天恢の霊感遍路日記 (土佐〜松山編)

 

2回・2日目 27番:神峯寺32番:禅師峰寺  2008525日(日)

タイム

ポイント

備考 (見処&移動機関)

6:45

 

浜吉屋 

8:008:30

27番:神峯寺

真っ縦 みちびき弘法大師像 神峯の水 土佐の関所寺 景観

9:30

唐浜駅 

土佐くろしお鉄道 唐浜9:56⇒のいち10:47

11:1411:35

28番:大日寺

素朴な山門 本堂 爪彫薬師 居並ぶ地蔵尊

13:3514:25

29番:国分寺

重文の本堂 酒断ち地蔵尊             タクシー移動

14:30

旧国府跡

記念碑・紀貫之邸跡                 タクシー移動

14:4515:00

30番:善楽寺

山門無し? 梅見地蔵 子安地蔵         タクシー移動

15:2515:45

31番:竹林寺

夢窓国師の庭 五重塔と石仏群 本堂       タクシー移動

16:0516:20

32番:禅師峰寺

潮の干満岩 山門 不動明王像 船魂観音    タクシー移動

17:00

 

高知会館  夜、校長とお母さんと会食(お接待)

 

朝、雨も止んで、荷物を持って浜吉屋を645分出発。出掛ける前に、昨夜の青年へお接待の気持ちで2000円渡す。どうか頑張って、一歩でも前に進んでほしいものである。 

 

「真っ縦」を登り切れば土佐の関所寺

歩き始めて、今朝は持病の腰の調子が悪く、2,30m進んでは休憩しなければならなかった。天気はまずまずであるが、霞みに覆われたようで、残念ながら眺望は開けず、遍路転がしの真っ向坂を登ることになった。麓から標高差400mの場所にある土佐の関所寺である神峯寺。参道の途中の1km余りの急こう配は「真っ縦」と呼ばれる「遍路ころがし」である。近道でも、道悪の遍路道を避けて車道をひたむきに歩くことにしたためか、1時間余りで山門へ着いたのが不思議なくらいである。どうも昨日の金剛頂寺の道中の方が雨だったのでそちらの方が厳しく辛く思える。

 

 

27番 神峯寺

 

神峯神社の鳥居と並んでいる仁王門を入って、本堂までは150段のもの石段が待っているが、石段脇には疲れを癒してくれる美しい手入れの行き届いた日本庭園であり、花の名所でも知られている。

そもそも神峯寺は、 当初は天照大神をはじめとする諸々の神が祀られていたが、行基自らが、十一面観音像を本尊として刻み、神仏を合祀して開創。のちに弘法大師が四国霊場札所に定めたといわれる。

さてさて、ここの見所とご利益は?

 

美しい手入れの行き届いた日本庭園

本堂前のみちびき大師像がお迎え・・・

本堂へ向かう石段脇に、岩の間から流れ落ちる霊水「神峯の水」がある。病に伏し危篤状態に陥った女性が、夢に現れた弘法大師にこの水を飲ませてもらったおかげで一命をとりとめた。その後、女性がその霊水を探して四国霊場をまわ

土佐の名水「神峯の水」

ったところ、この神峯寺で見付けたという。現在でも、難所を歩いてきた巡礼者の喉を潤してくれるだけではなく、難所を越えて、この霊水を汲みに来る人が多い。

このほかに神峯寺には見処が多い、札所にはめずらしくパンフレットまで用意されている。みちびき弘法大師像、お迎え大師、不動明王像、なぜか気になる色とりどりの帽子や着物をまとったお地蔵様・・・と続くが、ここからの土佐湾の眺望の素晴らしさであろう・・・。 但し、晴れた日には、室戸岬やはるか足摺岬までも視界に入るそうである。

 

すっかり腰痛も癒えて、帰路は快調に飛ばせる。 神峯寺の参道は、焼山寺同様に大型バスでは入れない、団体さんはタクシーに分乗して上がって来られるが、助手席に乗ってらっしゃる方が必ずといって良いほど歩き遍路の私に挨拶されるのである。こちらも格好つけて片手略礼で応える。何となく「歩き遍路」はそんなに偉いのかなぁ? 錯覚しがちになる。たぶん助手席に座る方は心優しい方が多く、歩き遍路の苦労に報いるための挨拶であろうと勝手に理解することにした。

土佐くろしお鉄道の唐浜駅では、「アンパンマン」の作者やなせたかしさんがデザインしたキャラクター「へんろくん」が出迎えてくれた。この歳になって孫たちとテレビで「アンパンマン」を観ることが多くなったが、やなせさんは高知県出身である。 「アンパンマン」をたかが子ども番組と侮るなかれ! テーマソングで聞こえてくる歌詞に 《・・・♪ なんのために 生まれて なにをして 生きるのか  こたえられない なんて そんなのは いやだ! ・・・》 とあるが、子どもより大人に聞かせたい妙に含蓄のある歌詞である。 

一両編成の電車であるが、それなりに利用者もある。唐浜駅から海岸線に沿ってのいち駅へ。 のいち駅から途中にあるコンビニに立ち寄って昼食を買い込む。県道から遍路道に入り、かなりの急坂を上ると、壁がなく、柱だけの簡素ながらも重厚感のある大日寺の山門が現れる。

 

28番 大日寺

簡素ながら重厚感のある山門・・・

屋根が反っているのは平安建築の特徴

境内の一段高い所にある大師堂

 

大日寺は阿波13番札所と同名で、平安建築の特徴である屋根が反っている本堂には大日如来が本尊として祀られている。

そもそも大日寺は、聖武天皇の勅願により行基が開基し、本尊は行基自らが刻み安置したといわれる。

ご本尊より人気の爪彫薬師如来・・・

その後、この寺に訪れた弘法大師が、本堂から200m離れた場所に立っていた楠の大木に爪で薬師如来を刻み、奥ノ院としたといわれる。

さてさて、ここのご利益は?

 ご本尊より人気があるのが、奥ノ院にある大師が爪で彫ったとされる「爪彫薬師如来」である。首から上の目、鼻、口、耳などの病気に霊験があり信仰を集めている。ご利益を受けて病気が平癒した人は、穴の開いた石を奉納するのが習わしである。

 札所を出て、物部川の方向へ向かったが、道を間違えたようで、広い野市青少年陸上競技場を突っ切って、やっと堤防に辿り着いた。昨日とは打って変る、さんさんと陽光が降り注

物部川は水量豊かな清流である・・・

鮎釣りを楽しむ釣り人もいて・・・

ぐ青空の下の遍路である。物部川は香長平野を貫流する水量豊かな清流である。長い戸板島橋を渡りきったところで、土手に座って昼食を取った。川ではアユ釣りを楽しむ人もいて至ってのどかな景色が広がる。この橋のすぐ上流は旧土佐山田町であるが、この町の出身者でわが朋友「校長」と次の国分寺で待ち合わせることになっている。

ゆっくり休んでの出発である。少々暑いが快調に飛ばし、何人かのお遍路さんも追い抜いた。だが、こういう時は大抵「好事魔多し」で、土佐長岡駅を過ぎて、線路を越えて45号線に出たところで、左折してしまって

 

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重厚な国分寺仁王門が・・

後免駅まで逆方向に歩いてしまった。 民家はあるが、尋ねる人も出会えずに2km近くロスしたことになった。こうなると疲れがどっと出てくる。この件道沿いで超有名な山崎商店で、売り切れ次第終了する「へんろ石饅頭」5個ほど購入する。校長との約束の時間が迫ってくる。「ごめん」だけでは済まされない。上空にJAL便が高知竜馬空港へ定刻に降りるのが確認できた。29番の国分寺から高知市内の札所をタクシーで巡拝する「お接待」を受けることになっている。目印になる国分川を渡ると、こんもりと茂る森があって、重厚な二層造りの仁王門を持つ国分寺が見えてくる。

 

 

 

29番 国分寺

  

この土佐の国分寺も、阿波15番札所と同名であるが、他に伊予、讃岐にも国分寺は残っているので、札所には計4ヵ所の国分寺が存在する。この付近は古くから栄え、土佐国の政治・経済・文化の中心地である。国府が置かれたのは、肥沃な香長平野に住み着いた有力者や国分川という河川交通の便があったためである。

 

仁王門をくぐると、石畳が一直線に・・・

柿葺きで優雅な風情をたたえる金堂・・

重量感ある立派な大師堂・・

 

仁王門をくぐると、杉木立のなか、整然とした石畳が一直線に本堂まで続く。柿葺きで優雅な風情をたたえる金堂は国の重文。重層感あふれる立派な大師堂。静かで、落ち着いた境内の庭園も丹精込めて維持されている。 

そもそも国分寺は、行基が天平11(739)に開基した。聖武天皇が天下泰平、五穀豊穣、万民豊楽の祈願所と定め、金光明四天王護国之寺と号した。国分寺は、その略称である。後に、弘法大師42歳の時、こ

「ひとこと地蔵」が「酒断ち地蔵」と呼ばれるように・・

の寺で厄除けを祈願し星供(星祭り)の秘法を勤修して札所としたといわれる。

さてさて、ここのご利益は?

大師堂の左手に、「酒断ち地蔵」が祀られている。昔は、一つだけ一心に願い事をすると叶えてくれる「ひとこと地蔵」であった。ある女性が夫のお酒を止めさせて欲しいと願ったら、願が叶ったことから、「酒断ち地蔵」と呼ばれるようになり、 断酒を願う多くの人が祈願に訪れている。

校長とも予定通りに、この境内で会うことができた。 校長の好意で本日の高知市内の遍路はタクシーによる巡拝となった。 

 

 

土佐の まほろば ここにあり・・・

1000年以上も昔の紀貫之邸が・・・

国分寺を打ち終わって、次の善楽寺へ向かう前に、紀貫之邸跡に立ち寄ることにした。紀貫之邸跡と案内にはあるが、この地には奈良天平の時代から土佐の国府が置かれたところである。 国府の碑文に「土佐の まほろば ここに 都ありき」とある。 「まほろば」とは、すぐれた国、良いところの意味だそうだ。紀貫之は、5年間の土佐国司として、ここに居住し、93412月に任期を終えて、帰路この地を出発。天候に恵まれず10日間も室津(津呂港)で足止めを食って、翌年2月に京に帰るまでの55日間の船旅を、わが国初の仮名文日記で書かれたのが『土佐日記』である。 昨日の室津、そしてこの国府跡。 しばし、平安の御代に思いを馳せるのも一興である。

歩けば1時間半の道のりも、タクシーで移動すれば直ぐに高知市内、最初の札所・善楽寺である。

 

30番 善楽寺

  

この札所には山門や仁王門が無いため見通しが良く、広々としている。札所に隣接して土佐国一宮として崇拝される土佐神社があって、ここと並んで建っている。本堂は1982年に改築されたというが、真新しい外観である。 

 

山門のない広々とした境内・・

本家争いが続いた時代も・・・本堂

そもそも善楽寺は、恒武天皇の時代、一の宮(土佐神社)の別当寺として、弘法大師により建立された。明治の初め、神仏分離令による廃仏毀釈運動で、善楽寺もまた歴史に翻弄され、数奇な運命をたどった寺である。廃寺となり、寺宝は国分寺に預けられ、明治9年に安楽寺での代行。昭和5年善楽寺が復興。その後の30番の本家争い、安楽寺を奥ノ院とすることで一件落着は平成6年のことである。

 

 

梅見地蔵には学力向上を祈願する・・・

さてさて、ここのご利益は?

境内にある赤い前掛けをした「梅見地蔵」は、文化13年(1816)に造られたもの。もともと大師堂前の梅の木の下にあり、梅の花を仰ぎ見るその姿から、「梅見のお地蔵さん」と人々に親しまれてきた。このお地蔵様は、首から上の病気にご利益があると伝えられ、脳の病気(物忘れ、ぼけ、ノイローゼ)、目、耳、鼻の病気の平癒、また子供たちの「学業成就」「試験合格」の祈願を受け、名物地蔵となっている。

本堂と大師堂を写真撮影。これといって特徴のあるお寺ではないので、タクシーも待たせてあるので、早々に納経を済ませて竹林寺へ向かうことにした。

  タクシーでの巡拝は、確かに楽は楽であるが、どうも落ち着かないものである。 「遍路の楽しみは道中にあり」と言われているのも一理ある。「歩かないと見えないものがあるのではないか?」も事実であろう。歩きお遍路さんが、道中苦労しながら一歩一歩前に進んでいく喜びは、やったことのない人には理解できないことであろう。高知市内の中心部をタクシーで一気に通り抜けて、五台山(138m)の山上にある竹林寺に到着した。五台山は県立公園や牧野植物園もあって、週末ともなれば多くの市民が集まるため駐車場は混雑していた。 

 

31番 竹林寺

  

竹林寺は土佐屈指の名刹と知られる。柿葺きの屋根の落ち着きある雰囲気を醸し出す国の重文である本堂。いまや竹林寺の象徴的存在ともいえる総檜造の朱塗りの五重塔。室町時代の禅僧、夢窓疎石の手による名庭園。文化財の宝庫で、本尊の文殊菩薩を始め、藤原時代から室町時代にかけての仏像19体も国の重要文化財である。また、竹林寺は、春は桜、晩秋は紅葉が美しく境内を彩る。

 

構えもどっしりとした二層の仁王門・・

柿葺きの屋根の国の重文・本堂

大師堂は本堂の向かい側に・・・

 

そもそも竹林寺は、聖武天皇の勅命により唐(現在の中国)の五台山を象徴して行基により開基された。本尊の文殊菩薩は、行基自ら刻んだもの。その後、弘法大師がこの地を訪れ、五台山の五峰を、仏具の五鈷に、その間にある三つの池を三鈷に例え、竹林寺の堂宇を補繕、真言密教の霊場として定めたといわれる。

 

五重塔下の石仏群・・

有料であるが夢窓国師の庭園

さてさて、ここの見所は?

客殿の北側と西側に広がる庭園は、室町時代の禅僧、夢窓国師(疎石)の作。疎石は文保2(1318)から2年間、土佐を訪れて、五台山山麓に草庵を結び、作庭した。この庭園は池泉観賞式、北庭は山ぎわを利用した明るい南国の趣をもつ。西庭は中国江西省の長江を望む名山、廬山と鄱陽湖を模したとされ、静寂な世界が広がる。江戸

 

総檜造の朱塗の五重塔・・

中期に、一部に手が加えられたが、庭全体は県の名勝の指定されており、県内3名園にも数えられる。土佐屈指の名刹と知られるだけあって、その他見所の多い札所である。

 納経所で、高知市出身の校長が遍路道について訊ねていた。市民の多くはここに来るのには未整備の遍路道とは違うルートで来るためである。午後4時近くにもなって、本日の最終札所の禅師峰寺へ向かうことになるが、これもタクシー遍路のお陰である。ただ、竹林寺から禅師峰寺を目指す時、歩きお遍路さんは、五台山の山頂近くに建つ朱塗りの五重塔を何度も、何度も振り返り眺めるそうで、それが出来ないのが残念である。

 

 

 

 

32番 禅師峰寺

 

この札所は土佐湾を一望できる標高90m余りの小高い峰山の頂にある。お遍路たちは、ひたすら頂上を目指して、急な階段を上ることになる。道の途中には「屏風岩」と呼ばれる奇岩を背景に不動明王像が出迎えてくれる。そして、定明作の金剛力士像が睨みをきかせている仁王門である。この札所は、土佐の歴代藩主が海上安全を祈る寺であった。現代も海の男たちの信仰が篤く、地元では、峰寺(みねんじ、みねじ)の愛称で呼ばれているそうである。 

 

睨みをきかせる金剛力士像が・・・

 土佐湾に面して建つ本堂・・・

本堂の左手にある大師堂・・・

 

そもそも禅師峰寺は、聖武天皇の勅願により行基が開基。その後、弘法大師がこの地を訪れ、土佐沖を航行する船の海上安全を祈願し、十一面観世音菩薩像を刻んで本尊としたという。寺号の「禅師」とは、この場合、山岳修行者や辺路修行者のことである。

さてさて、ここのご利益は? ご詠歌にも「のりのはやぶね」とあるこの寺の十一面観世音菩薩は「船魂(ふなだま)観音」と呼ばれ、船人や漁師たちの信仰を集めている。江戸時代の藩主山内一豊を含め、歴代藩主は浦戸湾出帆する際には、必ずこの寺をお参りしたという。

 

♪土佐の高知のよさこい橋で〜・・・

どうも、この札所での参拝を急いだようで、滞在時間も短く、撮影した写真もわずか3枚のみであった。 本堂前の、芭蕉の「木枯らしに 岩吹き尖(とが)る 杉間かな」の句碑も見なかったし、境内からの白砂青松の海岸線が弧を描く土佐湾の景色も見なかったのでちょっぴり寂しさも残る。

タクシーで本日の宿である高知会館へ、高知城の近くである。宿で一息入れて、校長のお母さん宅へ。途中、坂本竜馬生誕の地の記念碑を訪ねる。土佐の高知の播磨屋橋での3人で記念撮影。 黒潮市場での会食。これも校長のお接待である。 感謝・感謝。

 

 

参考文献『週間四国八十八ヵ所遍路の旅』(講談社)