がこの地で生産されている。鬼無は、桃太郎が鬼を退治し、平穏が訪れたことから鬼無と呼ばれ、桃太郎伝説の発祥地の一つである。鬼無駅のホームに可愛らしい桃太郎軍団の石像があった。

 

瀬戸内海の島々を一望しながら・・・

 高松市内、屋島が眼下に広がる・・

鬼無駅のホームに可愛い桃太郎軍団

 

鬼無から列車に乗車したら、ナント善通寺で別れた伊達さんから声を掛けられた。思わず「奇遇ですね!」となる。伊達さんは、今日の遍路は打ち切りだそうです。明日、遍路で知り合った方のご招待があるそうで、時間調整とのことです。こうやって、「しんどい目」した思いの共有の輪がしぜんと広がっていくのですね。高松駅までご一緒して、駅前でお別れした。高松築港駅から琴電に乗って一宮駅で下車して札所を目指す。駅名が札所名なので、ほどなく水田に先に山門が見えてきた。

 

83番 一宮寺

 

こちらの山門は裏口なんです・・・

 こちらが立派な仁王門です・・・

境内の中央にランドマークの大楠が・・

 

山門をくぐって、境内に入ってから立派な仁王門に気がついた。最初に見えた門は「西門」で、琴電や駐車場利用者は西門から入ることになる。車社会になって、札所に必ず山門から入るということも薄れつつあるようだ。仁王門は、道を挟んで隣接する田村神社の鳥居と向かい合って建っており、神仏習合の名残をとどめている。堂宇や石像が肩を寄せ合うようにして建つ、こぢんまりした寺であるが、境内のほぼ中央には楠の巨木が大空にのびやかにを広げている。大楠は一宮寺のランドマークで、境内で写真を撮るとどこかに写っている。

 

本堂・堂宇や石像が肩寄せて・・

大師堂では太鼓でドーンと出迎え

そもそも一宮寺は、大宝年間(701704)に義淵僧正により開基され、はじめは大宝院と称し、法相宗に所属していたが、諸国に一宮が建てられたとき、義淵の弟子・行基により、讃岐国一宮となる田村神社が創建される。この時、隣接する寺が田村神社の別当となり、名も一宮寺に改められた。のちに空海が聖観音菩薩像を本尊として安置、堂宇は修築され、宗派も真言宗になる。江戸期になると、1679年までは、田村神社と一体の神仏習合の寺社であったが、高松藩主により田村神社とは分離された。

さてさて、ここの見所は? 

何たってこの札所のお目当ては、大楠の根元に薬師如来が祀られている小さな石の祠があるが、《「心がけの悪い人が地獄の釜に頭を入れると抜けなくなる」という言い伝えがある。これを聞いて意地悪なおタネばあさんは自分でやってみることに。頭を入れると石の扉が閉まり「ゴォー」という地獄の釜の音が聞こえてきた。慌てて頭を抜こうとしたが抜けない。おタネばあさんは今までの悪事を謝ると、するっと抜けた。以来、おタネばあさんは見違えるほどやさしくなったという。》 こんな由来があるそうです。

 

心がけの悪い人は頭を入れないように・・

岸信介元首相の揮毫で般若心経・・・

そんないわれで、心がけの悪い人が祠に頭を入れたら大変なことになるのですが、天恢は思い切ってチャレンジしてみました。頭を突っ込んで、耳を澄ますと、確かに「ゴォー」という音が聞こえてきました。さいわい頭も石の扉に挟まれず、難なく抜けてホッとしました。この祠は、お大師さまが戒めのため作られたのかもしれませんね。

もう一つ、ハスの花をイメージしたような石のモニュメントに、岸信介元首相の揮毫で般若心経の石碑がありました。晩年写経を欠かさず続けていただけあって、書に興味のある方は必見です。

そして、ご利益は? 参道の左右に厄除け弘法大師像と観世音菩薩像がありましたが、さり気なく立っている感じで、この札所の姿勢としてことさら商売気はなさそうです。

 琴電一宮駅へ戻り、高松一の繁華街である瓦町へ。ここで最寄りのビジネスホテルを直接交渉することにして、駅にほど近いBHアサノに泊まることになった。残り札所も5札所ともなると、いよいよ遍路も終わりに近づき、結願を意識する。夕食は、散歩を兼ねて繁華街の食堂で、今日は洗濯もせずに、眠りにつくことにした。              

 

 

参考文献『週間四国八十八ヵ所遍路の旅』(講談社)