天恢の霊感遍路日記 (土佐〜松山編)

 

2回・6日目 39番:延光寺43番:明石寺  2008529日(木)

タイム

ポイント

備考 (見処&移動機関)

 

 

中村第一ホテル

 

 

土佐くろしお鉄道 中村  7:17 → 平田 7:40

8:108:25

39番:延光寺

眼洗いの井戸 赤亀の石像 仁王門

 

 

バス 寺山口 8:40 → 宿毛 8:56

 

 

バス 宿毛  9:37 → 平城札所前 10:15

10:3011:00

40番:観自在寺

八体仏十二支守り本尊 芭蕉の句碑 裏関所 カエルの石像

 

 

バス 平城札所前 11:25 → 宇和島バスセンター 12:22 

 

 

バス 宇和島バスセンター 13:10 →  石ケ鼻 13:43

14:0014:15

41番:龍光寺

神仏習合の名残赤い鳥居 三間のお稲荷さん 龍の目 狛犬

15:1515:30

42番:仏木寺

茅葺屋根の鐘楼 仁王門  家畜堂 タクシー移動

16:0016:30

43番:明石寺

仁王門と本堂 梛の木

17:00

 

松屋旅館 0894-62-0013

 

土佐16ヵ所札所で構成する「修業の道場」も、最後の霊場・第39番札所の延光寺である。前日、日程表を見ながら平田駅下車後、延光寺まで歩き、参拝して、寺山口のバス停まで1時間で済ませる強行軍となりそうである。中村駅を出る頃は、まだ小雨が降り続いていた。宿毛行の列車は通学する高校生で賑わっていた。

 

土佐くろしお鉄道の中村駅から平田へ

こぢんまりとした単層の仁王門が・・・

身支度を整え、しっかりポンチョを身に着けて、下車してからは、小雨の中を一目散で札所を目指した。天恢は腰痛の持病持ちのみであるが、こんな時には泣き言はいわない。確かに土佐は修業の道場である。2.8kmの道のりを30分で歩ききった。 

 

 

 

39番 延光寺

 

そもそも延光寺は、聖武天皇の勅願により行基が薬師如来を刻んで本尊とし開基した。後に弘法大師が訪れ、日光・月光の両菩薩を脇侍として刻み安置し、四国霊場札所に定めた。

 

正面奥に、こぢんまりとした本堂・・・

 これも、こぢんまりとした大師堂・・・

シンボルの梵鐘を背負った赤亀像・・・

 

さてさて、ここの見所は?

仁王門をくぐると、確かに梵鐘を背負った、カラフルな前掛けをした石の赤亀像が迎えてくれる。 縁起によると、境内の池にいた赤亀が、竜宮城から銅製の梵鐘を持ち帰り、この寺に奉納したという。山号の赤亀山は、この縁起に由来している。今では、この亀さんと20番札所の鶴林寺の鶴さんが結ばれ、鶴と亀札所のご朱印が、お遍路さんの白衣の背中に燦然と?輝くファッションが流行りとなっているそうである。

そして、ご利益は、境内にある「目洗い井戸」は、住民が水不足で苦しんでいるのを知り、大師が錫杖で地面を突くと清水が湧き出し、里人の苦境を救ったといわれている。今も眼の病気に霊験あらたかな井戸水として信仰を集め、この水で目を洗う人が絶えないそうである。 

 

何しろこの札所には15分弱しか滞在できない身の上である。早々にお参りをして、納経を済ませた。早朝のことで、札所に訪れる人は皆無であったが、もしかしたらご朱印をして下さった方はご住職かもしれない・・・。 ふとそんなことを思いつつ札所を飛び出して、10分足らずの早足で寺山口のバス停に着いた。それにしても、こんな遍路は嫌だ、厭だ、否だ・・・。延光寺界隈は宿毛市なので、バスに乗ってすぐに終着駅の宿毛駅に着いた。駅ビルには観光用の魚市場のようなお店があって賑やかである。時間があるので銀行ATMに立ち寄り、ついでに駅周辺を歩いて回った。

この土佐の遍路を終わるにあったて、たびたびこの遍路日記でも登場してきた野中兼山についてふれておきたい。この宿毛もゆかりの地で、兼山の死後、過酷な運命にさらされた遺族たちの幽閉地でもあった。兼山は失脚後、土佐山田に隠居して、わずか3ヵ月後で急死した。その兼山の死は、結果的に彼の評価を貶めることになり、辞職の際に兼山が一切の申し開きをしなかったことが仇となり、兼山を「罪人」と捉える動きが急に高まった。その反発の波は一族に及び、兼山の遺族は宿毛に幽閉され、男系が途絶える40年後まで、竹で囲まれて下界とは遮断された幽閉が解けることはなかったそうである。男系が絶え、生き残って放免された三人の女性のうち、四女婉は、高知出身の作家大原富枝の『婉という女』の主人公となっている。今なお土佐の地に息づく兼山が残した数々の業績。しかしその陰には、運命を大きく翻弄された家族の物語があったのだ。

 

 駅前のバス停で平城札所前へ行くバスを待っていたら、若い娘さんにお菓子の接待を受けた。東京から来たお嬢さんで、昨年この地を遍路したそうで、これから宇和島によって、福岡の友人を訪ねて、それから東京に戻るそうである。遍路で泊まったアサヒ健康ランドが閉鎖されていて寂しい思いをしたとのことである。いつの世まで永遠とは参らぬが、せめて88ヵ所の札所はいつまでも存在してほしいものである。バスは緑の山中の宿毛街道をひた走る。ここで土佐ともお別れで、いよいよ涅槃の道場「伊予」である。

 

平城山の額が、総欅造の仁王門・・

県境を過ぎれば愛南町で、わが親友の故郷である。平城札所前で着いて、東京のお嬢さんにお礼(と旅の無事を祈って)を言って降りたった。空はすっかり晴れ渡って青空が広がっていた。

 伊予での、打ち始めの寺は第40番札所観自在寺である。 第1番霊山寺からは、直線距離でもっとも遠く離れた札所であるため、四国霊場の「裏関所」とも呼ばれる寺である。バスを降りて、出店のミカンに惹かれて、ゆっくり平城小学校の脇を通って総欅造の仁王門に至ったが、仁王門正面には、さほど広くはない参道が続いていた。

 

 

 

40番 観自在寺

 

石段を上って、仁王門をくぐると立ち並ぶ8体の石像が見える。これらの尊像は十二支守り本尊の八体仏と呼ばれ、東西南北および北東、北西、南東、南西の守護仏とされる。なかなかの面構えの仏さまたちで、それぞれの仏前には柄杓が置いてあって、水を掛けながらお願い事をするそうである。本堂は銅葺き屋根の入母屋造で、鉄筋コンクリート建ての堂々とした佇まいである。向かってその右に建つ真新しい大師堂は平成5年の改築である。

 

銅葺き屋根の入母屋造の本堂

 これまた真新しい大師堂・・・

十二支守り本尊の八体仏がお迎え・・

 

そもそも観自在寺は、平城天皇の勅願所として弘法大師が開基したと伝えられる。その折、大師は一本の霊木から本尊の薬師如来と脇仏の阿弥陀如来、十一面観世音菩薩の3体を刻み、安置したという。後に、天皇を退位した平城上皇は、「薬子の変」で連座の罪に問われ剃髪出家し、その遺髪が納められたともいわれている。

 さてさて、ここの見所は?

 

目出度い縁起物で人気集める3カエル

これが観自在寺の観自在観音さま・・

仁王門の天井には十二支の方位盤

 

本堂に向かう石畳沿いには、カエルの石像が参拝客の目を楽しませてくれる。 大・中・小3匹の「栄(さ)かえる」というカエル像で、「親子孫と三(栄)かえる」「お金がかえる」「福がかえる」「病気が引かえる」とかで、「必ずひとなでしてお願いして下さい」と説明書きにある。何とも目出度い縁起物とあって、参拝者の人気者となっているようである。「無事に家族の許に帰れますように」と、私も静かに祈った。 

他に、88ヵ所のお砂めぐり」や芭蕉の句碑、病気平癒や厄除けのご利益があるという大師自作と伝わる霊木の宝判、仁王門天井の方位盤など、見所やご利益が多い札所である。

 

今は亡きわが親友が、年に四回の縁日にはお小遣いを貰って遊んだ参道・・

 納経を済ませ、仁王門から先ほどの参道に入る。この札所の近くで育った今は亡きわが親友は、縁日ともなると、この参道で遊んでいたそうである。記念に写真を撮ってもらおうと、人を待つのだがなかなか現れないのである。 参道には呉服店や旅館もあるのだが、人っ子一人通らないので諦めるしかなかった。 ところで、観自在寺の山号は平城(へいじょう)山で、平城(へいぜい)天皇にちなんで付けられたそうで、所在地名は平城(ひらじょう)である。

 

平城札所前から再びバスに乗って、宇和島市へ向かう。わが親友の故郷愛南町は美しいリアス式海岸をもつ宇和海に面している。その海岸線を見ながら走る車窓からの風景は、心なしかのんびりしており、大らかで明るい。 厳しかった「修業の道場」・土佐の遍路が終わって、ほっとして息をついたところである。バスに1時間近く乗って、宇和島バスセンターに到着した。昼時なので、ここで食事をと商店街に入るとお店のシャッターがほとんど閉まっているのだ もしや?地方都市特有のシャッター通りと心配したが、どうやら本日は一斉休業日であった。こうなると昼食は軽いもので済ませるしかない。

 

美しいリアス式海岸の宇和海・・・

宇和島商店街は一斉休業日のようで・・

石段の上には赤い鳥居が・・・

 

バスセンターは均整のとれた美しさで知られる宇和島城天守閣の真下にあるので、「灯台もと暗し」で、お城は見ることはできない。一日に数本しかない仏木寺方面のバスに乗るには、スケジュールの調整は厳しいものがなる。仏木寺行であるが、途中の龍光寺のある石ケ鼻で降りて、田舎道を15分も歩けば黒い大きな鳥居があって、民家が立ち並ぶなか参道を進めば、龍光寺の目印となる赤い鳥居が・・・。

 

41番 龍光寺

 

龍光寺は山門を構えず、正面の石段を上りきったところの赤い鳥居が目印となる。 この奥に、神仏習合の名残を伝える龍光寺の旧本堂、現在の稲荷神社社殿が建っている。 現在の本堂は、明治時代の神仏分離に応じて石段を50段ほど登って左手、大師堂は左手にある。 今も境内には、神社を特徴づける狛犬が迎えてくれる不思議な札所である。 

 

本堂には稲荷大明神も祀られている・・

こぢんまりとして風情のある大師堂・・・

そもそも龍光寺は、弘法大師がこの地で、稲を背負った白髪の老人に出会った。大師は、老人が五穀大明神の化身であるに違いないという霊感を得て、老人の尊像を刻み、ここに堂宇を建てて稲荷大明神として安置し、霊場としたと伝えられる。 この縁起から、この札所は昔から「三間のお稲荷さん」の愛称で親しまれている。一般的には「稲荷信仰」は、開運や商売繁盛のご利益で、商人からの篤い信仰で知られているが、もともとの「稲荷信仰」はイネの神様を祭る五穀豊穣の意味をもっていて、農業の神さまであった。

 さてさて、ここの見所は?

寺名の龍にちなんだ伝承にもとづく「龍の目玉」が奉納されている。その昔、この地の庄屋が川原で龍に襲われた。すると差していた腰の刀が自然に抜けて、ひとりでに龍の目玉をくり抜いたという。 この龍の目は、本堂で拝観できるようになっており、現在は「霊力」を封じられているため、見た目は直径10センチほどの、普通の丸い石だそうである。 ただ、ひとたび霊気を吹き込めば雨乞い石として霊験を持つとされている。

 

仏木寺までは、ハイキングコースで・・

遠くに茅葺き屋根の鐘楼が・・

次の札所の仏木寺には、すでにバス便が無いので歩くことしかできない。秋には「コスモス街道」となる31号県道は通らないで、田舎道を歩く。 途中に中山池があって、周辺はきれいに整備されていて公園となっている。1時間ほど掛かったが、天気も良く、春の陽光が降り注ぎ、気持ち良い午後のウォーキングである。やがて遠くに、札所には珍しい茅葺き屋根の鐘楼が見えてきた。 

 

 

42番 仏木寺

 

白壁の土塀の間に建つ門は裏門?のようで、そこから侵入してしまったが、修業大師像や観音菩薩像や七福神の石像がやさしく迎えてくれた。境内には本堂、大師堂、不動堂、聖徳太子堂など建ち並び、特に茅葺きの鄙びた鐘楼が郷愁を誘う。

そもそも仏木寺は、この地を訪れた弘法大師は、牛を引いて歩く一人の老人に出会った。勧められるままに、牛の背中に乗り、楠の大木の下に来ると、枝に宝珠が引っ掛かっている。それは、大師が留学先の唐から帰国する際に、有縁の地を願って密教の法具「三鈷」とともに東方に投げた宝珠であった。そこで大師は、その楠で大日如来を刻み、尊像の眉間に宝珠を入れ本尊とし、堂宇を建立した。一つの宝珠が縁となり、楠の木を刻んで本尊にしたことから、寺号を仏木寺とし、霊場にしたと伝えられる。

 

こちらの裏門から境内に・・・

茅葺き屋根の鄙びた鐘楼は札所唯一

堂々たる威容を見せる仁王門・・・

 

さてさて、ここの見所は?

仏木寺でひときわ風情がある鐘楼堂、霊場の中でも珍しい茅葺き屋根の鐘楼堂。これは、元禄年間(16881704)に再建で、実に300年以上もの歴史を誇る。

他に、ご詠歌に「草も木も 仏になれる仏木寺」と詠われるように、田園地帯の名刹で、他の札所にはない独特の雰囲気を持つ見所、ご利益がある。昔は農村には欠かせなかった牛、仏木寺の縁起はその牛にまつわる。本尊は牛馬の守護仏となり、寺は地元の人々に「お大日さん」と呼ばれて親しまれてきた。かつて村人は、牛を引いて参拝したとの話も残る。毎年7月の丑の日の「きゅうり封じ」には、南予一円から、多くの人がこの寺に詰めかける。人間や牛馬の身代わりのキュウリに、祈祷で病を封じ込めて、畑や土に埋めたり、川に流して1年の無病息災を祈る。牛馬の守護仏も近年はペットの供養で訪れる人も多いとかで、さらにその役割を広げている。

参拝が終わり、山門から出て、後ろを振り返ると、遍路沿いに堂々たる威容をみせる仁王門で、江戸時代に、宇和島藩、吉田藩の2藩主の祈願所だった往時の姿を残していた。

 いよいよ本日最後の札所・明石寺へむかうことになるが、もう午後3時半なので、これから山道を登って歯長峠を越えて卯の町まで10km以上歩くのは余りに厳しすぎるので、タクシーで移動することになる。門前のソフトクリーム売りの人の良さそうなお爺さんに10円渡すと公衆電話でタクシーを呼んでくれた。今日も100km近いハードな移動である。焦りと無理は禁物である。次の遍路では、歯長峠に至る最後の急な坂道の上り口に、「苦をとるか楽をとるか、胸三寸の分かれ道」と書かれた遍路標識があるそうで、ぜひ見てみたいものである。タクシーは曲がりくねった道を上り下りして、明石寺山門前に到着した。

 

43番 明石寺

 

かつて修験道場として厳粛な雰囲気を今に伝える仁王門。その仁王門をくぐると、鬱蒼とした樹木を背景に、唐破風をもつ向拝の張り出した部分と赤瓦の屋根の本堂が厳格さを醸している。本堂に向かって右手にある大師堂もこぢんまりとした印象であるが、造りと佇まいには風格が漂う。

そもそも明石寺は、欽明天皇の勅願により円手院正澄が千手観音像を安置、七堂伽藍を建立したのが始まりと伝えられる。紀州熊野から十二社権現を勧請。十二坊を建立し、修験道場となった。その後、嵯峨天皇の勅願で弘法大師がこの地を訪れ、荒廃した伽藍を再興し、霊場に定めたという。建久5(1194)に、源頼朝が命の恩人である池禅尼の菩提を弔うため阿弥陀如来像を安置し、経塚を築いて堂宇を再興し、山号を「源光山」としたと伝えられる。

 

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修験道場の雰囲気を伝える山門

向拝部分と赤瓦の屋根が特徴の本堂

造りと佇まいに風格が漂う大師堂・・・

 

さてさて、ここの見所は? 修験道場として厳粛な雰囲気を今に伝える仁王門と向拝部分と赤瓦の屋根が厳格さを醸し出す本堂に尽きる。

納経所は、仁王門の前にあって、納経を済ませて、もう一度仁王門と本堂をしげしげと見入った。どちらも屋根瓦は艶のある赤茶色で、日本とは異なる異国情緒もあって、さすが修験の道場であったことを彷彿させる不思議な霊気が漂っていた。ここを立ち去るのがもったいないような気がして、慌てて傍の参拝者のお願いして、写真を1枚撮っていただいた。 

明石寺は「めいせきじ」と読むが、地元の人は、大きな石を担ぎあげた「上げ石」の名の由来から「あげいしさん」または「あげしさん」と親しみをこめて呼んでいるそうである。ちなみに、所在地名は明石(あげいし)、住職名は明石(あかし)さんだそうである。

 

 

庄屋には過ぎたる門と咎められた鳥居門

松屋旅館には数々の著名人が宿泊・・・

 明石寺から今夜の宿まで、整備された山道を1kmばかり下りると、歴史と文化の宇和町卯の町である。宿に向かって歩いて行くと、先哲記念館の隣に、古い立派な屋敷が現れる。庄屋の鳥居半兵衛が建てたもので、とくに鳥居門は、庄屋には過ぎたる門であるとお咎めを受けたとされる。 四国にはどうしてこのような豊かな町が・・・、なんて野暮なことは言うまい。 これから住むなら、ぜひこの「卯の町」に住みたいと思う。今夜の宿は、創業が江戸時代という老舗宿・松屋さんで、犬養毅や尾崎行雄などの政治家も泊ったそうである。 江戸時代から続くぬか床でできる漬物は絶品で、夕食時に、ご当地の「開明」とういう日本酒と一緒にいただいた。宿は少々古いが、静かな雰囲気ともてなしは最高。 松屋さんはお遍路さんたちには人気の宿で、和やかな食事をいただいたが、姉妹らしきご婦人から、ぜひと言われたのが、泊まるなら88番の「竹屋敷」、修行するなら20番奥の院慈眼寺の穴禅定の話には興味が尽きなかった。2回目の区切り打ちの最後の夜を、この宿で過ごせたのはラッキーだった。

 

            

参考文献『週間四国八十八ヵ所遍路の旅』(講談社)