天恢の霊感遍路日記 (土佐〜松山編)

 

2回・3日目 33番:雪蹊寺34番:種間寺   2008526日(月)

タイム

ポイント

備考 (見処&移動機関)

10:00

 

高知会館

 

桂浜

校長とお母さんと連れだって見物

13:1513:40

33番:雪蹊寺

太玄塔 石仏群 山門が無く石柱 平成遍路石

14:5515:30

34番:種間寺

山門が無い 子育観音

16:30

 

よし幸 

 

 今日も快晴のようで、校長が33番札所の近くまで所要があるので、高知市屈指の名所である桂浜見物に連れていくとのことである。

 

月の名所の桂浜は、今日も晴天・・・

昨日はタクシー遍路のお陰で、計画より1、2ヶ所多く打てたので、校長のお母さんを交えてゆっくりと朝の食事を取った。

「♪南国土佐を後にして・・・」でしか知らなかった月の名所の桂浜は、岬の先端の石段を下ると、箱庭のような桂浜の風景が目の前に広がる。高台もあって、遥か太平洋を望むように、坂本竜馬の銅像が立つ。一帯は公園として整備されていて、見どころも多い。土佐犬の格闘技をみる土佐闘犬センターもある。

 

何たって竜馬は土佐代表

さすが、高知県を代表する名勝だけあって、土産、特産物の販売店や食堂が並んでいる。 散策したり、お茶を飲んで、しばし遍路を忘れてしまった。

お昼近くになったので、桂浜からバスで長浜停留所へ。そこで3人で食事を取った後、歩いて雪蹊寺まで。禅師峰寺から雪蹊寺に歩きで向かうと浦戸湾を渡ることになるが、ふつうは種崎・長浜間の高知県営フェリーを利用することになる。県道なので渡し賃は無料だそうで、通しの歩きお遍路も船の使用だけは認められているそうである。次回の楽しみとして残しておこう。

 

 

 

 

33番 雪蹊寺

 

ここも山門がなく、代わりに石柱門が立つ。門の脇に「人生即遍路」(山頭火)と刻まれた平成遍路石が立っている。 

そもそも雪蹊寺は、弘法大師の開基とされる。当初は真言宗の高福寺と称した。鎌倉時代に仏師の運慶と長男の湛慶が訪れ、本尊の薬師如来像のほか毘沙門天像などを安置したことから、慶雲寺と改称された。戦国時代には荒廃したが、長宗我部元親の命を受けた月峰上人が再興。慶長4(1599)、元親の死後は菩提寺となり、寺号を元親の法号「雪蹊怨三」にちなんで雪蹊寺と改めた。

 

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長宗我部元親の法号が寺名に・・・

山門の無いので、大師堂がすぐに・・

「心眼を開け」と大玄師は説く・・・

 

さてさて、ここの見所は?

雪蹊寺は、明治の神仏分離令で廃寺となったが、山本大玄が再建につとめ、大玄に救われた山本玄峰によって再興された歴史がある。境内には玄峰が太玄のために建立した「太玄塔」の石碑がある。太玄の養子嗣法となった玄峰は、若い頃に眼病に罹り、失明に近い状態で、裸足で七回遍路に出たという。この寺の前で行き倒れになり大玄に救われる。寺で通夜しているうち、出家の心を抱き大玄師に申し出ると、「親からもらった眼はいつかは見えなくなる、しかし心眼を開けばもうつぶれる事は無い」と答えたと言う。 玄峰師は紀州に帰り、妻と別れ、弟に家を譲り、その後修行して傑出した禅僧となった。 96歳の年で亡くなるまで17回遍路をされたと言う。

本堂は平成1611月に落慶とのこと、禅宗様の真新しい建物で、不思議と新しいものは身も心も新鮮な気持ちにしてくれる。いよいよ、すっかりお接待を受けた校長とお母さんと、ここでお別れである。記念写真を撮って、また一人旅の始まりである。

 

ゆっくり休めたのですこぶる快調である。新川川沿いに歩いて、次の札所である種間寺に向かう。 高知市の浦戸湾に注ぐこの新川川は、仁淀川流域の物資を高知城下へ運ぶ水路として利用され、城下の繁栄に寄与したが、この新川川整備にも、かの深くえぐれた室津岬港開削難工事を指揮した土佐藩家老野中兼山である。江戸時代初期の土佐で数々の偉業を達成した「野中兼山」とは何者であろうか? 

 

次の札所へ、野辺のお地蔵さまが・・・

高知県下では抜群の知名人であることは間違いない。実は、29番 国分寺の近くを流れている国分川の南方を並行するように流れる舟入川も野中兼山によって開削された川である。また、物部川河口の「手結内港」をわが国初の本格的「堀込み港」として完成させている。彼の栄光と挫折については後述するが、土佐を離れるまで因縁が続くのである。 

 遍路日和の好天である。 遍路標識もわかり易い。 野辺のお地蔵さまも優しく迎えてくれる。 新川川の本流?を渡れば春野町秋山、間もなく種間寺も見えてくる。

 

 

 

34番 種間寺

  

ここも山門がない札所である。 まぁ、四国は山門が鳥居の札所もあるくらい神仏混合が仲良くやってらっしゃるところであるから気にしなくても良さそうである。

 そもそも種間寺は、種間寺歴史は古く、敏達天皇6(577)頃、摂津国の四天王寺を建立するために、来日した百済仏師や工匠たちが、仕事を終えて帰国する途中に土佐沖で暴風雨に遭って難破。一行は、種間寺近くの秋山郷の浜に漂着し、無事に帰れるようにと薬師如来像を刻んで安置したのが寺の始まりとされる。その後、一行は無事に帰国。のちに、この地を訪れた弘法大師が、この薬師如来像を本尊として開創し、霊場となったという。この時、大師は唐から持ち帰った五穀(米・麦・栗・キビ・豆)の種を持参しており、この地が肥沃になるようにと種をここに蒔いたとされる。これが「種間寺」の寺号の由来となる。

 

ここも山門が無いので広々とした境内・・

 観音堂の奥に本堂が・・・

底の抜けた柄杓に囲まれた子育観音

 

さてさて、ここのご利益は?

本尊の薬師如来は昔から「安産の薬師さん」といわれるほど、安産にご利益があるといわれている。この寺にも、大師堂の手向かいには、安産の薬師如来にちなんで、「子育観音」が祀られている。観音様の左手には赤子を抱いている。慈愛に満ちた表情は一願に値する安産信仰につながり、参拝者たちを優しい気分にさせてくれる。観音像の周りには、底の抜けた柄杓が所狭しと奉納されている。妊婦が柄杓を持参して祈願すると、寺では柄杓の底を抜き、3日の間に御本尊に安産祈願をして、お札とともに願主の妊婦に返す。妊婦はそれを床の間に祀り、無事出産すれば柄杓を寺へ納めるのがこの寺のならわしである。柄杓の底を抜くのは「通りがよくなる」から、安産に通じるおまじないでもある。

 この種間寺は、今回の遍路で祈願の目的ある寺であった。家内の若い友人が8月に出産予定で、ここで特別に安産祈願を心掛けていたのだ。納経所で納経してくれた女性からお菓子の接待を受ける。 今夜はどこに泊まるか? 尋ねられて、三十四番奥の院近くの「よし幸」に泊まるといったら、「どうして、そんなところに? 次の清瀧寺の近くには宿泊所も多いのに・・・」と、不思議がられた。 種間寺の近くの「はるのの湯」が急にお休みになったためであるが・・・。悪い予感もするが・・・。

 

このトンネルを抜けると・・・

境内で紫さつまいもソフトクリームを買い求め、種間超トンネルの道筋を確かめる。寂しい道であるが、難なくトンネルを超え、待ち合わせ場所のお酒を販売している倉庫に着いた。そこの親父さんとビールを飲みながら地元に関わるよもやま話に花が咲かせた。ほどなく「よし幸」の親父さんが迎えに来た。親父さんどうしは仲の良い飲み友達のようだ。 「よし幸」の泊り客は私一人だった。

 

 

 

             

参考文献『週間四国八十八ヵ所遍路の旅』(講談社)