夢  影

   ― その参 ―




「何か気づいたこと、でございますか?」
几帳の向こうから、美しい声が返ってくる。右大臣家の一の姫、敦子だった。
影秋と言う絵師のことを、もっと知りたいと思った晴明は、すでに影秋に絵を描いてもらっていた敦子から話を聞きたいと、右大臣に申し出たのだ。
そして、今几帳を隔てて、敦子の前に晴明と博雅はいる。

「さよう、何でもよいのです。影秋と言う絵師について、あるいは笙子どのについてでも、気づいたことがあれば、教えて頂きたい」
晴明の声は、至って冷静だ。
「お役に立てますかどうか・・・」
敦子は、ためらうように、間を置いた。
十分に華やかさを備えた声、けれど今は妹への気がかりが、その声を幾分沈ませている。
晴明は、敦子が話し始めるのをじっと待った。

雅びな薫物の匂いが、ゆるやかに流れ、それだけで博雅はうっとりと、先ほど絵で見たあでやかな姫の姿を、几帳越しに思い描いた。
だが、こちらから声をかけるなど、とんでもなく大それたことのように思い、ひたすら晴明の隣でかしこまっていた。


敦子は、意を決したように、きっぱりと答えた。
「笙子は、影秋さまをお慕い申しておりました」
「ほぉ」
晴明は、小さく相槌を打った。その声に背を押されるように、敦子は、なめらかに言葉を継いだ。
「なんとしても、影秋さまに描いてほしいのだと、父上に頼み込んでおりました。ようやく願いが叶ったと言う矢先、あのような・・・」
敦子の声が、切なげに途切れる。
「お察しいたします」
晴明の沈痛な声音に、敦子は気を取り直したように、また語り始めた。

「影秋さまは、不思議な方でした。私を描いている間は、まるで私に・・・そう、想いをかけて下さっているように感じられました」
ほんの少し、はにかむような甘い響きが声に混じる。
が、すぐにそれは掻き消え、憂いがちに、
「なのに、描き終わるやいなや、人が変わったように、よそよそしくなられて。
まるで、夢から覚め、冷ややかなお顔に戻られたよう・・・」

しばらく、思いにふけった後、敦子はしんみりとした声で続けた。
「いいえ、きっと私が思い違いをしていただけのこと。あの方は、絵を描くことで、せいいっぱいだったのでしょう。でも・・・」
再び、敦子の声に艶やかさが宿る。
「絵を描いて頂いている間、私はとても満ち足りた気持ちでした。おそらく、お慕いしていたのは、私のほうだったのかもしれませぬ。笙子は、そんな私を見ていましたから、うらやましかったのでしょう。それに・・・」
敦子は、やわらかく笑った。
「影秋さまは、たいそう見目よい殿方でしたから」


なるほど、と晴明は頷いた。
いろいろと様子がわかってきた。
やはり、影秋と言う男は、絵を描いている間だけは、その相手に異様なほどの執着を示すようだ。
相手が、自分を恋うていると勘違いしてしまうほどの熱心さ。
確かに、それほどの熱がなければ、あのような絵は描けないと言うわけか。
となると、笙子が目覚めぬのも、もしかするといくらかは笙子自身が望んでいることなのだと、考えられぬこともない。
ましてや、その眠りを操っているのが、影秋の霊だとしたならば。


晴明は、ふと思いついて、敦子に訊ねた。
「ところで、笙子どのの後ろにある樹は何かわかりますか。影秋は笙子どのに、何の花を合わせるつもりだったのでしょう」
敦子は、神妙な声で答えた。
「はい、あれは藤だと思います。笙子が申しておりました。影秋さまが藤にしようとおっしゃったと」
晴明は、不審気に眉をひそめる。
「藤? しかし、今の季節に藤とは・・・」
「それが、見かけたのだそうです。どこぞの屋敷の庭に、季節はずれの藤が、見事に咲いているのを」

晴明の顔に、驚きが走る。
博雅も、思わず息を呑み込んだ。
すでに秋も深まりつつある、この時期に咲いている藤の花。それは、まず他にはありえないだろう。
博雅の脳裏に、物言わぬ仄白い面影がふわりと浮かんだ。
「晴明、これは・・・まさか」
晴明は、横目で博雅の言葉を押し留めると、薄く笑みを作り、穏やかな声で礼を述べた。
「わかりました。敦子どの、いろいろとお教え頂き、ありがとうございました」
「お役に立てましたなら、うれしゅうございます。晴明さま、どうか笙子のこと、よろしくお願い致します」
敦子の声に、持ち前の華やかさが戻る。
おっとりした姫らしく、厄介ごとはすべて周りの者が取り払ってくれるものと、信じて疑わない声音だった。


          *****


「晴明、何を考えている?」
右大臣家を辞した帰り道、晴明はずっと押し黙ったまま、屋敷への道を急いでいた。
一度屋敷に戻り、仕度を整え、夜になってから、あらためて右大臣家を訪れることを約束したのだ。
当然、今夜中に笙子を眠りから覚まさせるべく、手立てを打つつもりだろう。
その厳しい横顔が、晴明の考えている策の危うさを物語っているようで、博雅は気が気ではなかった。

だが、途中、何度も話しかけては無視され、博雅はついに普段に似ず、強い口調で晴明を問い詰め始めた。
「ちゃんと答えてくれ! 何を考えているんだ?」
晴明は、博雅の顔も見ず、
「おまえが知らずともよいことだ。少なくとも今はな」
冷淡に突っぱねた。
その白々しい様子に、博雅の面に朱が走った。
「晴明! おまえは・・・、蜜虫を使おうと思っているのだろう。笙子どのの背景の花は藤だ。おまえ、蜜虫を笙子どのの身代わりにするつもりなのだろう!」
「わかっているなら、聞くことはあるまい」
皮肉めいた晴明の口調に、博雅は往来の真ん中であるにも係わらず、晴明に食って掛かった。


「晴明、おまえには人の情がないのか!蜜虫の気持ちを知っていて、災いの身代わりになれと言うつもりか!」
晴明の答えはない。
「そんなこと、私は許さんぞ!」
博雅の大きな目が、さらに怒りに見開かれる。
いまにも、晴明に掴みかからんばかりだ。
「おまえが許さずともよい」
晴明は、まったく相手にせず、すたすたと足を早める。
すでに、一条戻り橋のたもとだった。

博雅も負けじと、早足に晴明を追い越すと、行く手を阻むように、橋の真ん中に立ち塞がった。
「おまえがそのつもりなら、ここは通さん」
晴明は、迷惑そうに眉をしかめた。
「何を童子のような真似をしているのだ。だいたい、この話を持ってきたのは、おまえではないか」
晴明の言葉に、博雅は一瞬ぐっと詰まり
「そ、それはそうだが、しかし・・・、確かに笙子どのは、助けなくては。でも・・・、だからと言って、蜜虫を身代わりにするなど。だめだ、そんなことは、やっぱり・・・」

支離滅裂な様子の博雅に、晴明はひんやりした声で言い放った。
「では、他にどんなやり方がある?」
凍るほどに澄んだ、冬の水面を思わせるようなまなざし。
「笙子どのは、生身の人。蜜虫は式だ。もし式を使うことで、笙子どのを助けることができるなら、私はそのやり方をとる」
ぴしりと、鞭を振るうような厳しい口調。
「陰陽師としてな」
その、あまりの揺ぎなさに気圧され、博雅は、まるで叱られた童のように、顔をくしゃっと歪ませた。


晴明の心のうちは読めない。
本当に、何の迷いもなく、蜜虫を単なる式として使おうと思っているのか、はたまた、つらい気持ちを必死に押し止めて、冷徹に振舞っているのか。
いずれにしても、晴明の態度を見れば、すでに笙子を救うための策が成り立っており、それを為すことのみを見据えている。
ただ感情をぶつけるだけの自分が、ひどく情けなく思えて、博雅は黙ったまま、うな垂れた。
なすすべなく立ち止まってしまった博雅の横を、晴明は通り過ぎざま、
「来ないつもりか、博雅」
数歩先で、ようやく足を止めた。
声に、うっすらと優しさがこもる。
「おまえの助けがいる」


          *****


晴明の屋敷に着いたとたん、出迎えたのは、当の蜜虫だった。
いつもと変わらず、透き通るような頬にかすかな微笑を刻み、もの静かに控えている。
晴明の背中に隠れるように、肩を落として入ってきた博雅は、蜜虫をまっすぐ見ることができなかった。
するといきなり、細く詠うような声が博雅の耳に滑り込んできた。


「博雅さま、どうか、わが主をお責め下さいますな」


へっ、と驚きの声すらも飲み込んで、博雅は顔を上げた。
「主のお役に立ちますことが、式の役目」
再び、声は聞こえた。間違いなく、蜜虫の口元から。
蜜虫のまなざしが、博雅の顔に注がれている。

「どのようなことも、厭いませぬ」
いつもなら、合うか合わないかのうちに、すっとそらされる視線、その黒目がちな美しい瞳が、まっすぐ博雅に向けられているのだ。
いや、それよりも何よりも・・・


(しゃ、しゃべった・・・!)


まさに、初めて耳にした蜜虫の声に、博雅はあんぐりと口を開け、何の返答もできぬまま、ただ聞き惚れてしまった。
(声も美しい・・・ まるで極上の笛の音のようだ)
蜜虫の声は、さらに続く。

「ですが・・・、博雅さまのお気持ち、大層嬉しく存じました」
そう言うと、蜜虫は博雅に、深々と頭を垂れた。
さっきまでの憤りも、その後のやりきれなさも、どこへやら。
博雅は、いっぺんにお得意の夢見心地に陥ってしまった。


やれやれ、と晴明は今日何度目かのため息をついた。
さすがは蜜虫だ。おそらく、戻り橋にいた式から、事の次第をすべて聞いたのであろう。
自らが話しかけることで、博雅を納得させてしまった。
とりあえず、これでやりやすくはなったか。
晴明は、こっそり苦笑をもらした。

「博雅、ひとつ頼みがあるのだが」
さりげなく博雅に声をかける。
「え・・・?」
博雅は、はっとすると、慌てて晴明に向き直った。
まるで、今まで晴明がいることを忘れていたのを、必死に取り繕おうとしているように、パチパチとせわしなく瞬きした。
晴明は気づかぬふりで、言葉を継ぐ。

「おまえの笛がいるのだ。今、持っているか?」
博雅の眉が、びっくりしたように上がったかと思うと、次に、いかにも残念そうに寄せられた。
「あ、いや・・・、今日は持ってきていない」
「そうか、では取ってきてくれぬか」
「それは、構わぬが、でも・・・」
博雅は、戸惑ったような顔をした。何のために、と聞きたいのだ。
晴明は、ふっと笑みを浮かべた。

「おまえの笛は、天からの授かりものだからな。相手は絵師、美しい笛の音にも、感ずるものがあるはず」
博雅が口を開く前に、晴明はさらに言葉を重ねた。
「私の策がうまく成れば、蜜虫に災いは及ばぬ。もちろん笙子どのにも。だが、成仏しきれずに、この世に残ってしまった念と言うのは、時に、こちらの思惑を超える力を持つ」
博雅の顔が、翳りを帯びる。

「やはり・・・難しいのだな」
晴明は、軽く笑って、
「私の力を信じてないのか?」
「いや、それは・・・」
晴明は、慌てる博雅を可笑しそうに見た。
「まあいい。もしもの時には、清らかな笛の音が、穢れを払ってくれるだろう。蜜虫の無事のためにも、ぜひともおまえの笛が要る」
蜜虫も、その通りですと言わんばかりに、仄かな笑みを見せる。
博雅の顔が、でれっとゆるんだ。

「できれば、一番澄んだ音色のものがよい」
「そうか、では葉二(はふたつ)だな」
葉二は、以前博雅が、朱雀門に棲んでいた鬼と交換したと言う、妙なる音色を奏でる笛である。
宝物のように大切にしている笛ではあるが、それを使うことを、いささかでもためらうような博雅ではない。
「さっそく取ってこよう。晴明、待っていてくれ」
自慢の笛が、役に立つことが嬉しいのであろう。
博雅は、少し上気した顔を、晴明から蜜虫へ向け、力強く頷いてみせると、いそいそと出て行った。


          *****


博雅を見送ると、晴明はそのまま庭へ足を向けた。
蜜虫も、後からついてくる。
庭の隅にある藤の木は、そろそろ風も冷たくなりつつある季節にもかかわらず、見事な花を咲かせていた。

晴明は、じっとその花に目をやり、
「見知っていたのか、影秋を?」
振り向かぬまま、ぽつりと問いかける晴明の背に、蜜虫も細い声を返す。
「あの御方は、花の香りに誘われ、ついこの庭に迷い込んでしまわれたのです。驚いたように、わたくしを・・・、あの木をみつめておりました」

視線の先には、ゆらりとたわわな藤の花房。
かすかな風に乗り、甘やかな香りが二人のもとまで流れてくる。
「とても・・・ 寂しい御方のように見えました」
「そうか」
晴明は、小さくつぶやくと、ゆっくり振り向いた。


「蜜虫、ひとつだけ言いおくことがある」
蜜虫は、静かにまなざしを伏せ、命を受ける姿勢を取った。
「どんなことがあろうとも、必ず・・・ 戻ってくるのだ、ここへ」
思いがけぬ言葉を聞いたと言うように、蜜虫の瞳が見開かれる。
「よいな、何があろうとも、どこへ迷おうとも・・・」
晴明の声に、強さがこもる。


「この庭への道、忘れるでないぞ」


蜜虫の白い顔に、戸惑いとも驚きとも、喜びともつかぬ、不可思議な表情が広がって行く。まるで、波立つ心そのままに。
一瞬の沈黙の後、蜜虫は深々と頭を下げた。
「必ずや・・・ 晴明さま」
黒髪が影を落とす、その頬に一筋、伝っていくものがあった。
これは、まぶたの奥から流れたのだろうか・・・
初めて知る感触の、それが何なのか、蜜虫は判じかねていた。

晴明はひとつ頷くと、再び藤の木に視線を戻した。
暮れ行かんとする秋の風が、さわさわと名残惜しげに、薄紫の花房を揺らしていた。

            
 <続く>