夢  影

   ― その肆 ―




「なあ、晴明、聞いてもいいか?」
博雅の声に、晴明はまたかと言うように、かすかに吐息を漏らすと、横顔を博雅の方へと傾けた。
「どんなやり方で、笙子どのを救うのだ?」
おまえにはわからぬ、と言って、教えてくれないのだろうなと思いながらも、博雅は聞かずにいられなかった。
だが、
「影秋に、今夜中に絵を仕上げさせる」
晴明は、あっさりとそう告げた。
「そう、そうなのか・・・」
博雅は頷きながらも、さっぱり要領を得なかった。
絵を仕上げさせる?
それが解決になるのだろうか。

晴明は、博雅が戸惑っているのを見越したように、説明を始めた。
「普通、憑いてしまった霊を穏便に還すためには、何かしらの見返りがいるのだ。ようするに、お土産を渡し、霊を喜ばせて、ご機嫌よく還ってもらおうと言うわけだな」
「穏便に、か」
博雅の心の内を読んだのか、晴明は苦笑した。
「よほど邪悪な霊でない限りは、私とて、できるだけ事を荒げたくはない。なにしろ、怨霊と闘うのは、楽ではないからな」
「わ、私は何も、闘えと言っているわけでは・・・」
しどろもどろに、博雅が言い訳する。

そんな博雅を可笑しそうに見やって、晴明は言葉を続けた。
「怨霊が、執着しているものがあると言うことは、それだけ見返りも効く、と言うことだ」
「なるほど」
「だから、土産代わりに、絵を仕上げさせることで、影秋を満足させて還す」
「しかし・・・本当に、それだけで満足するのか、影秋は?」
博雅の声は、いぶかしげだ。

晴明は、淡々とした調子で続ける。
「影秋にとって、何が一番喜ばしいか。それは絵が仕上がることだ。
いや、描いている最中かもしれない。絵の中で姿を為してくる相手に、まるで懸想しているように惹きこまれ、満たされた気持ちのまま、絵が仕上がる」
博雅も、その様を想像した。
ああ、確かに、天にも昇る気持ちかもしれない、と思った。
博雅自身、一心に笛を吹いている間、そして吹き終わった瞬間、涙が出てくるほどの幸福な思いに捕らわれる
影秋もそうなのか。だから、怨霊となってまで、絵を描きに現れるのか、と博雅は納得した。
が、そこで、新たなる疑問が湧き上がった。

「晴明、しかし無理だ。今夜中になど、仕上がるわけがない」
晴明は、ふふっと小さく含み笑いをした。
「だからこそ・・・、蜜虫が要るのだよ」
博雅は、ますますわけがわからぬと言う顔になる。
晴明は、少しいたずらっぽい目で、博雅を窺った。
「博雅、おまえは今までに、変だと思ったことはないか?蜜虫の行いを見て、何か気づいていないか?」
博雅は、う〜むと首を傾げて、考え込んだ。

「わからぬよ、そんなこと。ただ、いつも蜜虫は、あっと言う間に姿が見えなくなったり、おまえの仕度を手伝う時に、ものすごく手早かったり・・・」
「なんだ、気づいていたのではないか」
「え・・・?」
博雅は、またもやわけがわからず、間の抜けた声を出してしまった。
晴明は、満足そうに笑んでみせた。


「蜜虫は、時を操れるのだ。つむじ風の如く、時を早回ししたり、そうかと思うと、ゆるゆると引き伸ばす。ただし、自分の身と、ごく近くにいる者くらいしか巻き込めぬがな」
「おまえが、そんなふうに施したのか?」
博雅は、驚いて聞き返した。
「確かに、式として降ろす時に、いささかまじないをかけはしたが。もともと、蜜虫自身が持っていた力であろう」
博雅は、ようやく納得いったと言うように頷いた。

そうだったのか、そのせいで、いつも蜜虫の周りだけ、時の流れが、ものすごい勢いで回っているように見えたのか。
では、庭の藤が咲いたままでいるのも、その時を操る力を速めたり、弛めたりしているからなのかもしれない。

納得すると、今度はまた不安が押し寄せてきた。
「そうなると、やはり蜜虫は笙子どのの身代わりになるのだな。大丈夫なのか、蜜虫は?」
晴明の白い横顔に、かすかに翳りがよぎる。
「おそらく・・・」
「お、おそらくではだめだろう! おまえらしくもないではないか、晴明。
大丈夫だと言ってくれ」
答えるまでに、一瞬の間が空いた。
「すまぬな、博雅。今は、おそらく、としか言えぬ。勘違いするなよ、自信がないと言っているのではない。ただ・・・なぜか、あまりいい予兆がせぬのだ」
博雅は、はっとした。頭の中に、晴明の屋敷での、先刻の光景が蘇る。


          *****


晴明に頼まれた笛を手にして、息を切らした博雅が、ようやく晴明の屋敷に戻った時、やはり蜜虫が出迎えてくれた。
静けさそのもののような佇まいも、かすかに微笑を刻んだ白い頬も、常と変わらなかった。
ただ、いつもと違うところは、再び博雅に声をかけてくれたことだ。

「博雅さま、ご懸念は無用です」

その声は、蜜虫の唇からこぼれていながら、やはりどこか時の狭間からたゆたってくるような、不可思議な感じがした。
(けれど、美しい・・・)
またもや、うっとりと聞き惚れそうになる博雅に、蜜虫はそっと近づいた。
いつにないほど間近に蜜虫を見て、博雅は思わず首筋が熱くなった。
甘やかな花の香りさえ、ほのかに感じられる。
舞い上がりそうな博雅に、蜜虫は打ち明け話でもするように、わずかに声をひそめて、言葉を継いだ。

「ただひとつだけ・・・、博雅さまに、お願いがございます」

え、と博雅が平静に戻ったのは、蜜虫の声にこめられた、差し迫った意志を感じ取ったからだった。
蜜虫が次に口にした言葉に、博雅は驚いて目を見張った。
「それは、いったい・・・」
「お願いでございます。必ずや、これだけは」
「いや、だが私になど・・・」
「博雅さまにしか、できないことなのです」
きっぱりと、蜜虫は言い切った。
張り詰めたその表情、凛としたまなざしに押され、気がつくと、博雅は何度も頷いていた。


          *****


「どうしたのだ、博雅、ぼんやりして」
晴明の声に、博雅ははっと我に返った。
蜜虫の声が、まだ頭の中を巡っているようだった。
ぶるっとひとつ頭を振って、気を取り直すと、右大臣家が目の前だった。
その門の黒い影が、まるで災いの入り口であるかのように見え、思わず唾を呑みこむ。
晴明を信じる気持ちと、拭いきれない不安とが、博雅の胸の中で、ほぐれない糸の絡まりのように、交錯していた。
見上げると、月は黒雲に隠され、なにやら禍々しい気配が、空から降りてきそうな気がする。
日頃お気楽な博雅でさえ、口数が少なくなるほど、漆黒の空には重苦しい気が満ちていた。
博雅の弱気を察したのか、晴明がぽんと肩を叩いた。
「行くぞ、博雅」


          *****


部屋の中には、描きかけの絵が広げられていた。
絵を描くために、影秋が使っていた道具類も置いてある。
そして・・・、部屋の真ん中には、眠り続けている右大臣家の姫、笙子。
その蝋の如き、なめらかな頬は、穏やかに微笑んでいるようにすら見えた。

部屋の隅に陣取った晴明と博雅の、少し斜め前に、華やかな着物をかけた衣桁があり、二人は、その陰に姿を隠しつつも、部屋の様子は垣間見えるようになっていた。
もっとも、二人の周りには、晴明が結界を張るのだから、怨霊である影秋の目には、姿は見えないはずである。
むしろ、衣桁は、博雅がもろに怨霊を目の当たりにしてしまわないようにと言う、晴明の気遣いだった。
いや、その前に、年頃の姫の寝姿を目の前にするなど、とんでもなく申し訳ないことと思っている博雅は、笙子を見ないようにと、衣桁の陰でひたすらかしこまっていた。


燈台の灯りが、ほんのりと点る中、晴明は結界を張る作業に入っていた。
小さく呪を唱えながら、護符を置いて行く。
「これでよい。博雅、この護符から外へは出るな」
「わかっている。それより、燈台は点いたままでよいのか?」
晴明は、揺れる灯りの中で、微笑んだ。
「灯りなど、怨霊には目に入らぬ。が、私たちにはあった方が都合よい」
博雅は頷くと、緊張をほぐすように、両手を握ったり、開いたりした。

「肩に力が入っている。今からそんなでは持たぬぞ、博雅」
「しかし・・・」
「月が高いうちから現れる怨霊など、おらぬよ。今のうちに、少し居眠りでもしておいた方がよいくらいだ」
そう言いながら、晴明は懐から、小さな人形(ひとがた)の紙を取り出すと、そっと何かをつぶやきながら、片手で印を結んだ。
蜜虫だ、と博雅は思った。
晴明が式神を呼ぶ時、いつも使っている紙で出来た人形。
今、晴明の手の中にあるあれは、蜜虫なのだ。
ああやって、呪を唱えながら、まだ形を成さない蜜虫の魂に、語りかけているのだろうか。
博雅の胸に、しみるような切なさが湧いた。


          *****


ゆるゆると、時が過ぎる。
時折、小さな声で他愛ない話をしていた二人だが、それも次第に途切れがちになった。
目に見えて、闇が濃さを増していくようだ。
(そろそろなのかもしれない・・・)
博雅の手のひらに、冷たい汗が滲む。
懐にしまった笛、大切な葉二(はふたつ)を、お守りのように握り締めながら、博雅は、じっと恐怖に耐えていた。
怨霊と化してしまった影秋が、はたしてどんな姿なのか、どんな行いに出るのか、博雅の想像ではとても追いつかなかった。
己の理解を超えるものに対し、ひたすら怖ろしさしか感じ得ない。

隣にいる晴明からは、吐息さえも聞こえない。
まるで、坐像にでもなってしまったかのような、あまりの静けさに、博雅は不安になった。
思わず、話しかけようかとしたその時、びりりっと、空気が震えるのを、肌に感じた。
そのまま動きを止めた博雅の、目だけが見開かれる。
晴明の口から、小さく鋭い声が漏れた。

「来る!」
            
 <続く>