天恢の霊感遍路日記 (松山〜結願編)
そもそも、四国遍路とは何か? 「発心」とは、人はなぜ、何のためにお四国の道を歩くのか?ということ。 「修業」とは、お大師さまの修業の足跡をたどって、88ヶ所の霊場を巡拝しながら、道中で自分が変わっていくこと。 「菩提」とは、遍路して、今まで分からなかった仏や自分というものが少しでも分かるということ。 そして、「涅槃」とは、幸せ。それも、みんないっしょに幸せになることを悟ること。
今回で、遍路も3回目となる。 夜行高速バスに乗るのも3回目となるが、乗り場は新宿で、行き先は松山である。毎度ながら神経質なので深い眠りは期待できない。しっかりとアルコールを確保して、窮屈な車内トイレの利用を避けて、パーキングエリアでの2回のトイレ休憩を利用して、快適な旅を心掛けた。
これまでの徳島に比べて松山は遠い、気がついた時は、大鳴門橋を渡り、徳島自動車道に入り、徳島の札所の熊谷寺や切幡寺、うだつの町並みで知られる脇町を過ぎて、AM5:00に「吉野川ハイウェイオアシス」というパーキングエリアにトイレ休憩で立ち寄った。
ここには開店前であるがレストランや物産センター・露天風呂などがある吉野川ふれあい館を中心に多くの施設が揃っている。 吉野川の傍で美濃田の渕を巡る観光遊覧船が運航しているとのこと。そして、松山市内に入り、昨年の遍路最終日が懐かしい道後温泉駅を通り、松山市駅に定刻に無事到着した。 久万営業所行の始発バスが出る松山市駅は、デパートもある伊予鉄やバスのターミナルで、休日の早朝でも賑わっていた。旅の身支度を済ませて、バスを待っていたら、お遍路姿の女性が急ぎ足でやって来て、「久万方面のバス停はここですか?」と尋ねたので、「そうですよ」と答えたら、「松山駅と松山市駅と間違えて、慌ててタクシーで来た」とのこと。これが私と佳代ちゃんとの出会いでした。確かにJR松山駅と松山市駅は初めて松山を訪れたひとには分かりにくい。地元の人は松山市駅を「市駅」と呼んでいるらしい。とにかく間に合って良かった、良かった。 で、やって来たバスに乗り込んだ。 佳代ちゃんは昨日高知より移動して、今日は大宝寺と岩屋寺を打ち、明日65番の三角寺を打てば結願だそうである。これまで苦労して休暇をとりながら、数回の区切り打ちでここまで漕ぎつけたそうである。 巡りやすい札所から始めたら、ところどころ空白ができて、最後はこういう日程になったそうである。順打ちでもなければ、逆打ちでもないので、「そりゃ、乱れ打ちだよ」と笑っちゃいました。車中で、佳代ちゃんの三角寺を打つには、久万の両札所を打ち終えて、松山に戻り、今日中にJR松山駅から予讃線で伊予三島まで乗って、そこで宿をとれば、明日はラクラク結願を迎えられると教えてあげた。そうこうする内に、バスは1時間余りで終点久万営業所に到着した。43番明石寺から歩くとなると60km以上の道のりで、いくつもの峠道を超える山中の道は、四国道中最大の難所とも言われている・・・。
久万は四国の軽井沢といわれる高原である。道を確認するつもりで尋ねたら、美術館のほうから回る道を教えてもらった。どうも地元の人は間違ってないのだが、遍路の道より生活実感のある車道を意識して教えてくれることが多い。参道に入ると鬱蒼とした杉木立の中を進む。中には樹齢300年以上の老杉がごろごろそびえており、地蔵堂からカーブした先に、大わらじを吊るされたどっしりとした仁王門が迎えてくれる。 第44番 大宝寺
もの凄い形相の仁王様がいる門をくぐり、石段を上がり、さらに40段の石段を上った正面に青い銅板葺きの本堂。右側に総檜造で、屋根は寄棟銅板葺きの大師堂がある。 そもそも大宝寺は、大宝元年(701)、百済の僧がここに草庵を結び、本尊の十一面観世音菩薩像を安置したのが始まりとされる。また、明神右京、隼人という猟師が、狩りの途中に十一面観世音菩薩像を見つけて安置したという説もある。寺名は、開創当時の元号にちな
み大宝寺と名付けられた。のちに弘法大師が訪れ、三密の秘法を行い、霊場となった。 お参りをすませて、石段を下りて納経所へ向かう。そこで納経の順番を待っていたら、応対する女性が記帳中に鳴っている受話器を取り上げ話し始めたのです。そんな抵抗感ある納経帳でも、いただく時は礼をして両手で受け取らねばならない。 さてさて、ここの見所は? 納経所の女性に放浪の俳人・山頭火の句碑の場所を尋ねたら、この下の階段脇にあるとのこと。 境内の片隅に「朝まゐりは わたくし一人の
銀杏ちりしく」の句碑がひっそりと・・・。
88ヵ所巡拝での真ん中にあり「中札所」とも呼ばれる大宝寺。帰路は、佳代ちゃんと同行3人で昔からの遍路道を通ると、幅も高さもある大宝寺総門があって、総門橋を渡って久万営業所まで戻る。 大宝寺から次の岩屋寺は、四国88ヵ所霊場で、基本的には一筆書きにルートができている遍路道が、ここだけは折り返しになる。つまり岩屋寺から、また大宝寺に戻ることになる。計画段階ではバス便は少なくタクシーの利用も覚悟したが、4月のダイヤ改正で、伊予鉄バスで岩屋寺を往復して、また久万営業所で松山市内方面へ移動に程よいバス便があって、大変便利になった。 8kmの山道をバスに乗ればわずか15分で岩屋寺の麓まで到着する。ここから本堂や大師堂まで、急な階段や坂道を300mほど上ることになる。
途中に茶店があって「まだまだこれからじゃ、岩屋の坂と人生は」の小さな看板が目を引いたが、私の遍路も「修業途中」であることを知らされる。その時、自転車で「日本一周」ののぼりを立てた青年とすれ違った。間もなく風雪に耐え抜いた山門が現れた。 この山門には「海岸山」の額が掲げられているが、傍らの石碑にその由来が・・・。 第45番 岩屋寺
山門を抜けると、45段の石段が続き、「百度石」の石柱がある。やたら不動明王の幟が目立つ参道を上っていくと、苔むした祈願や供養の石仏群がずらりと並び参拝客の心を癒してくれる。さらに真っ直ぐな上り坂が続いて、やっとの思いで本坊や鐘楼に辿り着く。本堂や大師堂はさらに一段上に建っている。本堂の裏手には絶壁の大岩が覆いかぶさるようにそそり立っている。岩屋寺には、「穴禅定」、「逼割禅定」、「鎖禅定」の行場があり、辺り一面に霊気が漂う深山幽谷の絶壁に抱かれた修業の道場となっている。 そもそも岩屋寺は、昔この山には法華仙人という神通力をもった女性が住んでいた。弘法大師が修行の霊地を探して入山すると、法華仙人は大師に深く帰依し、あっさりと一山を大師に献上して大往生を遂げた。大師は木と石の2体の不動明王を刻み、木像は本尊として本堂に安置し開創。石像は岩場に封じ込めて、山そのものを本尊としたという。 さてさて、ここの見所は? それは本堂より大きくて特徴のある大師堂である。建築史家の鈴木博之氏の解説によれば、
《 岩屋寺の大師堂を設計者は、愛媛県出身の河口庄一という建築家で、国会議事堂の設計にも携わっていた人物で、西洋建築にも通じていた。そのせいか、寺院としては破格も破格、不思議きわまりない細部に満ちたものとなった。正面の向拝と呼ばれる庇を支える柱は2本一組になっていて、その頂部にはバラの花のかたまりから花綱が下がったような浮き彫りが付けられている。柱と軒を支えるつなぎの部分には西洋建築の持ち送りのような装飾が施されている。周囲の手すりの柱には優勝カップのような飾りがつく。内部にはいれば柱の上の組み物が同心円状のリングになっている塩梅だ。こりゃあ、めちゃくちゃかといえば、それが不思議に納まっている。西洋のモチーフが和風の骨格のなかで破綻なく、じっと組み込まれているのである。わが国の建築家の創意のあり方が、いかに幅広かったかを教えている。 》 。 そんな理由で、「和風の中に破綻なく西洋を組込んだ」大師堂は、つい最近国の重要文化財に指定されて、きっと弘法大師様も喜ばれたことであろう。私も時間の許す限りこの大師堂を眺め続けた。 岩屋寺を後に、昼時でもあるので食事のためバス停に佳代ちゃんと戻った。ところが食堂はどこもお休みなのだ。日曜日だから? シーズンオフだから? 諦めようとしたら、佳代ちゃんが小さなお弁当を差し出して、一緒に食べようと言ってくれた。小さなおにぎりやオイナリをいただくことになった。佳代ちゃんと食事しながら、故郷や住まいや仕事や趣味について話した。天恢と違ってバリバリの現役で、歳もずっと年若い。今日からの私の遍路日程予定表を見せたら、「これは無理よ〜」とのこと。明日の結願後も遍路はこれからも続けたいそうだ。話はいつまでも尽きないが久万営業所行のバスが来た。 久万営業所に着いて、隣のお饅頭屋さんで「おくま饅頭」を買って来て、佳代ちゃんにお握りのお礼に2個渡した。ここを始発の松山市駅行のバスに乗る。佳代ちゃんはJR松山駅なので、親切な運転手さんが最寄りの駅を教えてくれることになった。佳代ちゃんはカメラを持っていない、写真も背後霊が写るので撮らせないとのこと。霊を信じる人がここにもいた・・・。私は途中の塩ヶ森で、浄瑠璃寺へ向かうため降りることになる。20分ほどで塩ヶ森に着いて、佳代ちゃんに手を振って別れを告げた。人生は出会いと別れのくり返し、でも別れの方が寂しい。佳代ちゃんの無事の結願を祈ろう。
塩ヶ森バス停で脇道に入るのだが、「塩ヶ森右浄瑠璃寺へ十八町」の道標から右に入るのだが、どんどん山を上がる道なので、農作業をされている方に道を尋ねたら、浄瑠璃寺には道を下って行くそうだ。10分ほど戻ってミカン畑を横切って、細い舗装道路を下っていくと地図にある池が続いたのでやっと安堵した。バスを降りたとき、女性のお遍路さんも降りたので、その時確認すれば良かったのに「後悔先に立たず」である。 浄瑠璃寺の近くで、「へんろ道体験クリーンウォークin三坂峠」の一行に追いついた。へんろ関連のホームページで知られている「掬水へんろ館」のイベント情報で、今日の開催は知っていた。久万高原町三坂峠から、46番浄瑠璃寺、47番八坂寺、別格9番文殊院を経て約10キロを歩くそうである。「ご苦労さま」と声掛け合って、山門のないため、皆さんと一緒にすんなり境内へ。
第46番 浄瑠璃寺
そもそも浄瑠璃寺は、行基が奈良東大寺の大仏開眼に先立ち、仏教宣布のため伊予を訪れた。浄瑠璃寺は、その時に行基によって開基されたと伝えられる。行基が薬師如来を刻んで本尊とし、日光・月光の両菩薩を脇仏として安置したという。寺号は、薬師如来の別名である瑠璃光如来にちなんでつけられた。その後、弘法大師が訪れた折、浄瑠璃寺は廃れていたが、伽藍を修復し、霊場になったという。 さてさて、ここのご利益は?
ここの境内に入ると、右に鐘楼があって、撞けば12の願いが叶うという「薬師十二願の鐘」とある。お願ついでに、本堂の左手にひっそりとたたずむ美貌や知恵の女神弁財天は、ただ一つだけ願いを叶えてくれる「一願弁天」とされている。また、境内にはさまざまな縁起を持つ石像、ご利益石が並び信仰を集めている。札所に仏足石は数あれど、裸足で踏める「仏足石」はここだけかも、踏めば健脚や交通安全がもたらされるとか。「仏手石」はあらゆる知恵や技能の祈願。撫でて心身堅固と文筆達成にご利益のある「仏手花判」(仏の指紋)、かつて釈迦が説法した霊鷲山の石を埋め込んだといわれる「説法石」は腰を掛けることができる。ほかに豊作や延命のご利益がある大きな?籾大師像、知恵の灯を掲げて人生を照らしてくれるという「燈ぼさつ」像、大師堂の堂内には「抱っこできます」という可愛い木彫りの大師像があったり、樹齢千年といわれる、樹高20mのイブキビャクシンの古木が根を張っている。 以上のように、数々の御利益があるとして信仰を集めている浄瑠璃寺は、親しみを込めて「ご利益のよろず屋」とも呼ばれている。そのため信心深いお遍路さんにとってお参りに多忙な霊場となっている。お参りやお願いに忙しかった浄瑠璃寺を後に、田園地帯の中を900m先の八坂寺まで歩く。 第47番 八坂寺
山門と一つになった橋を渡って、山門の天井を見上げると、天女たちに取り囲まれた阿弥陀如来が描かれており、参拝者を極楽浄土の世界へ誘っているかのようだ。 そもそも八坂寺は、歴史は古く、修験道の開祖、役行者(小角)によって開基されたと伝えられている。文武天皇の勅願寺として創建された際、伊予の国司が寺を建てるにあたって8ヵ所の坂道を切り開いて道を作ったと伝わる。寺号の「八坂寺」は、この縁起による。後に寺は荒廃するが、弘法大師により再興され、霊場としたという。
さてさて、ここの見所は? 銅葺き屋根に鉄筋コンクリート造り、堂の周囲に巡らした欄干のある本堂がどっしり構えている。その左側が大師堂で、本堂との間に八坂寺の人気スポット「閻魔堂」が建っている。両端に小さなトンネルの入り口があり、右が「極楽の途」、左が「地獄の途」となっている。内壁に極楽浄土と地獄の絵図が描かれ、「おまえはどちらを選ぶのか?」と問われているような気がする。
道に迷ったために予定時刻を遅れている。納経時間に間に合うように次の札所の西林寺へ急がねばならない。イベント参加者の一行の解散予定地である文殊院まで追い抜きながら歩くことになった。間もなく遍路の元祖衛門三郎の菩提所・文殊院徳盛寺が道路脇に現れた。こぢんまりした本堂と大師堂があって、
悪い因縁を切るご利益のある縁切り修行大師像、珍しい河野衛門三郎とその妻の像、文殊菩薩・大師おみちびきのレリーフが人目を引く。西林寺へ向かう途上には、衛門三郎の邸宅跡ともいわれていて文殊院を始めとして、ゆかりの深い霊場が続く。八ツ塚と呼ばれる衛門三郎の8人の子の墓、衛門三郎による遍路の携える納札の始まりとされる札始大師堂と続く。
ほどなく、普段の水流は伏流となって地下を流れるため水無し川の重信川を渡る、河川敷にたくさんの黄色い花が目につく、外来の植物でキンケイソウという花だそうだ。その昔故郷で、やはり外来のセイタカアワダチソウに泣かされたことを思い出した。生態系を壊すという理由で嫌われモノになっているようであるが、キンケイソウにとっては迷惑なことである。浄瑠璃寺を発って、見るべきものは見ての1時間で、遍路道の内川に架かる石橋「西林寺橋」を渡って仁王門へ向かう。門前の右側には玉を左手にして首をすくめてうずくまる柔和なお顔の白玉地蔵。左には、正岡子規が望郷の想いを詠んだ「秋風や 高井のていれぎ 三津の鯛」の句碑が立つ。
第48番 西林寺
仁王門をくぐると正面に本堂、その隣に新築間もない大師堂がある。小川に囲まれた西林寺は、川の土手より低い場所に境内があることから、罪あるものが門をくぐると、死後絶えることのない極限の苦しみを受ける無間地獄に落ちるとされ、「伊予の関所寺」と呼ばれてきた。大悪を犯した者とって怖い寺であるが、境内はきれいに掃き清められ、花木や石が配置された優しい寺である。 そもそも西林寺は、行基により開基されたという。四国を行脚中の行基が、伊予の国司・越智玉純に出会い、2人で語り合った末に徳威の里に堂宇を建立し、十一面観世音菩薩を刻んで本尊としたのが始まりである。その後、この地を訪れた弘法大師が、国司の越智宿称実勝と共に寺を現在の地に移し、伽藍を再興した。
さてさて、ここの見所は? 境内の隅に木々に囲まれた池があり、その上に鎮座されているのが「一願地蔵」である。このお地蔵様に祈願すると、一つだけ願いを叶えてくれるという。くれぐれも一つだけである。 午後5時前に納経も無事にすませて、久米駅と急ぐ。干ばつに苦しむ村人を助けようと大師が杖を地面に突き立てると水が湧き出たという奥の院「杖の渕」は次の機会に。それでも春は、日も長いので行動するのには助かる。久米駅から伊予鉄に乗って古町駅へ、そこから10分ほどで今夜の宿「ホテル泰平」である。奥道後温泉からの引き湯を堪能できるお風呂にゆったり入れるBHであるが、今夜は軽食サービスもついてラッキー。いろいろあり過ぎた遍路の初日、想い出や余韻に耽る間もない。コンビニへ出かけて朝食の準備をして、早めに床に入った。 考文献『週間四国八十八ヵ所遍路の旅』(講談社) |
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