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天恢の霊感遍路日記 (阿波編)
遍路3日目にして、初めての「遍路ころがし」の難所にチャレンジすることになる。天気はまずまずで、6時から 朝食である。身支度を整え、6時50分に旅館吉野を出発する。 宿を出る際に、オカミサンに記念の写真を撮っていただく。 「南無大師遍照金剛(3回)有難うございました。」・・・ ちょうど7時に藤井寺から焼山寺への道に入った。いよいよ「唯一残された空海の道」と言われる昔ながらの遍路道で、別名「遍路ころがし」に挑むことになる。天恢には持病があって早朝の1時間程度は調子が出ない身体である。急な木の階段を上って山道に入ると四国八十八ヶ所巡りの祠がずらっと続く。それは藤井寺の「ミニ西国三十三ヵ所」と「ミニ四国八十八ヵ所」で、西国三十三ヶ所は10分ほど、八十八ヶ所は40分で巡礼できるそうである。木々に囲まれた順路は、深い山あいと渓流の水清き仙境の魅力が充分に感じられる。そこからさらに急な上りの連続で、後続の何人ものお遍路さんに抜かれてしまった。仏木寺の彼女も一気に私を抜き去った。 後姿にサヨナラ・・・。
見晴らしの良い場所に出た。そこが端山休憩所で、ここは休まず通り過ぎることにした。ここには東屋があり、北に鴨島の町並み、吉野川、北岸の町々、阿讃山脈がよく見晴らせた。 「あっ、あれが阿波富士と呼ばれる高越山か・・・。歩き始めて1時間も過ぎれば、調子もダンダン良くなってくる。山登りは、最初が一番の急坂となるが、後の高低は体調さえ良ければその苦労が少ない。
歩き始めて1時間半で、長戸庵に着いた。 藤井寺と柳水庵の中間地点で「ちょうどあんばいがいい」所にあることから名がついたと由来されるだけあって、休むにはほど良い休憩所である。お堂もあって、お参りして、記念に納め札を納めた。1時間ほど歩いて9時半に柳水庵に着いた。ここで休憩されたお大師様が、附近に水がないため、柳の枝を取って加持をすると、清水が湧き出したそうで、山中の難所には欠くことのできない恵の水となって、今も遍路の心身を慰めている。 15分ほど休憩して、歩き始めたら、途中で野宿遍路の年配者に出会った。方が急に足が痛くなったそうで、後続にどんどん追い抜かれて心細い思いになったようだ。とにかく焦りは禁物で、こんな時は速度をマイペースに戻して、足の疲労の回復を待つしかない。柳水庵の先にある遍路小屋で別れたが、彼のことは後々まで気になった・・・。
やがて、焼山寺への遍路道での最高地点一本杉庵こと浄蓮庵にたどり着いた。階段の上の大きな杉の木の下で、大きなお大師像が「おォ、やって来たか!」と、声を掛けて、待ち構えていらっしゃるようで、ここは霊験あらたかな聖地のように感じる。手のひら広げたように枝をのばす、霊気に満ちた老大木、ここで休んでいた第40番札所観自在寺を発願の野宿専門の青年とちょっと話す機会ができた。若さと体力があればこそ、大きな荷物を担いで回ることが出来ると痛感する。「ここのお堂の中にある千手観音像はスゴイですよ」と教えられて、お堂の隙間から恐る恐る写真を撮った。
この浄蓮庵から、今度はどんどん急坂を下って行く。せっかく苦労して上ったのに勿体ない、下ってしまったら、また上ることになります。(だから「遍路ころがし」なんですね。) 正午前に左右内(そうち)集落を過ぎた。典型的な過疎集落のようで、お昼時なのに人の気配がない。いよいよ最後の急坂を登るハメとなった。結構急坂は長くて、だらだら続く。昼時なので、いざ昼食を取るとなると、こんな時に限って、なかなか適当な場所が見当たらない。何とか道外れの空間を見つけて20分ほどの短い昼食を取ることにした。 再び元気を出して、ラストスパートである。歩く途中で、先ほどの観自在寺発願の青年に追いついて、同行する。これまでの遍路道の難所では、横峰寺は道のりが長く相当厳しかったそうである。早朝7時前に宿を出て、6時間で目指す焼山寺山門に到着した。決して遅い方ではないが、歩き遍路を目的とする人たちより、1時間近く遅いペースで、彼(女)らは長い距離(1日3、40キロ)を平気で歩けるようだ。
第12番 焼山寺
山門で青年に写真を撮ってもらって、本堂で別れた。彼もこの遍路できっと何かを得ることになるだろう。境内は天然記念物級の老杉の大木がごろごろしている。大蛇の伝説のあるこの寺にはことさら霊気を感じる。 そもそも焼山寺は、修験の祖役行者小角が山を開き、蔵王権現を祀り、庵を結んだのが開基といわれている。この寺には大蛇の伝説がある。その昔、山中に魔性の大蛇が棲み、火を吹き、山を焼いて村人を苦しめていた。大師が修行のためここを訪れたときも全山火の海であったという。大師が垢離取川で身を清め、印を結んで登ると火は消えたが、9合目の岩屋では、大蛇が大師に飛びかかった。その時虚空蔵菩薩が現れ、大蛇を岩屋に閉じ込めたという。大師自ら三面大黒天を彫り、岩窟の上に安置して以来、天変地異がおこらなくなったという。また大師は、本尊の虚空蔵菩薩を刻み、寺号を大蛇の火の山にちなみ焼け山の寺と名付け、山号は梵語で水輪を意味する摩廬から摩廬山と定めた。
さてさて、ここの見所は? 1番札所を出て、最初の難所の「遍路ころがし」で、「唯一残された空海の道」と言われる昔ながらの遍路道こそ最高の見所である。遍路道最大の難関といわれるほど焼山寺への道のりは厳しいが、歩き終えた時の達成感は言葉で言い尽くせないほどの感動がある。 境内で、旅館吉野で一緒だった若者達にも会えた。この山奥の焼山寺の参拝者の多くは、バスで来る団体さんで、「ワッと来てワッと帰る」感がする。焼山寺から1.8キロほど下ると、番外霊場の「杖杉庵」がある。ここは、四国遍路の祖といわれる衛門三郎終焉の地である。後からやって来た若者達一行はお遍路の大先輩を拝することもなく通り過ぎた。「八十八ヵ所だけ回るのが遍路じゃないよ!」と、言ってみたところで、人それぞれで、お参りしても納経帳にご朱印をいただかないお遍路もかなりいるようだ。そんなことを思っていたら、杖杉庵の先で遍路道に入り損ねて、遠回りになる車道を歩くことになった。ここも遍路道の案内が小さすぎるよ。
それでも1時間ちょっとで、今夜の宿近くの鍋岩の「道の駅」で、休憩している若者達一行に追いついた。 「道の駅」には大型バスが停まっていたが、焼山寺には大型バスでは乗り入れが出来ないため、ここでマイクロバスに乗り換えることになる。1台分の大型バスだと2台のマイクロバスが必要となり、県外と現地の共同運営システムとなっているようである。売店のお婆さんにお茶と当地名産の干し芋の接待を受けた。お礼に、ほんの少しだがお菓子を買った。 余り早すぎる宿に到着するのも申し訳ないので、時間調整して「なべいわ荘」に到着したのは、3時15分である。早朝に藤井寺あたりを出発された歩きお遍路さんは、さらに鍋岩から阿川の上村旅館とか、神山付近の宿まで歩くそうである。
若者一行の男性達はより先に進んで、お嬢ちゃん達と今夜は同宿となった。なべいわ荘には小さな橋を渡るが縦山さんは杖代わりにした棒切れを突きながら橋を渡ってしまった。宿に入る前に金剛杖を洗うしきたりになっているが、縦山さんも棒切れを洗ったので、「遍路は橋を渡る時は杖を上げて渡るんですよ」と、教えてあげたら、「そんなことだったらすぐに注意して下さいよ!」と、言われちゃいました 縦山さんとこれで三晩同宿のMさんであるが、この若者達はそれぞれ個別行動で、偶然の中で、時として一緒に行動することもあるらしい。一般的には同時期に出発すると、前後して進むので、仲間内?の動向が音沙汰で判明するらしい。このことは胎内さんも言っていた。 縦山さんに、第九番の法輪寺の白衣で衣服を拭いた話をしたら、参拝作法・順序が違うって、地元のお婆さんに指導されたそうだ。ただ、あの時の境内は大雨で、実は私も大師堂では線香とろうそくだけは雨が小降りになってからしかつけられなかった。参拝順序や作法を知らないでお遍路に出るのも、今の時代では不思議なことじゃありません。 参考文献『週間四国八十八ヵ所遍路の旅』(講談社) |