夢  影

   ― その陸 ―



博雅は、必死に笙子のもとに駆けつけると、今にも笙子を引き裂こうと伸ばされた、影秋の手から庇うように、笙子に覆いかぶさった。
ちらりと目に入った、影秋の怖ろしげな爪。それがもたらす衝撃が、今にも己が背中を襲うことを覚悟して、身をすくめる。
が、それは襲ってこなかった。
ぐぅっ、とくぐもった声がして、おぞましい気配が少し遠のいた気がした。

恐るおそる振り向くと、影秋はうめきながら、手の甲に張り付いた呪符を、必死に剥ぎ取ろうとしている。
とっさに、晴明が放ったのだろう。
「博雅、笙子どのを早く!」
晴明の声に、博雅は我に返った。
笙子は、再び気を失ったのか、ぐったりとしたまま動かない。
その身体を抱きかかえながら、博雅は、少しでも影秋から遠ざかろうとした。


すでに、自らも結界を飛び出した晴明は、急いで呪を唱えようとしている。
だが、怨霊としての力を増幅させた影秋を鎮めるのは、たやすくはない。
呪符が張り付いたために動かない右手をあきらめ、影秋は左手をぐんと伸ばして、晴明に掴みかかろうとした。

素早く飛び退って逃れながら、晴明はぐっと唇を噛みしめた。
(なんとか、しばらくでも影秋の動きを止めなくては・・・)
本来なら、影秋の周りに、動きを封じる結界を張るのが一番なのだが、狭い部屋の中では、こちらの動きにも制限があり、困難を極める。

晴明は懐から、用意してあった呪符を、さらに3枚取り出した。
わずかな時間稼ぎの呪縛だが、今はこれしかない。
短い呪を唱え、3枚同時に、鋭く呪符を放つ。
それは、命あるもののように闇を舞い、迷いなく影秋の左手首に、そして両の足に張り付いた。
影秋の手足が、縛されたように不自由になる。
ふぅっと、晴明は小さく安堵の息をついた。



両手両足の動きを封じられた影秋は、もどかしそうに身体を震わせ、獣めいたうめき声を発し続ける。
苛立ちが、さらに影秋の力を強めるかもしれない。
呪符の効きめは、おそらく長くは続くまい。
とにかく、少しでも早く呪をかけ終えなければ。

しかも、影秋の中の怨霊が目覚めてしまったからには、先ほどの穏やかな呪とは違い、邪気を祓い、一気に消滅させる、強力で研ぎ澄まされた呪でなくては、影秋を浄化させることはできない。
晴明は、指先に力をこめた。
集中するのだ、気を乱してはならない・・・



博雅は、笙子を背に庇いながら、晴明の様子を固唾を呑んで見守っていた。
何か、自分にできることはないのか。
しかし、下手に手を出せば、かえって晴明の妨げになってしまうかもしれない。
今は、晴明の力を信じるしかなかった。
もし、いざとなれば、先ほどのように、自分が晴明の前に躍り出て、庇う覚悟はできている。
博雅は、笙子をできるだけ後ろに押しやり、いつでも飛び出せるよう、身構えた。こめかみから、つぅっと冷や汗が流れた。


臨・・・、兵・・・

晴明の手が、力強く印を結んで行く。気が集中し、周りの空気がぴんと張り詰める。
対する影秋は、手足に張り付いた呪符を跳ね返そうと、うめきながら、身体に力をため始めた。

闘・・・、者・・・

晴明の呪が続く。
影秋の身体からは、どす黒い邪気が、ゆらゆらと立ち上っている。

皆・・・、陣・・・、列・・・

ぐぅぉぉぉ、と影秋のうめき声が高くなる。
真っ赤な目は見開かれ、節くれだった指は、わなわなと震え、足元もじりじりと動き始めていた。
手足に張り付いた呪符に、ぴりぴりっと裂け目が入る。
だが、晴明は鋼の如き冷静さで、印を結び続けている。
あと少し・・・、晴明は、凛と声を張り上げ、最後の呪を振り絞る。

在・・・、ぜ・・

晴明の呪を掻き消して、影秋の絶叫が響く。
バシッ、と何かが弾け飛び、禍々しい瘴気が、突風のような勢いで、晴明を押し倒した。
影秋の手足の呪符は、切れ切れになり、剥がれ落ちている。
呪符によって施された呪縛が破れたのだ。
影秋は、両手を高く振り上げると、そのまま晴明に襲い掛かろうと、足を踏み出した。



「晴明!」
博雅は、晴明と影秋の間に、身体を投げ出そうと飛び出した。
が、それより早く、晴明の前に、何者かが立ちふさがった。
「あっ・・・」
博雅は、あまりの驚きに、息をとめて見入った。
まるで、白く大きな蝶のように、それは見えた。
長い袂に覆われた両手を、高く広げ、影秋に背を押し付けるようにして、間に割って入ったのは、蜜虫だった。

先ほどまで、倒れ臥していたはずの蜜虫が、晴明の前に立ち尽くしている。
重たげな裳唐衣をまとった姿は、ぴくりとも動かず、その後ろで影秋もまた、怖ろしげな形相のまま、凍りついたように固まっている。
蜜虫が、己が周りの時を、せき止めたのだ。
空気の流れが、不気味なほど、たわんでいるのが感じられる。


「蜜・・・虫・・・」
晴明の声が、信じられないほど弱々しく響く。
印が途切れたことさえも、忘れてしまったかのように、呆然と、目の前の蜜虫をみつめている。
静止した蜜虫の、瞬かぬ瞳に、きらきらと涙が光っていた。

博雅は、驚愕していた。
これほど、動揺している晴明を見たのは、初めてだった。
蜜虫の思いは、博雅にもはっきり読みとめる。
時を止めているこの間に、晴明に呪を完成させたい。そのために、力を振り絞って、身を投げ出したのだ。
けれど、晴明は・・・迷っている。
そうだ、どうしようもないほど迷っているのだと、博雅は察した。

おそらく、今、影秋を浄化させるための呪を唱えれば、同じ時の狭間に重ねられている蜜虫も、巻き込むことになるのだろう。
それは、影秋と共に、蜜虫をも消し去ることを意味する。
だから、晴明は迷っているのだ。
死のような静寂が、重く流れ始める。


ふいに、博雅は、はっと耳をそばだてた。
薄闇を縫って、途切れ途切れに、かすかな声が聞こえる。
いや違う、耳が聞いているのではない。それは鼓動のように、胸に直接伝わってくるのだ。
まさか・・・
博雅は、己が胸に手を当てて、意識を集中した。


(晴明・・・さま・・・、はや、く・・・)


これは、蜜虫の声。
動かぬ蜜虫の、心の声が聞こえる。博雅の胸は震えた。
晴明にも、間違いなく聞こえているはずだ。
晴明は、思わず一歩踏み出して、蜜虫の方へと手を伸ばしかけている。


(時が・・・ありませぬ。は、やく・・・呪を・・・)


蜜虫の声は、さらに胸のうちに響いてくる。
晴明は手を止め、苦しげに顔を歪ませる。ぎゅっ、とこぶしを握り、小さく首を振った。
できぬ・・・、そう、つぶやいているように見えた。
晴明がどれほど蜜虫を大切に思っているか、今更ながらに窺え、知らず、博雅は涙を流していた。
だが、次の瞬間、


(博、雅さま・・・、どう、か・・・)


博雅は、ぎくりとして、目を見開いた。
蜜虫が、自分に、話しかけている。


(お願い、です・・・、博雅さま・・・)


ああっ、と博雅は思い出した。
そうだ、自分は蜜虫に頼まれていたのだ。
こんな時に? いや、こんな時のために、蜜虫は自分にしかできぬのだと、願いを託していたと言うのか。
なんと言う、けなげな・・・
涙が滂沱と、博雅の頬を濡らした。
自分は、何としても、蜜虫の願いを叶えてやらねばならぬ。
ぐいっと、袖で涙をぬぐうと、博雅は大きく息を吐き、しっかと顔を上げた。


「何をしている、晴明!」


博雅の怒声が、部屋を震わす。
「早く呪を唱えろ!」
晴明は、ぴくりと身体を動かすと、博雅を振り返った。
信じられない言葉を聞いた、と言うように、その顔に戸惑いが浮かんでいる。
いつもと、まったく立場が逆転してしまっていることが、博雅は切なかった。
が、今はそんな感傷に浸っているひまはない。
心を鬼にして、博雅は怒鳴り続けた。
「何をぼんやりしているんだ! 蜜虫の気持ちを、無駄にするんじゃない!
呪を唱えろ!」
博雅は、すまない、と胸の奥で晴明に詫びながら、


「臆病もの! おまえは・・・、それでも陰陽師か!!」


はっと、晴明が息を呑んだのがわかった。
弱々しかった横顔の線が、厳しさを取り戻す。
博雅の罵倒は、間違いなく、晴明の理性を覚醒させたのだ。
晴明は、握り締めていたこぶしを、ゆっくりと開いた。
もう一度、蜜虫の顔に目をやる。

蜜虫の声は、すでに途切れていた。虚ろな人形(ひとがた)に戻ってしまったように、かろうじて、その場に立ち尽くしている。
晴明のまなざしが、強靭な意志を宿して、鋭く光った。
懐から、一枚の呪符を取り出すと、確かめるように視線を落とし、頷いて指の間にはさむ。
すっと、姿勢を正すと、しなやかに両手が印を結び始めた。


臨・・・、兵・・・、闘・・・、者・・・

その姿に、もう迷いは見えなかった。
いつもの、冷静そのものの晴明だった。
博雅は、安堵の思いと共に、また涙が流れるのを感じた。

皆・・・、陣・・・、列・・・、在・・・

晴明の呪が、徐々に力強さを増す。
いつの間にか、蜜虫と影秋の周りを、光が包み込んでいる。

前!!

ぱぁっと、光が弾け、邪気が煙の如く、掻き消える。
その瞬間、晴明は手にしていた呪符を、蜜虫に向けて放った。
それは、すぅっと光の中に、蜜虫の胸元に吸い込まれていった。
少しずつ、光は弱まり、薄れて行く。
光が消えた時には、すでに蜜虫の姿も、影秋の姿もなかった。
後には、蜜虫が影秋に手渡した扇と、笙子が真っ二つに引き裂いた絵だけが残っていた。


「・・・終わったな」
ぽつり、と晴明がつぶやいた。
博雅は、頷きながら、ぼろぼろと涙を流した。


          *****


陽が上り始めた大路を、晴明と博雅は並んで歩いていた。
右大臣家からの帰路である。
晴明の懐には、蜜虫の持っていた扇が、博雅の手には、影秋が描いた蜜虫の絵が携えられていた。
壮絶な一夜の名残の品である。

眩しさを増す日の光に、目を細めながら、博雅は気遣わしげに、晴明に話しかけた。
「晴明、その・・・、大丈夫か?」
晴明は、かすかに頬をゆるめた。たった一晩のことなのに、その顔には確実にやつれの影が見える。
どれほど心身を削ったかが、窺えた。
「情けないところを見せたな」
博雅は、慌てて首を振る。
「いや、おまえは頑張った、すごい。無事、笙子どのを救ったではないか」

笙子は気を失ってはいたが、傷ひとつなく助け出された。
影秋が消滅した今、もう際限ない眠りに捕らわれることもないだろう。
心の傷は、時が癒してくれると信ずるしかない。
「おまえはすごい」
博雅は、頷きながら繰り返した。
「陰陽師・・・、だからな」
晴明は、自嘲めいた声を、ぽつり漏らした。
博雅は、言葉に詰まった。 
今の晴明の苦悩を薄れさせてやることなど、とてもではないが、できそうにない気がした。



ぎこちない沈黙のまま、二人は歩き続ける。
唐突に、晴明が言葉を発した。
「博雅、礼を言う」
「へ?」
博雅は、思わず間の抜けた声を返した。
「おまえのおかげで、影秋を浄化することができた」
「いや、私は何も・・・」
博雅は、困ったように否定する。
「おまえにどやされたのは、さすがにこたえたな」
晴明の声に、苦笑が混じる。

「ああ、いや、あれは・・・」
博雅は、気まずそうに言葉を濁した。
だが、言っておかねばならないだろう、と思った。
「すまない。蜜虫に・・・頼まれていたのだ」
「蜜虫に?」
うん、と頷いて、博雅は話し始めた。


「もし、おまえが迷うことがあったなら、必ず成し遂げるように、背中を押せ、と」
そうだ、蜜虫は何度も念を押し、博雅に約束させたのだ。
どんな方法でもいい、必ずや晴明の迷いを断ち切り、浄化を最後まで遂げさせるように、と。
そして、「博雅さまにしか、できないことなのです」と。



黙り込んだ晴明に、今度は博雅が問いかけた。
「晴明、聞いてもいいか?」
何だ、と言うように、晴明がちらりと博雅を見る。
「最後に、蜜虫に投げた呪符、あれは何だったのだ?」
晴明は、小さく息をつくと、空を見上げた。

「名、だ」
「え? な・・・?」
晴明は、顔を仰向けたまま、言葉を継ぐ。
「そう、名前だよ。あれには、蜜虫の名が書いてあっただけだ」
そして、独り言のように、
「もし、闇の中でさ迷ったとしても、帰り道がわかるように。
己が居場所を、思い出せるように、な」



そうだったのか・・・
博雅は納得した。
おそらく晴明は、最悪の事態をも予想し、覚悟してはいたのだろう。
だからこそ、影秋の動きを縛するための呪符と共に、蜜虫の名を記した呪符も用意しておいた。
できれば使いたくない、いや使わずにすますのだ、と願い、信じながら。

影秋に絵を描かせることまでが、蜜虫の役目だった。
無事に絵が描き上がり、影秋を穏やかに還すことができそうで、晴明はほっとしたに違いない。
これで、蜜虫の役目は終わった。もう危ない目に遭わす怖れはなくなった、と。
まさか、その後に蜜虫が犠牲になるなど、思いもよらなかったはずだ。


あの時、蜜虫は完全に時を止めてしまっていた。
生ある者の時を止める、それは命をも止めることだ。
その状態で、影秋と共に呪をかけられたら、どうなるのか。
晴明の、あれほどの動揺と迷いは、そこから来ていた。

けれど、自分が背中を押してしまった・・・
博雅の心が、みしりと軋む。
そして、晴明は博雅の激励に答えたのだ。見事に印を結びきった。
博雅は、呪が成った時の光景を思い返した。
浄化の光、清浄な神々しいほどの光。
その中に、薄れ行こうとする蜜虫に向けて放たれた、一枚の呪符。
あれこそ、最後の切り札。
晴明の祈り、蜜虫の思いを繋ぐ、渾身の呪符・・・


博雅の胸が熱くなった。
あの時、光の中に放たれた名は、間違いなく蜜虫に届いていた。
あれは、何よりも強い呪だ。
晴明自身が言ったではないか、「この世で一番短い呪は、名だ」と。
そうだ、一番短く、一番暖かく、強い力を持つ呪。
その人のため、ただ一人のために存在する呪。それが名なのだ。
晴明自身がかけた、「蜜虫」と言う呪。その呪符が効かぬはずはない。
大丈夫、そう博雅は確信した。


「晴明、帰ってくる。蜜虫はきっと・・・、帰ってくる」


自分自身に言い聞かせるように、博雅は頷きながら言った。
空を仰いでいた晴明が、博雅の方を振り向く。
「そうだな」
いつものように、ふっと透き通った微笑みをもらす。
そして、しみじみと言葉を継いだ。
「いい漢(おとこ)だな、おまえは」
「何を言ってる」
博雅は、少し照れて笑うと、手にした絵を大切そうに持ち直した。

ゆっくりと歩いて行く二人の上に、澄みきった青空が広がっている。
仄かに甘い香りを含んだ風が、ささやくように吹きすぎた。

 
 <完>