天恢の霊感遍路日記 (松山〜結願編)

 

3回・2日目  52番:太山寺58番:仙遊寺  2009525(月)      

タイム

ポイント

備考 (見処&移動機関)

6:30

ホテル泰平

出発(松山市) 

 

 

伊予鉄 古町発 6:45⇒高浜着 7:00

7:408:15

52番:太山寺

鐘楼内壁の地獄絵 国宝・本堂 重文・八脚門 大師堂前の鐘石                      三重塔礎石  身代り観音 一の門〜三の門 

8:459:15

53番:円明寺

道標 キリシタン灯篭 本堂龍の彫り物 屋根瓦 団体さん多い

JR 伊予和気発 9:36⇒今治着 10:36

11:1511:35

55番:南光坊

石の道標 山門 芭蕉句碑      道に迷う

13:0513:25

54番:延命寺

山門 武家門 梵鐘 宝形造の大師堂 別宮の森 道に迷う

14:2514:40

56番:泰山寺

境内の石垣 本堂天井の龍の絵  不忘松 道に迷う

15:2515:35

57番:栄福寺

大師堂の彫り物 仏足石 奉納箱車 お願い地蔵 犬塚の石碑

16:15

58番:仙遊寺

仁王門 御加持水 千体地蔵 龍の本堂 修行大師像 千手観音 

 

 

仙遊寺宿坊 

 

古町駅には電車の操車場があって・・

遍路2日目、今日の天気も快晴である。「南無大師遍照金剛(3回) 有難うございました。」を忘れずに唱えて、フロントのお嬢さんが見送ってくれた。古町の駅まで真っ直ぐの平和通りを歩く。古町駅には電車の操車場があって、いろんな電車があって目を楽しませてくれる。古町駅から伊予鉄・高浜線の高浜まで15分の乗車。

 高浜の駅を出れば三津浜港に沿って歩き始める。青い空に青い静かな海、そこを行き交うフェリー。古くから栄えてきたこの港は、かねてよりお目当ての場所でした。

 

 

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三津浜は熟田津だったという候補地

古代への夢とロマンが広がる・・・

かの額田王が、百済救援のため朝鮮半島に向かう大和朝廷の軍船に、「熟田津に舟乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出な」と詠んで、遠征出発の大号令を掛けたとされる湊が、「熟田津(にぎたつ)」=三津浜の地ならば古代への夢とロマンがまた広がる。フェリーターミナルのところから細い山道に入って太山寺を目指す。この道は一の門、二の門と進む正規の遍路道と違って、裏遍路道のようで、いきなり本堂の裏手に出てしまった。

 

 

52番 太山寺

石段を上り、山門をくぐれば広大な境内

 正面に壮大な本堂(国宝)が迫る・・・

鐘楼内壁面に3枚の地獄・極楽絵が・・

 

太山寺は、12世紀前半頃、広大な境内に、七堂伽藍ならびに66坊を有する大寺であったが、今もその面影は十分残し、さまざまな伝承が残っている。裏道の裏口から入ったので、山門に回り、改めて山門をくぐると正面に壮大な本堂が目前に迫り、その独特ある風格に圧倒される。この威容を誇る本堂は、国宝で、鎌倉時代に建立されたものである。

そもそも太山寺は、寺の由来については、さまざまな伝承があるが、一つには、豊後の国臼杵の長者が、松山沖で海難に遭い、一心に「南無観世音菩薩」を唱えると、海は穏やかになったという。難を逃れた長者は、報恩のため、国許で木組みをした建材を松山に運んで一宇を一晩で建立する。それが太山寺の始まりと伝えられる。

 

先の芸予大地震で身代りに

痔の悪い方はタワシで・・

 さてさて、ここのご利益は? 

本堂の近くに「身代わり観音」が建っている。説明には、「山頂の奥之院に建っていた十一面観音像で、平成13324日松山沖でM6.7の芸予大地震に見舞われた際、震源地に向かって建っていたこの像が落下、身代わりとなって太山寺は不思議と被害が大変少なかった。」とある。地元の人々は、像が身代わりとなってくれたのだろう、と場所を改めてここで祀るようになったそうで、信仰を集めている。

 

もう一つ、風変わりなのは、三重塔の礎石の霊験。これを新品のタワシでこすると痔が治るといわれている。それと、鐘楼内の壁面には、3枚の地獄・極楽絵が描かれており、まん中は「閻魔大王のお裁き」で、その裁きの結果で「地獄行」か「極楽行」が決まるが、これもぜひ見ておきたい。

 

山門を下れば13仏を従えた大日如来様

 鎌倉時代の特徴を残す二の門

バスも車もくぐれる一の門・・・

 

おまけに、山門を下りれば、13仏を従えた大日如来像、尊像の前に用意された小石は、「一字一石」、一つの石にお経の一文字を書いて納めれば願い事が叶うと言われている。

「三の門」の山門から40数段下りてふり返れば、見上げるような山門の雄姿があった。納経をすませ、重文の八脚門で鎌倉時代の建築特徴を残している「二の門」である仁王門をくぐって、「一の門」へ。県道183号を真っ直ぐに進めば円明寺の開放感ある仁王門が見えてくる。 向かっていると団体バスによる遍路のご婦人から冷たい「缶コーヒー」のお接待を受けた。お遍路さんがお遍路さんにお接待! 世の中には親切なお遍路さんがいらっしゃるのだ。門前にベンチがあって、感謝しながらいただいた。

 

53番 円明寺

仁王門は八脚門、親柱4本控柱8本で

石畳をあるいて二層の中門くぐると

本堂には4mもある龍の彫り物が・・・

 

仁王門を入り、境内を進むと、本堂の前に楼門造の美しい姿を見せる中門が建っている。 そもそも円明寺は、聖武天皇の勅願により、行基が阿弥陀如来像を刻んで本尊とした起こりといわれる。のちに弘法大師が訪れ、諸堂を整えて霊場としたと伝えられる。

 

合掌するマリア観音像が・・・

両脇に龍の彫り物が施されている横柱・・・

さてさて、ここの見所は? 大師堂左奥には、江戸時代初めのキリシタン灯篭がひっそりと立つ。高さ40cmの十字架とも思える形の灯籠で、合掌するマリア観音とおぼしき浮彫の像が見られる。キリシタンとの関連は大正以降に語られ始めたそうである。それと、日光東照宮の眠り猫の作者・左甚五郎作と伝わる本堂の龍の彫り物は、川端龍子の四国遍路草描画にも龍があるところから、この札所のシンボルである。

 お参りが終わって、納経所へ向かうと団体さんなので混雑していた。納経所での混雑はあっても、これまで歩き遍路さんを優先してくれるので長く待たされた経験はなかった。順番を待つのだが、予定の列車を一便遅らせることにした。これが後々不吉な影を残すことになる。列車やバスの時刻を気にする時は、お参りの前でも許してもらうことにしよう。

 

おしゃれな建物・JR伊予和気駅

車窓から伊予北条付近の海岸・・

JR伊予和気駅から列車に乗って、美しい海岸線を走る。伊予北条は、松山市に併合されているが大きな町のようである。大西駅で降りたかったが今治まで乗車する。距離的に効率的であるということで、まず今治駅近くの第55番札所南光坊を打ち、「逆打ち」して第54番札所延命寺に回り、続いて第56番札所泰山寺に進むことにした。ところが、急性の方向音痴症になったようで、全く逆方向へ進んでしまって、親切な方たちに道を教えてもらいながら、駅の反対側にある南光坊へやっとの思いで辿り着いたが、いきなり境内の真ん中に入ってしまった。

 

 

55番 南光坊

 

そもそも南光坊は、四国霊場中、「坊」と名の付くところはここだけで、本尊は珍しい名前の大通智勝仏如来である。初めは今治沖にある大三島にある大山祗神社の別当24坊の一つとして創建されたが、海を越えての参拝が難しかったので、8世紀の初めに現在の場所に移されたという。

 

賑やかな雰囲気のある境内・・・

 大空襲で焼失後、再建された本堂・・

相輪と屋根の四隅が反る大師堂・・・

 

市街地の中心部にあるこの札所は、他の88ヵ所霊場とは違う町中の賑やかな雰囲気もあるが、太平洋戦争での空襲で本堂、薬師堂、鐘楼、庫裡などが消失したそうである。

 

もの言えば唇寒し秋の風・・

さてさて、ここの見所は? 一隅に芭蕉が訪れたとき詠んだという「ものいへは 唇寒し 秋の風」の句碑が立っている。 小さな説明書きに、芭蕉のこの句は小文庫にあるが、その前書に「座右銘」 人の短をいうことなかれ、己の長を解くことなかれ とあるが含蓄のある句と言葉である。

 納経をすませ、今度は山門から出ることになるが、巨大な二層の立派な山門で、山門を守護するのは、東方の持国天、西方の広目天、南方の増長天、北方の多聞天の四天王が立つ。剣、鉾、槍、棒の武具、甲冑で武装している頼りになる武将たちである。

 

頼りとなる武将に護られた山門

別宮大山祇神社の前を通って・・・

山門を出て、別宮大山祇神社の前を通り、左折するところを真っ直ぐ行ってしまい、また戻ることになった。市街地の札所巡りは私にとってどうやら迷路となるようだ。途中にあった「すき家」で、牛丼を注文して、しっかりと昼食をとった。まだまだ先が長い遍路である。

県道脇から右折して、遍路道を進むと延命寺の周辺に広がる水田、寺の堂宇が見えてくる。

 

 

54番 延命寺

先ず仁王門をくぐって境内に・・・

かつて今治城の城門であった山門・・・

 

左手に溜池のある参道を進み、仁王門の次が、明治時代に今治城から城が取り壊される際に寺が譲り受けたという武家風の山門である。山門の左手には薬師堂や納経所などがあり、本堂は正面にある。大師堂は本堂の手前を左折し、石段を上がった小高い丘の上の上にあった。

 

山門の奥正面に本堂が・・・

境内の一番高い場所に大師堂

そもそも延命寺は、元々は、第53番札所と同じ「円明寺」だったが、紛らわしい?ためか、明治になって延命寺と寺名が改められた。この寺は、行基が不動明王を刻んで本尊とし、安置したのが、寺の起こりという。その後、寺は荒廃するが嵯峨天皇の勅願により来錫し、弘法大師が堂宇を再建し、同時に近見山円明寺と名付けて、信仰と学問の中心道場とした。

 

近江二郎は大晦日に出番が・・

さてさて、ここの見所は? 寺には、「近見太郎」、「近見二郎」、「近見三郎」と、3代にわたって親しまれた梵鐘がある。太郎は、昔、長宗我部の兵士たちが鐘の音色の美しさに魅せられて略奪しようとした。すると、鐘が「いぬる、いぬる(帰る、帰る)」と泣き始め、自分で海に自分で海に沈んでいったという。二郎は、宝永元年(1704)、当時の住職が私財を投じて鋳造、奉納したもので、太平洋戦争時も供出を免れた強運の梵鐘である。音響、遠音ともに優れた名鐘で、今では年に一度、大晦日の除夜のみ美音を披露する。

 

天気も良くて、静かな境内でゆっくり休みたいが、先を急ぐことにした。遍路コースが逆だったり、変更だったりで、今治市街地を通り抜けるのは大変である。今治サティの先の信号で右折し損なって、どんどん歩いて行くと、自転車に乗ったお爺さんが追いかけてきて、正しい遍路道を教えてもらった。これまで見知らぬ人に随分助けてもらったが、昔と違って道路が多い分だけ遍路道はわかり辛くなってきている。前方にお遍路さんが見えたので、安心してついて行くことにした。住宅街の路地を抜けると泰山寺が現れる。

 

 

56番 泰山寺

高く組まれた石垣は圧巻・・・

安政元年に再建された本堂・・・

簡素な造りながら威厳がある大師堂・

 

泰山寺には山門がないが、高く組まれた石垣は圧巻で、石垣の上には、瓦屋根付きの白塀がめぐらされている。まるで城のような堅固な高台に堂宇を構えている。境内に入ると正面に納経所のある宿坊「同行会館」と真新しい庫裡が建つ。左奥にある江戸時代後期に再建された本堂は、境内全体の落ち着いた雰囲気を象徴するような佇まいを見せている。また、簡素な造りながらも、威厳のある大師堂も趣がある。

そもそも泰山寺は、弘法大師がこの地を訪れたるとき、梅雨のため蒼社川が氾濫していた。この川は、毎年のように氾濫しており、地元の人々は「人取川」と呼び「氾濫は悪霊の祟り」と恐れていた。大師は農民たちを指導して蒼社川に堤防を築き、川原に壇を築き土砂加持の秘法を七座厳修の秘法を行って、水禍を防いだという。大師は満願の日に現れた延命地蔵菩薩の姿を刻んで本尊とし、堂宇を建立したという。寺名は延命地蔵十大願の第一「女人泰産(安らかに産む)」に由来する。

 

この世の苦界から脱却できる地蔵車・・

仏の恩、自然の力、人の愛を忘れるな!

さてさて、ここのご利益は? 本堂前に4体の観音菩薩像が並んでいて、その傍らに六道輪廻の絆を断つ石製の「地蔵車」がある。人間は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天という六つの迷界(六道)で、生死を繰り返していることから、この地蔵車を回すことでその苦界から脱却するのである。

もう一つ、大師堂の前にある「不忘松(わすれずのまつ)」で、かつては暴れ川だった蒼社川、村人を指導して堤防を築き、祈祷して、平穏が訪れた時、大師は「仏の恩を、大自然の威力、人の愛を忘れるな」と人々を諭して、大師みずから御手植えされたという。大師ゆかりの名松はマツクイムシの被害で枯死した。現在の松は、三代目といわれる若木である。

おまけに、本堂の天井には、龍の絵が描かれている。雲上を翔る4本足の龍の表情は、見る者を笑いに誘うユーモアがある。本堂が開いていたら見ておこう。

 本日は7札所を一日でまわる強行軍であるので先を急ぐ。泰山寺を出て、蒼社川に突きあたって、かつては渇水期には川の中を歩くお遍路も多かったところだが、堤防沿いに歩いて山手橋を渡る。八幡山に沿うように田園地帯を歩いて行くと小さな山寺が現れる。

 

57番 栄福寺

境内全体が森に囲まれている・・

参道の正面奥に本堂が・・・

 

山門のない境内に入ると「大師像」と除災招福の「お願い地蔵尊」が迎えてくれる。境内の入り口に立つ「お願い地蔵」は、除災招福の願いをかなえてくれるという。ふっくらとした可愛いお顔のお地蔵様だ。瀬戸内海の海上安全祈願と福寿増長の祈願寺として栄え、石清水八幡宮と神仏習合の別当寺の名残で、境内全体が木々に囲まれ、本堂は古い社を思わせる。

そもそも栄福寺は、嵯峨天皇の勅願で、弘法大師が開基したと伝えられる。四国霊場開創のため、この地を訪れたとき、住民の依頼で、海難事故が多発する瀬戸内海の海上安全を祈願していると、満願の日に、海の中から阿弥陀如来の霊像が現れた。そこで大師は、その霊像を本尊として山に登り、堂宇を建て得て霊場に定めたという。

 

除災招福の願を叶うお願い地蔵尊

さてさて、ここのご利益は? この寺の伝説として、昔。薬師堂の前でフグを食べながら花見をしていた若者たちが腹痛を起こし、残ったフグを桜の木の根本に捨てた。翌日、寺に来てみると枯れてしまった桜の木を見つけた。これは薬師が身代わりになったと考えられている。それ以来、病気にならないように薬師堂のお薬師さんにあげられた線香の灰を持ちかえる人が後を絶たないといわれている。

 

本堂の両脇にある仏足石

もう一つ、見所として、本堂の縁には、15歳の足の不自由な少年お遍路が、この寺に来たら歩けるようになったという感謝の証拠品として、不要になった箱車を奉納している。それと、本堂の前の両脇にある仏足石は、インドのマハポーティー寺院にある菩提樹の足型拓本をとって、庵治石で造られたものである。

 

午後の日差しも弱まり、陽も傾いてきた。仙遊寺までは、ほぼ平たんな道が続き、徐々に上りになります。上り口に犬塚と池があって、古い言い伝えがのこっている。

《 第57番・栄福寺と第58番・仙遊寺の中間に犬塚池と呼ばれている池がある。昔、仙遊寺と栄福寺は住職が兼務していて、一人で往復するにはとても体が持たないので、一匹の利口な黒い犬が飼われていた。

 

犬塚には可哀そうな伝説が・・・

ワンちゃんを供養し、この池を犬塚池と・

仙遊寺で鐘が鳴れば山を駆け上り、栄福寺で鐘が鳴れば駆け下りて、寺の連絡をしていたそうです。ある日、二つの寺の鐘が同時に鳴ったため、犬はどちらに行けばよいのか分からなくなり、中間にある池に身を投げたそうだ。この犬を哀れに思った村人たちは犬塚を設けて供養し、この池をいつしか犬塚池と呼ぶようになったそうだ。 》

緑の濃い山道、つづら折りの続く急坂を進むと、左右の金剛力士像が睨みをきかせる仁王門が見えてくる。仙遊寺には、車道を離れて、この門をくぐって急な石段を500mほど上ることになる。

 

58番 仙遊寺

白っぽい左右の仁王さまが睨みをきかす

門からすぐにある大師ゆかりの井戸水・・

 

仁王門からすぐに上ったところに弘法大師ゆかりの井戸が残る。大師が井戸の水で加持し、病に苦しむ多くの人々を諸病から救ったという伝説の井戸である。ちょうど私が通った時もバイクで井戸水を汲みにいらっしゃった方がいた。

 

 そもそも仙遊寺は、天智天皇の勅命で、伊予の国主越智守興が開山。天皇の念持仏、千手観世音を本尊として安置したのがこの寺の始まりとされる。また、海から上った龍女がこれを一刀三礼して彫り上げたという伝説から作礼山とした。寺名の由来は、この寺に40年間籠って読経三昧の日々を送り修業した阿坊仙人が、諸堂を整えた後、雲と遊ぶがごとく忽然と姿を消したという話が伝承されたため「仙遊寺」と呼ばれるようになったという。 

二層屋根の重厚な本堂

修行大師像を囲んで・・・

さてさて、ここの見所は? 標高300mの山の頂にある境内には、千体地蔵、千体仏、岩戸観音像、子安観音像などが、いたるところに並んでいる。境内の片隅には、修業大師像がひっそりとたたずんでいる。その周りは、八十八カ所霊場の御本尊様の石仏が囲んでいる。

洒落たホテルのような仙遊寺の宿坊が今夜の宿である。今日は東京からの団体さんがたくさん泊まられるので、歩き遍路さんは、ご住職一家の住居の階下の部屋である。宿坊は広く、2階の会議場は、瀬戸内の海が見渡せる総ガラス張りの構造。書家や画家の個展、展覧会や各種のフォーラムなど開かれている。

夕食時は、宿泊者が一同に会して始まる。団体さんとは別に少数の歩きのお遍路さんと一緒になった。通し遍路の広島さんは泰山寺手前で見かけたかただった。それに大阪の70歳の食欲旺盛なベテランお遍路の大阪さんである。手酌酒を飲みながらの遍路の話で楽しい宴となった。 

明日の宿のことで、私は「丹原町の栄屋旅館に、これから予約を入れるつもりだ」と話したら、大阪さんが、「昔、あの宿で乾燥機のことで嫌な思いをしたことがあるので、あそこは絶対止めなさい」と、親切心でおっしゃってくださった。そこで、広島さんに横峰登山口の「湯の里小町温泉しこくや」を勧められたが、残念ながらそこは団体さんで満室なので断られてしまった。まぁ、ちょっと遠くなるけど丹生川駅付近には泊まるところはたくさんあることだし、明日の宿は明日考えることにした。

 

 

                                           参考文献『週間四国八十八ヵ所遍路の旅』(講談社)