シーボルト Philipp Franz Balthasar von Siebold 1796〜1866 

佐野家との縁:博洋(1801-1877)が2度にわたり長崎で西洋医学を学んだ。博洋の叔父玄知、および博洋の弟素安も短期間であるが学んでいる。

 

  ドイツの医師・博物学者。ドイツ語の読みはジーボルト。南ドイツのビュルツブルクに生まれ、ビュルツブルク大学で医学をまなび、オランダ東インド会社の日本商館付医員として1823年(文政6)長崎に来日。出島での勤務のほか、長崎郊外に鳴滝塾をひらき、オランダ通詞(つうじ)の吉雄権之助(よしおごんのすけ)をはじめ、高野長英・伊東玄朴・高良斎(こうりょうさい)らに医学や自然科学を教授した。26年には、新任商館長にしたがって江戸をおとずれ、将軍徳川家斉に謁見した。江戸では幕府天文方の高橋景保や幕医土生玄碩(はぶげんせき)ほか、蘭学者の宇田川榕庵・大槻玄沢らと交流を深めた。

  オランダ政府から日本の総合的な調査を命じられていたシーボルトは、さまざまな文献・資料を収集し本国におくった。1828年、帰国のための荷物をつんだ船が稲佐海岸に座礁、国外への持ち出しが禁じられた品物が発見され、親交のあった日本人が多数逮捕された。審問の結果、高橋景保から入手した日本地図と土生玄碩からおくられた葵(あおい)の紋つき帷子(かたびら)などが禁制にふれ、翌年シーボルトは国外追放となる。高橋は裁判中に獄死、土生も改易(かいえき)となった。世にいうシーボルト事件である。

  オランダにもどったシーボルトは、資料を整理し、「日本」「日本動物誌」「日本植物誌」を刊行した。1858年(安政5)に日蘭通商条約がむすばれると、翌年ふたたび日本をおとずれ、幕府顧問もつとめ62年(文久2)帰国する。なお、最初の長崎滞在中に愛人滝との間に生まれた娘は、のち女医となる楠本いねである。また、シーボルトの収集した資料はレイデン(ライデン)国立民族博物館などに収蔵され、数々の動植物の標本をはじめ、葛飾北斎の肉筆画など、当時の日本民俗・文化を記録する貴重なコレクションとなっている。

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