天恢の霊感遍路日記 (土佐〜松山編)

 

昨年(2007年)の春、初めての遍路で、阿波一国23寺を巡礼することができた。 2度目の区切り打ちともなると少しは準備や日程表作りに余裕がでてくる。しかし、土佐は距離としての道中が長すぎる。阿波のようには歩き中心の日程は組めなかった。「電車やバスで移動、時々歩き」で遍路するしかない・・・。

 

第2回・移動日

2008523(金)

21:45

渋谷マークシティ 

徳島行き夜行バス エディ 発車

 

徳島行き夜行バスは、我が家(横浜)からだと渋谷が一番近くの乗り場となるため、昨年の品川からと変更して渋谷へ直行、乗車時間が1時間近く遅くなって助かった。マークシティ周辺にはまともなコンビニが見つからず、アルコールの購入に支障が出た。お茶のサービスあり。 昨年と違って途中で2か所ほどサービスエリアにトイレ休憩を採り入れていた。ただ、サービスエリアではアルコールの販売はなかった。車中では、昨年同様深い眠りに就くようなことはなかった・・・。

 

第2回・初日 24番:最御崎寺26番:金剛頂寺  2008524(土)

タイム

ポイント

備考 (見処&移動機関)

6:30

徳島駅

徳島行き夜行バス エディ 到着

 

 

JR 徳島発 6:47⇒海部着 9:34 

 

 

JR 海部発 9:43⇒甲浦着 9:54

 

 

バス 甲浦駅発 9:59⇒室戸岬着 10:49

 

 

弘法大師行水の池⇒歩き30分   御蔵洞と神明窟  

11:2612:00

24番:最御崎寺

仁王門 鐘石 鐘楼堂 多宝塔 

 

 

室戸スカイラインのヘアピンカーブ 紀貫之泊の碑 室津港景観

14:0514:30

25番:津照寺

125段石段途中の鐘楼門 今昔物語・霊験譚

15:3515:50

26番:金剛頂寺

校倉造の霊宝殿 一粒万倍の釜

 

 

バス キラメッセ室戸発 16:45⇒東谷入口着 17:16

17:30

 

浜吉屋

 

夜行バスはAM6:30 徳島駅着予定であったが、定刻10分前に徳島駅に到着した。土佐の一番札所である24番最御崎寺のある室戸岬へ向かうため徳島発647分発の牟岐線海部行きに乗った。

 

眉山の麓に広がる徳島市街・・・

車窓から懐かしい田井の浜が・・・

とうとう鯖瀬から先に遍路ができる・・・

 

車窓からは、昨年来の徳島市内、徳島市のシンボル眉山、宿泊した旅館みどりのある南小松島、22番札所平等寺の最寄駅である新野、風光明媚の海岸線が広がる由岐、23番札所薬王寺のある日和佐、接待所で名高い牟岐、番外札所鯖大師のある鯖瀬を通過しながら、懐かしく思い出して一路南下する。新野あたりから降り出した小雨も、南下とともにだんだん強くなってきた。徳島駅より3時間以上掛かって954分に牟岐線終着駅の海部に到着した。

海部駅で第三セクター阿佐海岸鉄道に乗り換え2つ先の甲浦(かんのうら)駅へ。ここはもう高知県である。「発心の道場」から「修業の道場」へ。数名の乗客が降り立った甲浦駅で、バスを待つ間の時間に駅の方に観光案内をしていただいた。甲浦は、かつて神戸港からフェリーも連絡していた賑やかな漁港だったそうである。定刻より出発が遅れたバスには遍路のみ3名が乗車した。 歩き通し打ち遍路さんにとって最初の難所である室戸岬。そこに向かって雨中に歩くお遍路さんの姿を申し訳なさそうに見ながら・・・。 雨の中バスは水しぶきをあげて、夫婦岩やエボシ岩を通り過ぎた。 

 

昔、神戸からフェリーも来航した甲浦・・

室戸岬へのバス車内にはお遍路が・・

道を間違って大師行水の池へ・・・

 

若き青年僧空海が悟りを開いた屈指の霊場である御蔵洞と神明窟を訪ねるために岬ホテル前でバスを降り、傘をさして歩き始める。ところが「弘法大師行水の池」の案内板に惑わされて海岸線の道を歩いてしまった。「行水の池」は見たが、必見の御蔵洞は通り過ぎていた。時間もないので泣く泣く諦めるしかない。1200年前にお大師様が修業された「海鳴りがこだまする洞窟」は次の巡拝の折に必ず訪れることにしたい。初めての遍路では見落としや見逃しが多々ある。お遍路さんの多くが何度も巡拝するのは、これまでの「足らざる遍路」を補うためなのかも知れない。

55号線から最御崎寺への上り口に入る。海から160mの高さにある札所まで、鬱蒼と生い茂る亜熱帯樹林のトンネルが続く急坂を一気に登ることになった。腰に持病のある天恢にとって歩き始めは堪える。息が上がって「ハァーハ、ハァーハ」と激しい息遣いとなる。 雨で昼なお暗い登り道で、こんな時は何かが起きる? 生後間もない子猫に突然出くわしてしまった。空腹のためか「ニャアニャア」、「ニャアニャア」・・・と、

 

やっとの思いで辿り着いた修行の道場、土佐の一番さんの仁王門・・・

うるさく泣き叫んでいる。こちらも負けずに「南無大師遍照金剛」を唱える。 「ニャアニャア」、「ニャアニャア」・・・、「南無大師遍照金剛」、「南無大師遍照金剛」・・・、「ニャアニャア」、「ニャアニャア」、 どこまでも子猫は泣きながら追いかけてくる。こちらは息も絶え絶えで、少しでも遅く歩くとずぶ濡れのやせ衰えた子猫が足元にすり寄る。この絶体絶命のピンチを途中で休まれていたお遍路さんが可哀そうにと子猫に食べ物を与えてくれて、やっと解放された。 やっとの思いで子猫ちゃんを振り切って雨が降り続く最御崎寺の山門に辿り着いた。上り口から山門までは340mしかないのだが、私にとっては長く遠い道のりだった。 

 

 

24番 最御崎寺

お遍路を迎えるように石仏が・・・

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雨中の境内での写真撮影は厳しい!

 

「発心の道場」から「修行の道場」へ。土佐国高知の「一番さん」である。晴れた日であれば山門から本堂や大師堂もはっきり見えるはずであるが、せっかくの土佐の一番札所は、生憎の雨でどこも霞む景色しか見えないのである。 

そもそも最御崎寺は、嵯峨天皇の勅願により、唐から帰朝した弘法大師が、この地を再び訪れ創建し、虚空蔵菩薩を刻んで本尊にしたといわれる。

 

冥土まで響くといわれる鐘石・・

さてさて、ここの見所は?

弘法大師の七不思議の一つとされている「鐘石」は安山岩の石で、叩くと鐘のような音がする。この響きは、冥土まで届くといわれる。石の横には、国沢新兵衛が詠んだ「かりそめの 石にてあれど かつうては かねかとまがふ おとのたかくも」と書かれた看板がある。

境内での主だった建物の写真撮影を済ませ、早々に混み合う納経所でご朱印をいただくが、雨の日は納経するにも難儀する。やっとの思いで納経所を出るため戸を開けたら、「ギャーア」、何とそこにはあのずぶ濡れの子猫が・・・。 「ニャアニャア」、「ニャアニャア」と泣きながら入って来たのである。まぁ、お寺では可哀そうな子猫も虐待はされないだろうから、「三十六計逃げるに如かず」で、這這の体でこの場から離れるしかなかった。次の参拝の折には晴れて、室戸岬の観光も含めて再訪を願うものである。

 

それにしても室戸岬の雨は豪快で、断続的な大降りである。最御崎寺からつぎの津照寺へ向かうには、室戸スカイラインのヘアピンカーブを下ることになる。これは確かに絵になる風景である。 海岸まで下りたところで国道脇の遍路道に入り、昼食のため食堂に入りカツカレーをいただく。 食堂を出る頃は雨もすっかり上がっていた。歩いていると現役の友人であるM氏より携帯に電話が入る。 「ただ今、遍路中」と告げると「いいなぁー」と、羨ましがられる。申し訳ないと思いつつ、遍路できるわが身を感謝するしかない。

 

確かに絵になるヘアピンカーブ・・・

津呂港の貫之と野中兼山の碑が・・・

深くえぐれた港を見てびっくり仰天・・

 

また、雨が降ってきた。今度は土砂降りで、せっかく脱いでいたポンチョを室戸岬小の校庭で身につけた。歩き始めてすぐに、紀貫之泊の碑のある室戸岬港(津呂港)である。初めてこの港を見た印象は、「なんだ、こりゃー」のびっくり仰天である。横浜のMM21にあるドックガーデンを大規模にしたような石積や岩盤で囲われ、深くえぐれた掘込み港湾である。どのようにして築かれたのか? 難工事であったと素人目でも想像できる。「紀貫之泊舟所の碑」と並んで「野中兼山開鑿之室戸港碑」があるが、この難工事を指揮した土佐藩家老の野中兼山は、修業の道場である土佐を遍路すると、折にふれて出てきた土佐を代表する人物であった。この難工事と、そして、平安の御代に紀貫之が立ち寄ったとされる湊に思いを馳せる景観である。写真撮影もままならぬ降りしきる雨の中、高い岸壁がやけに目につく室津港まで来ると、小高い丘の上に、今も多くの漁民たちの信仰を集める津照寺が現れる。

 

25番 津照寺

雨中でかすむ石段と門・・・

 

雨降りしきる中、本堂へ向かう長い125段の石段を雨水が滝のように流れ落ちてくる。 石段の途中には、この札所の見所である竜宮城を思わせるような朱塗りの鐘楼門が建っている。別名「仏の灯台」とも呼ばれているが、雨中では、それも霞んで見える。やっとの思いで本堂へ、ここから見える最高の室津港景観もこれでは台無しである。

そもそも津照寺は、弘法大師により開基された。大師は、海上安全と豊漁を祈願し、一刀三礼(一刀刻む毎に三度礼拝)して、延命地蔵菩薩を刻んで安置し、堂宇を建立したと伝えられる。

 

左手に石段と鐘楼門がかすかに・・・、右手に大師堂と納経所が・・・。

本尊は、別名「楫取地蔵」とも呼ばれている。慶長7(1602)、土佐藩主山内一豊が室津沖で暴風雨で難破しかけた。その時、一人の僧が現れて舵を取り無事に帰ることができた。翌日、この寺に訪れると、本尊の地蔵菩薩はびしょ濡れだったといわれている。また、寛保2(1742)の大火の時も、本尊が僧の姿となり人々を避難させ救ったといわれ、海上の安全と火難除けに霊験があるといわれ信仰を集める。

雨が容赦なく吹き込む本堂でのお参りもソコソコに立ち去るしかない。 階段下の納経所でご朱印をいただき、本日最後の金剛頂寺へと急ぐ。

大草鞋の仁王門がお迎え・・・

 

 当初の巡拝計画では4kmの道程を歩き45分で金剛頂寺へ着くつもりであったが、これは明らかに無理であった。初めての道で、この雨と登り道で1時間以上は掛かりそうである。残り500mの近道の案内板からは、ぬかるみの道の急坂で、「ハァ、ハァ」と息をはずませながらの上り道である。こうなると自慢のゴアのトレッキングシューズもまったく役に立たない、シューズの中まで水が入ってくる。 最後に長い厄坂の石段を上り切ると仁王様の代わりに大草鞋が奉納されている仁王門に辿り着いた。

 

 

26番 金剛頂寺

 

金剛頂寺は、「東寺」とされる24番最御崎寺と向かい合っており、通称「西寺」と呼ばれている。小さく突き出た行当岬の台地上(海抜150m)に建つ霊場、昔は修行僧たちの「行場」となっていた岬である。西寺の行当岬と東寺の室戸岬は約9kmで、二つの岬で湾を形成して、その真ん中あたりが津(照)寺の室津湊である。

そもそも金剛頂寺は、弘法大師が草創した最初の寺といわれる。大同2(807)に、大師が勅願寺(のち

緑の樹海が広がる境内に雨が降る・・

伝説の「一粒万倍の釜」が・・・

鎮護国家の道場)として創建、本尊の薬師如来を刻んだという。創建当時は金剛定寺といったが、嵯峨天皇が金剛頂寺の勅額を奉納したことから、金剛頂寺に寺号が改められた。

 

 

さてさて、ここの見所は?

海に向かって建てられている大師堂の近くに「一粒万倍の釜」と呼ばれる、1m四方ほどの大きさの釜が置かれ手いる。大師が三合三勺の米を入れて炊いたところ、万倍の量になった窯だと伝えられる。

これからバスに乗るため不動岩まで降りるとなると時間的な余裕はあまり無い。ここでも短時間で御経を上げて、納経を済ませた。 疲れと雨の中での写真撮影も面倒でやる気が出ない。見るべきものも見ずに金剛頂寺を後にしなければならなかった。 

 

キラメッセ室戸の海もかすむ・・・

今度は下りの遍路道がわからなくなった。 誰もいない、亜熱帯樹林の中は夜の暗さで、雨が降り続く。怖い思いをしながらとにかく海岸線へ向かって降りていくことにする。雨中で下り道の遍路道が川になり足がズブ濡れである。こうなるとそんなことには構わずどんどん歩くしかない。歩き30分で新村不動とはどうも違うところに出た。そこは道の駅「キラメッセ室戸」、食やクジラに関する情報を得る場だそうだが、夕刻で雨のためか開店休業の状態であった。

 ここでバスを待つ。暗黙の了解か地方の路線バスは定刻よりかなり遅延する。ここで乗り遅れると・・・。不安がよぎるが待つしかない。雨中で10分以上遅れたバスにやっと乗ることができた。 濡れたポンチョを脱ぐのも嫌なので、乗客の少ないバスであるが、断って立たせてもらった。吉良川などの町並みも見えず、奈半利町を過ぎ、時々お遍路さんを見かける。30分ほどの乗車で、東谷入口でバスを降りると、すぐに今夜の宿「浜吉屋」があった。

 「浜吉屋」は、まぁ、有名な割に値段程度のサービスしか期待できなかった。 リュックカバーを使わなかったので、着替えの衣類まで濡らしてしまい。乾燥機が無いので乾かすのに苦労することになった。

歩き遍路の皆さんと一緒に夕食。 東京から来た遍路の青年と話し込む。一番からの歩き遍路を始めて、そろそろ東京にも戻らなければならないし、岩本寺まで行けたらと願っているが、宿泊代も不足しているとのこと。それぞれのお遍路さんが、いろんな思いで遍路されているのだ・・・。

2回目の区切り打ちの初日、土佐はまっこと「修業の道場」である。誰もがしんどい思いをするのは当然かもしれない。水浸しになった足は、ふやけてしまって、爪は充血していた。今日は、これまでも、これからでも「一番長い遍路日」になるに違いない。そして、この日の実体験は、これまでの自分自身の遍路を一変させる修業そのものであった。中途半端な気持ちでは到底遍路はできないとつくづく思い知らされた。

 

 

                            参考文献『週間四国八十八ヵ所遍路の旅』(講談社)