夢  影

   ― その伍 ―



笙子の眠っている枕元の側に、ぼぉっと、青白い焔が出没した。
ひっと首をすくめる博雅の目の前で、それは徐々に膨らみ、歪んではさらに膨らんだ。
温度を持たないような色合いの大きな焔の中に、人影が現れる。
その人影に、焔が吸い込まれるように消えたかと思うと、そこには背の高い男の姿があった。
質素な身なりなれども、すらりと細身の体つきに藍色の水干がよく似合い、思いがけぬほどの気品が感じられた。
長い髪は結い上げもせず、無造作にひとつに束ねられ、背中に優雅な流れを見せていた。
揺らめく仄灯りの中に、白く浮かぶ横顔は、冷たく見えるほどに整い、伏し目がちなまなざしには、深い憂いが宿っているようだった。


怨霊だと言うことも忘れ、博雅はぽかんと見惚れた。
・・・・・・影秋さまは、たいそう見目よい殿方でしたから・・・
敦子のやわらかい声が蘇る。
なるほど、これは女たちが夢中になるのも無理はない、と博雅は、我ながら何を呑気なことをと思いつつも、納得してしまった。

影秋はしばらく、自分のいる場所がわからず戸惑っているかのように、小首を傾げて佇んでいたが、足元に目を落とし、眠っている笙子に気づくと、じっとその寝顔をみつめた。
ふいに、口元が上がり、無表情だった顔が、ふわりと微笑の形に変化する。
まるで、恋してやまない相手に、ようやく再会したと言うふうに。
夢見るような、愛おしさが溢れたようなその微笑みは、男ですら、どきりとするほどに、なまめかしく美しかった。


(これは・・・)
博雅は、言うに言われぬ恐ろしさを覚えた。
これは、人の心を捕らえる怨霊だ。力任せに捕らえるのではなく、むしろ相手が進んで捕らえられようと近づいてしまう、そんな怨霊だ。
いや、生きている時から、そうだったのかもしれない。
笙子も、おそらく自ら望んで、影秋のもたらす眠りに入り込んでいるのだろう。
影秋のいない現し世(うつしよ)より、夢の中にいたいと願って。
そんな笙子の想いが、博雅にはひどく哀しく感じられるのだった。

影秋は、描きかけの絵に目を移し、しばらく眺めやると、筆を手に取った。
憂い勝ちだった目に、強い光が宿る。
いよいよ、絵を描き始めようとしているのだ。
おもむろに笙子に向き直ると、白い手を、そっと笙子の寝顔へと伸ばす。
笙子の目覚めを誘うように・・・


その瞬間、すかさず晴明の手から、白い人形(ひとがた)の紙が舞った。
晴明の唇が、声を出さぬまま呪を唱える。
人形が結界を越えたかと思うと、ふわりと淡い影が伸び、それは見る見るうちに、たおやかな女人の姿となった。
重々しく雅やかな裳唐衣(もからぎぬ)姿。白から薄紫の色合いが幾重にも連なる藤のかさねを、見事に着こなした蜜虫だった。

影秋の視線が、蜜虫に引き寄せられる。
蜜虫は、静かな佇まいのまま、袂から扇を取り出すと、そっと開いた。
扇には、藤の花が描かれている。
舞いのような美しい所作で、蜜虫が扇で風を起こすと、どこからともなく、花びらがはらはらと落ちてくる。
淡雪とも見まごうばかりに、花びらの舞い散る中、向かい合う蜜虫と影秋は、さながら一幅の絵のようだった。
博雅は、夢のような光景に見惚れていた。
あまりにも美しい。これは、とても現し世(うつしよ)のこととは思えぬ。
生身の人ではないが故の、美しさなのだろうか。


蜜虫は、扇をすっと影秋に差し出した。
美しい微笑みを見せながら、影秋がそれを受け取る。
影秋は、しばらく扇をみつめていたが、つとまなざしを上げ、蜜虫の背後を振り仰いだ。
そこに、たわわな花房をつけた、藤の樹が見えているとでも言うように。
影秋は、満足気に頷くと、扇を懐にしまい、再び筆を手に取った。
すでに、笙子のことは忘れ去っているように、蜜虫にじっと視線を注ぐ。

博雅は、隣で晴明がほっと息をつくのを感じた。
どうやら、すり替えが成り立ったようだ。
これで、うまく絵が描き上がれば、晴明の策もたつと言うわけか。
博雅も、少し安堵した。
いつもにも増して、蜜虫の周りの空気の動きが速いような気がした。
それは、影秋をも確実に巻き込んでいるらしく、紙の上を走る筆は、さらさらと迷いなく進み、形を成して行く。
この分なら、夜明けまでに仕上がるに違いない。


          *****


今や部屋の中は、なんとも不思議な空間となっていた。
蜜虫と影秋の周りだけ、どんどん時が経って行くのがわかる。
けれど、それを見ている博雅たちを取り囲む時の流れは、じっとりと重く、なかなか進まないように思えた。
その時空の差が、まるで気流のようにぶつかり合い、空間を不自然に歪ませている。
今までに覚えのない、不気味な胸苦しさが押し寄せてくるようだ。

そして、それを一番担っているのが蜜虫だった。
これほど長い間、しかも休みなく時を速めるのは、蜜虫にとっても初めてのことだった。
自らの力を振り絞って、時を早回しさせている蜜虫は、時折ひどく苦しそうに眉を寄せ、身体をふらつかせた。
裳唐衣(もからぎぬ)の重さが、なおのこと、蜜虫にのしかかる。
今にも倒れてしまうのでは、と博雅ははらはらした。


蜜虫の苦痛が始まると、晴明はじっと気を集中させて、印を結んだ。
隣にいる博雅には、晴明の身体からも、ゆらゆらと見えない焔が立ち上っているように感じられた。
そうやって、蜜虫に力を送っているのだ。
晴明の呪が強まると、蜜虫はいくらか楽になるのか、ふっと息をついで、また体勢を立て直す。
ひと時も、神経の緩みが許されない。
博雅も、いつしか額に冷たい汗が滲んでいた。


          *****


どれほどの時が経ったろう。
息苦しさに耐えている博雅に、晴明が小さな声でささやいた。
「博雅、笛の用意だ。いつでも吹けるようにしておいてくれ」
はっとした博雅は懐をさぐって、葉二(はふたつ)の笛を取り出した。
そろそろ、絵の仕上がりが近いのか。
博雅は、笛を握り締めた。
笛を手にしたことで、温かな力が湧いてくるような気がした。
大丈夫だ、うまく事は成る・・・博雅は、そう思った。
晴明のささやきが、また聞こえた。
「できるだけ、穏やかな美しい曲がいい」
博雅は、頷くと笛を構えた。
いつでもいいぞ、そう目だけで、晴明に伝えた。


ふと気づくと、影秋の筆が止まっていた。
少しやつれたような端正な顔には、抑えきれないほどの陶酔感が溢れている。
(絵が仕上がったのだ・・・)
博雅は確信した。
力を使い果たしたのか、蜜虫の身体がぐらりと揺れ、そのまま崩れ落ちた。
思わず、身を乗り出しそうになった博雅を、晴明が押し留める。
振り向くと、だめだ、と言うように、鋭く睨みつけられた。

(そうだった、今飛び出したら、すべて水の泡だ)
倒れ臥した蜜虫を、気遣わしげに見ながら、博雅はぐっと笛を握った。
今は、晴明の言う通りにするしかない。
落ち着け、と自分に言い聞かせ、もう一度、笛を構え直した。
晴明の手が、ゆるやかな印を結び始めた。
それは、いつもの鋭い動きと違い、たおやかに優しげに、空気をやわらげて行くようだった。
「博雅、笛だ!」
小さく、晴明の声が飛ぶ。


博雅の唇から、澄んだ笛の音が流れ出した。
それは、晴明の手の動きと合わさり、妙なる音色となった。
影秋は、音の出所を探すように、辺りを見渡したが、すでに戸惑いよりも、笛の音のもたらす心地よさに酔いしれている。
半分閉じたまなざしは、幸せな夢を見ているようだ。
晴明の結ぶ印が、徐々に力強さを増す。

すると、影秋の身体が、淡い光に包まれだした。
温度を持たない、冷たい焔ではなく、暖かな慈悲の光。
(うまく行く・・・)
博雅は、感動に震えながら、笛を吹き続けた。
もう少しだ、もうすぐ、あの者の魂は満たされ、還るべきところへ還れるだろう。




と、その時、
「影秋、さま?」
かぼそい声が、笛の音の間を縫って聞こえた。
博雅は、目を疑った。
いつのまにか笙子が、上半身を起こし、影秋の方へと手を伸ばさんと、身をよじっている。
はっと、晴明が息を飲む音が聞こえた。
予想だにしなかったことが、起こっているのだ。
博雅の唇から、笛が外れた。音が鳴り止む。
「博雅、笛を止めるな!」
晴明が、鋭くささやく。
「あと少しなのだ。もうわずかで、影秋は浄化される」
博雅は、慌てて笛を唇にあてた。
再び清らかな音が流れ、影秋を包む光が、強さを増した。

その間に、笙子は夜具からずるずると這い出した。
眩しそうに目を細めながら、影秋ではなく、描き上がったばかりの絵に近づいて行く。
眠りの闇の中に長くいたため、光を目が受け止めきれずにいるのだろう。
(笙子どの、どうか今しばらく、動かずに・・・)
博雅は、祈るような思いで、笛を吹き続けた。
隣で晴明も、必死に呪を唱えているのがわかる。
影秋の姿が、光の中で揺らめき始めた。
あと少し・・・



周りの状況が、まるで見えていない笙子は、うつろな様子のまま、絵を手に取り、呆けたようなまなざしを向けた。
その顔が、うっとりと微笑みにほころぶ。
「ああ、描き上がっている。影秋さま、ようやく私を・・・」
ふいに焦点があったのか、笙子の目が食い入るように絵を眺め尽くし、きっと見開かれる。

「違う、これは・・・これは私ではない。誰?、影秋さま、いったい誰を・・・」
笙子は、唇をわななかせ、狂気に取り付かれたように、首を振った。
乱れた髪が、うねうねと黒い流れとなり、細い肩を覆う。
目を吊り上げて、いきなり絵を持ち上げると、それを笙子は、びりびりっとまっぷたつに引き裂いた。
影秋を包んでいた光が、ふっと掻き消え、
「しまった!」
晴明の切羽詰った声が漏れる。


ぐぅぁぁぁぁぁ・・・・・・


この世のものとも思えない、怖ろしいうめき声が、地の底から湧き上がるように聞こえた。
目を見張る博雅の前で、さきほどまでの淡い光の代わりに、どす黒い瘴気(しょうき)が、影秋の身体から立ち上り始めた。
陽炎のように消えかけていた影秋の姿は、再びくっきりと形を成し、しかもそれは、邪悪なものへと変化(へんげ)しつつあった。
涼しげだった眼は、らんらんと真っ赤に燃えて切れ上がり、髪は逆立ち、口は裂けている。
鋭い爪の生えた長い指を、獣のように曲げて、今にも笙子に掴みかかろうと、腕を伸ばした。


「ひぃっ・・・」
鬼と化した影秋の姿を、ようやく視界に捕らえたのか、笙子の顔が恐怖に凍りついた。
悲鳴を上げようにも、声にならず、口を開けたまま、のけぞっている。
博雅は、考える間もなく立ち上がると、笙子に向って突進した。
晴明が敷いた護符を越える瞬間、ばちっと何かが砕ける感覚があった。
結界を破ってしまったと気づいたが、そんなことには構っていられなかった。

「博雅!」
晴明の悲痛な声が、背中に聞こえた。


 
 <続く>