天恢の霊感遍路日記 (土佐〜松山編)

 

2回・7日目 49番:浄土寺51番:石手寺  2008530日(金)

タイム

ポイント

備考 (見処&移動機関)

6:45

 

松屋旅館 0894-62-0013

 

 

JR 卯之町発 7:03 → 内子着 8:05

8:109:15

内子市内見学

 

 

 

JR 内子発9:39→松山着10:06

 

 

松山駅⇒バスで松山市駅⇒伊予鉄で久米

10:4011:00

49番:浄土寺

重文の本堂 仁王門・阿形の目

11:4012:00

50番:繁多寺

お大師様像 聖天堂(歓喜天堂)

12:4013:10

51番:石手寺

重文指定の仁王門、本堂など 渡らずの橋 本堂前の五鈷       衛門三郎の像

14:00

 

道後温泉本館(14:0015:30

 

 

バス 道後温泉16:17→松山空港16:55

 

 

松山発17:55→東京・羽田着19:20

 

 いよいよ第2回目の区切り打ちも最終日となった。土佐から伊予へと、いろいろあったが、過ぎてしまえば長いようで短い遍路旅である。 朝の食事の客のお世話は、老いて益々お元気で威厳のある大女将みずからである。大女将は、この宿の経営方針としてお遍路さんには無理を承知で、できるだけ泊っていただくように努めているそうである。「99の客からのお褒めの言葉は1つの不評で台無しになる」くらい厳しいものがあって、名門老舗旅館を維持していくには、日々たいへんな努力があるようだ。 

 

松屋を出て卯之町をゆっくり散策・・・

 江戸時代の面影がここかしこ・・・

開明学校はおらが町のシンボル・・・

 

少し早めに宿を出て、早朝の卯之町をゆっくり散策する。この町には、江戸中期からの建築様式が残り、白壁、うだつ、出格子など当時の面影を残す家も多く、宇和島藩の宿場町として栄えた当時の雰囲気を感じさせる。 中でも地方にありながら、少しでも文明開化に近づこうと努力した町民の、教育に対する熱い情熱が込められた開明学校である。明治15年に、舶来のガラスを使った擬洋風のモダンな校舎として新築されたそうで、私もここで学べたら、もう少しマシな人間に・・・。

 43番明石寺の次の札所は44番大宝寺であるが、44番と45番は次の区切り打ちでまわることにした。 今夕、松山空港から帰路に就くので、内子を見学して、松山市内に入り、49番から51番を打って、道後温泉本館で入浴を済ませるスケジュールを立てた。 昨日までは、「橋の上では金剛杖をつかない」という遍路の戒めが生まれた番外霊場・十夜ヶ橋を訪れたい気持ちもあったが、公共機関の異動では少し無理があるので断念することにした。 残念であるが、これまで無理をしなかったので、ここまで来れたんだと思う。

 

歌舞伎や浄瑠璃が今も内子座で・・・

 漆喰壁やナマコ壁の民家が残る・・

これは、きっと映画館かな?・・・

 

卯之町を出た列車には、通学する高校生でいっぱいで八幡浜まで賑やかだった。 内子で途中下車?して、江戸時代からの古い街並みの見学。 江戸から明治に木蝋生産で栄えた商家や民家、土蔵など白や黄色味を帯びた漆喰壁やナマコ壁などを備えた家屋が建ち並んでいる。 歌舞伎や人形浄瑠璃が演じられている内子座もある。 せっかくなので内子座の前で記念写真をと思ったが、時間が早すぎるのか? ここでも写真は撮れなかった。

 内子を後に、バスで松山市へ。バスで松山駅から松山市駅へ。松山市駅から伊予鉄で久米駅へ。久米駅から浄土寺はもう目と鼻の先の距離である。県道の脇から少し入ると、単層の仁王門が迎えてくれる。

 

49番 浄土寺

()が出るようにと仁王様の目を・・・

 室町時代の建造物である本堂・・

大師堂、ここは空也上人もゆかりが・・・

 

仁王門の左右にある仁王像は、木肌の虫食い跡が痛ましいほどに時代を感じさせる。門をくぐり、20段の石段を上れば本堂、その右隣に大師堂で、全体的にこぢんまりとまとまった札所である。本堂を正面から見ると台形をしており、簡素な一重、寄棟造の本瓦葺きで、和様と唐様を折衷した建築様式で、室町時代の代表的な建築物として国の重文に指定されている。 

そもそも浄土寺は、孝謙天皇の勅願所行基が創建し、のちに弘法大師が巡錫した際、伽藍を再興した。鎌倉幕府成立の建久3(1192)には、源頼朝が伊予の豪族河野通信とともに家門の繁栄を祈り、堂宇の修理に力を与えたという。

さてさて、ここの見所は?

大正10年建立の仁王門。向かって右側の阿形像の目は、昔、負け続きの博徒に芽(目)が出るようにと盗まれた目玉で、つい最近まで空洞のままでしたが、今はちゃんと仁王様には目玉がある。「芽が出るように」と目を盗むなんて、トンデモナイ人がいたんですね!

また浄土寺は、かつてこの地に3年間滞在した踊念仏の開祖、空也上人ゆかりの寺である。 寺を離れるとき村人に請われ自像を刻んだという。その「空也上人立像」が本堂にあって、これも国の重文に指定されている。 こんもりと繁る緑を背景にした境内の佇まいは、別世界のような落ち着いた雰囲気を漂わせて、去り難い札所であった。

 

 

「魚躍」と「鳥舞」と刻まれた石柱が・・

  浄土寺を出て、赤い大きな鳥居の前に、これまた大きな「魚躍」と「鳥舞」の二本の石柱が奉納されていた。 松山人はセンスのある方が多いとお見受けした。その日尾八幡神社を右折して繁多寺を目指すが、わずか1.7kmの道で別道に入って、お墓を過ぎて溜池に出てしまった。草刈り作業の方に尋ねると、繁多寺はあそこだと指差された先には小高い林の丘だった。道標が少なすぎる感もあるが、やはり手持ちの地図が悪すぎるからであろう。ちょっと回り道をして、なだらかな坂を上り山門に入る。

 

 

 

50番 繁多寺

御所の門になぞらえた山門(泉湧寺式)

自然に恵まれた景勝地に建つ本堂・・・

 

緑に囲まれた丘陵の中腹に建つ繁多寺は、本堂や大師堂の背後に木々が迫る、自然に恵まれた景勝地にある。広大な境内に、かつては七堂伽藍を有した大寺の面影が偲ばれる。

 

そもそも繁多寺は、孝謙天皇の勅願による行基の開基で、本尊は行基が刻んだと伝えられる座尺3尺の薬師如来で光明寺と称した。その後、弘法大師がこの寺に長く留まって、東山繁多寺と改称し、四国霊場に定めた。また時宗の開祖で、鎌倉仏教最後の祖師、松山生まれの一遍上人もこの寺で学問修業をしたと伝わる。一遍上人は空也上人を崇拝し、「捨聖」として諸国遊行し、賦算(お札を配ること)と踊念仏を広めたという。

さてさて、ここの見所は?

 

夫婦和合、商売繁盛の歓喜天堂・・

本堂の左手にある唐破風屋根のお堂は聖天堂(歓喜天堂)である。歓喜天は徳川本家からお下げ渡しになったものとか。夫婦和合、厄除け、商売繁盛、合格祈願にご利益があるといわれ、多くの参拝者が訪れる。 

お参りを済ませ、山門の方へ向かう時に、ご婦人からお菓子の接待を受けました。いつもこうやってお遍路を見送られているのだろうか? 納め札も渡さず、お礼を言って立ち去りました。 後で開くと「お遍路お疲れさま 道中お気をつけて 芳月」というメッセージの入いったお菓子でした。 何となく心までが暖かくなります。「繁多」とは程遠いゆったり、のんびりした静かな札所でした。

 

1318年建立の国宝・仁王門・・・

 次の札所石手寺への遍路道は、現在では松山市のベットタウンになって開発されているため、道も無数にあって、お遍路泣かせとなる。こんな時は、とにかく下へ、下へ住宅地を抜けて県道に出るのが一番無難である。石手川を渡り、ほどなく突き当りに石手寺の仁王門が見えてくる。

 

 

 

 

 

51番 石手寺

仁王門をくぐれば衛門三郎像がお迎え・・・

参道は屋根のある回廊形式に・・・

 

先ずは、参拝者やお遍路を衛門三郎の像が迎え入れる。その背後の参道は(屋根のある)回廊形式で、両側にお店が立ち並び、そして信者たちが4年に一度、うるう年に編み替える大わらじが掛かる二層の仁王門(国宝)がある。 仁王門をくぐると正面に本堂(重文)があり、大師堂はその右に建っている。三重塔や五輪塔、護摩堂、安産祈願の詞梨帝母天堂、鐘楼、銅鐘も重文である。

 

鎌倉時代に建てられた本堂・・・

大師堂は重文の本堂の右に建つ・・

そもそも石手寺は、聖武天皇の勅願により伊予の大守越智玉純が開創したという。翌年、行基が薬師如来を刻んで本尊とした。当時は安養寺と呼ばれていたが、弘仁4(813)弘法大師がここを訪れ、堂宇を整えて第51番札所にしたと伝えられる。

石手寺と寺号が改められたのは、寛平4(892)のこと。この改号には、お遍路の元祖「衛門三郎」伝説を抜きに語れない。

《 伊予国荏原の里に衛門三郎という強欲な長者が住んでいた。ある日、托鉢にきた旅の僧(弘法大師)の鉢を割り、竹箒で打つなど非常な仕打ちをすると、翌日から三郎の子どもたちが相次いで死んだ。これを高僧に対する悪行の報いと後悔した衛門三郎は、大師に謝罪するために、四国巡拝を始める。しかし、20度の巡拝を繰り返しても大師に会うことはできず、21度目の逆打ちをして、第12番札所焼山寺を前にまさに力尽きようとした時に、大師が現れ、「衛門三郎」と刻んだ石を左手に握らせ、その罪を赦すと、衛門三郎は微笑みを浮かべて安心して息を引き取った。のちに伊予の国・道後の豪族河野息利に長男が生まれるが、左手が開かない。河野家の菩提寺だった安養寺で祈念すると手を開き、「衛門三郎」の小石が出てきたことから、寺名を石手寺に改めたという。》

さてさて、ここの見所は?

 

怖い「渡らずの橋」は、渡らず、くぐらず・・

三重塔前のおびただしい千羽鶴・・

石手寺の七不思議の一つに、山門前にある「渡らずの橋」がある。この橋は大師が架けたもので歩くと足が腐るといわれている。近年の話だが、この橋の下をくぐった者がいたが命を落としたという。絶対に渡らず、くぐらずである。

他に、この札所は文化財が豊富で、ご利益もあって、松山市内にあって、道後温泉の近くであれば、石手寺に参拝者が多い理由であろうが、そればかりでは無さそうである。平和祈願や犠牲者慰霊のため三重塔前に奉げられたおびただしい千羽鶴を見て、日頃のご住職の仏教による熱心な宗教活動も見逃せない事実である。納経の際、仏教(涅槃への道)という小冊子をいただき、今も時々読み返している。ご住職は、「現実から目をそむけず、人生の思わぬ災難に真摯に対峙して、人は何を求め、どこに向かうのか? お大師様との同行二人で、悩み・苦しみの中で模索しながらの再生の道をはかる」と説かれている・・・。

 天恢も、阿波で「発心」とは何のために歩くのか?と気づき。 土佐でしんどい目にあって、初めて「修業」とは自分が変わるということを知り。 この伊予で「菩提」とは、今まで知らなかった仏教のことが少し分かったような気がした。第2回目の区切り打ちを、この石手寺で終わったことを感謝したい。次は、残りの伊予の札所を回り、讃岐で「涅槃」とは、幸福、みんなといっしょに幸福になることを少しでも悟りたい。

 

お遍路さんも立ち寄る道後温泉本館・・・

霊の湯3階個室で湯ったり気分に浸る・・

来年も、ぼっちゃん一行が待つ松山へ

 

石手寺を後に西に進むと、二つの番外霊場の義安寺と宝厳寺を経て、木造三層楼の道後温泉本館が見えて来る。道後温泉は、聖徳太子も来浴され、歴代の天皇・皇后も多く立ち寄られたとのこと。また四国で唯一お遍路が心身を解きほぐすことのできた場所でもあった。江戸時代中期まで、お遍路には3日間の湯銭が免除され、大変優遇され、老若男女、富む人も貧しい人もみな温泉に浸かっていた。私もご褒美に、先人たちが癒しを求めた場所で、ゆっくりと温泉に浸かり、旅の疲れをとることにしましょう。入口で「霊の湯3階個室」の入浴券を購入し、下駄箱の先で入浴券を渡すと3階の個室まで通される。個室には個人用ロッカーも用意されており、タオル、浴衣、お茶、坊っちゃん団子が用意される。この料金コースは皇室専用浴室である又新殿や坊っちゃんの間も見学できるそうである。浴衣に着替えて先ずは霊の湯に浸かりに行く。浴場はそんなに広くはないがちょっと高級感が漂うといった感じだ。霊の湯の入浴客は少ないようで空いていた。二つの湯口から透明な湯が注がれていて掛け流しになっている。時間制限があって滞在は80分であるが入浴・休憩には十分過ぎる。 

道後温泉から松山空港行きのバス便があって、30分ほどで到着した。搭乗の際のセキュリティーチェックで、ライターを提出と金剛杖を預けることになったのは仕方がなかったことである。飛行機だと遍路の余韻も楽しむ間もないくらい羽田空港に降り立った。

 

 

参考文献『週間四国八十八ヵ所遍路の旅』(講談社)