夢  影

   ― その弐 ―



「なあ、晴明、ひとつ聞いてもいいか」
右大臣家に向う途中の往来である。
晴明は、隣を歩いている博雅をちらりと横目で見て、そっけなく言った。
「どう起こすかは、姫を見てからだ」
「いや、そうではなく・・・、その、蜜虫のことなのだが」
今度は、明らかに晴明の片眉が上がった。
姫を心配していたのではないのか。
蜜虫だと? まったく気の多い男だ・・・
博雅は、そんな晴明のあきれ顔に気づかないのか、いかにも気になって仕方ないと言いたげに問いかけた。


「おまえは、自然のものを式として使うのだよな」
「そうだが」
今更何を、と晴明は思った。
「中でも、庭に咲く花の式が多い。だから、皆とても美しい」
「そのほうが、目が楽しかろう」
実際には、用途により、様々な式神を使っている。
戻り橋の下にひそませるのは、水に棲む生き物の式だし、呪詛を放つためには、羽を持つ式が役に立つ。
だが、屋敷の中の用をするのは、確かに花から生まれた式たちだ。
博雅が花の式ばかりを目にするのも当然だった。

「花の咲くのは、たいてい短い間だ。だから式も、花の時期ごとに常に入れ替わる」
「そうだな」
晴明は、ぶっきらぼうに短く答える。
「なのに、蜜虫だけはいつもいる。庭の藤の樹は、季節を問わず、花をつけ続けている。なぜだ?」
「なぜと言われても・・・」
晴明は、面倒くさそうに言葉を途切れさせた。

「なあ晴明、蜜虫はいつまでも人間の姿でいたいのではないか。式として、いや、人として、ずっとおまえの側にいたいと思っているから・・・」
「そうだろうな」
あっさりと晴明は認めた。
「そ、そうなのか・・・、やっぱり」
博雅は、見るからに、しょぼんとした顔になった。
「おまえのためなんだろうなあ、そうだよなあ・・・」
「おい、博雅、いったい何が言いたいのだ」
博雅は、いくぶん恨めしそうな顔を晴明に向けた。
「気がついたのだよ。おまえの屋敷に行く度、何度も蜜虫に会っているのに、まだ一度も声を聞いたことがない。あれは、しゃべるのか?」
「無論」
「そうなのか・・・ では、私にだけしゃべってくれないのだな」
博雅は、そのまま深くため息をついた。


やれやれ、あいかわらずわからぬ奴だ、と晴明は思った。
それほど、蜜虫に思い入れがあったとは。
もっとも、他にも思い入れのある女人が、あちこちにいそうだが・・・
博雅は、いつも麗しい女人を見かけたり、噂に聞いたりすると、勝手に憧れ、思いを募らせては悩んでいる。
感情豊かと言えば聞こえはいいが、こう次々とでは、あまりにも節操がないであろう、と晴明は思っていた。
もっとも、そこがまた、博雅らしい純情なところと言えば言えるのだが。

それにしても、人を厄介ごとに巻き込んでおいて、いい気なものだ。
どうやら博雅は、さほどたいそうな事ではないと思っているのかもしれない。
確かに、飲むと眠りが深くなってしまう薬もある。
年頃の姫が、何かの理由で眠れずに、薬師に頼むこともあるだろう。
うっかり薬の量を間違えることとて、ないとは言えない。
けれど、もしまったく別の原因があるとしたら・・・
それは、人の域を超えた力によるものかもしれないし、そうなれば、陰陽師の仕事の領域だ。
どんなささいなことも、見逃すわけにはいかない。
晴明は、気を引き締めた。


「博雅、ぼんやりするな。右大臣家に着いたぞ」
情け容赦ない晴明の声に、博雅は一瞬、不満気に晴明を睨むと、気を取り直したように、しゃきっと背筋を伸ばした。
きっと、これから行く右大臣家の美しい眠り姫のことを思い出したのだろう。
立ち直りの早さは、博雅の特技のひとつであった。


          *****


「何か変わったこと、か・・・」
右大臣家の二の姫、笙子の様子を見舞った後の、晴明の問いかけに、右大臣は、すぐに思いついたように、
「実はな、笙子は眠りこむ数日前から、大変気落ちしていたようなのだ」
と答えた。
「では、そのせいで薬師に、何らかの薬を処方してもらったと言うことは?」
晴明が聞くと、右大臣は即座に否定した。
「いや、笙子は薬が嫌いでな。高い熱が出るような時でも、めったに薬を口にすることはない」
違うのか、と晴明は少し憂鬱に思った。とすれば、事はよくない方向に行っていると考えるべきか。

「なぜ気落ちしていたかは、わかりますか」
晴明は、静かな口調で問いかけた。
「さよう、笙子の絵を描いていた絵師が、突然亡くなったせいかと思うのだが。ようやく描いてもらえると、喜んでいたのでな」
「絵師?」
いぶかしげに晴明が聞き返すのと、「あっ」と博雅が声を上げたのが、ほぼ同時だった。
急きこむように、博雅が言葉を続けた。
「それはもしや、影秋と言う絵師では?」
「知っているのか、博雅?」
博雅は、うんうんと頷いた。

「美しい女人の絵しか描かないと、宮中でも噂になっている絵師だ。しかも、その女人に一番ふさわしい花を添えて描く。それがまことに見事だと言うので、描いてほしいと言う女人が後を絶たないそうだ」
ほぉ、と晴明はつぶやいた。
仕事に係わることでない限り、晴明は、宮中での噂話には、さほど耳を貸さないほうだった。

「確か、はやり病で、あっと言う間に亡くなってしまわれたのでしたね」
博雅は、右大臣に確かめるように聞いた。
「まだ若いと言うのに、気の毒なことよ。そう言えば、どんな暮らしをしていたのかも、誰も知らなかったようだ。無口で、変わった男であったな」
「笙子どのの絵なら、さぞ素晴らしいものになったでしょうに。残念なことだ。
笙子どのも、がっかりなされるはずです」
博雅は、自分のことのように頷いてみせた。
そして、うっとりと宙をみつめ、熱意のこもった声でつぶやいた。
「影秋の絵かぁ、美しいのだろうなあ。見てみたいものだなあ」
また始まったか・・・、晴明は、片頬にかすかに苦笑を浮かべた。


「ならば、敦子の絵をご覧になるか? こちらは、すでに描き上がっているが」
右大臣の言葉に、とたんに反応したのは、もちろん博雅のほうだった。
「えっ、なんと・・・敦子どのも影秋に? それは、ぜひ拝見したい!」
頬を紅潮させ、目を輝かせている博雅を、晴明は醒めた目で見遣った。
目的がずれているぞ、と言いたげだ。
敦子と言うのは、笙子の姉にあたる。
これまた、佳人と噂の高い、右大臣家の一の姫だった。
どうやら博雅は、ここの姉妹双方にご執心のようだ。


晴明は、博雅の歓喜の様は無視して、右大臣に向き直った。
「で、その絵師が死んだ後、笙子どのの絵はどうなりました?」
「そのまま、道具類と共にここに残っておる。いちいち持ち帰るのは面倒であったのだろう。まだ、ほんの描き始めであったし」
そして、右大臣は、しみじみとした口調になった。
「まさか、あんなに急に病が悪化するとは、思わなかったのであろうなあ」
晴明は、頷くと、
「では、その絵を拝見させて頂きたい。できましたら・・・」
そこで、ちらりと博雅を見て、
「敦子どのの絵も一緒に」

あからさまに晴明に感謝の表情を向けた博雅に、晴明は小さく首を振った。
おまえのためではない、そんなにはしゃぐな、とたしなめたつもりだった。
右大臣の顔が、不安気に曇る。
「何か、その絵が笙子が目覚めぬことに、関係あると?」
晴明は、ゆっくりと自分に言い聞かすように、言葉を継いだ。
「まだはっきりとはわかりかねますが。もしかしたら・・・」


          *****


右大臣は、舎人をひとり呼びつけ、二枚の絵を持ってこさせた。
一枚は完成した敦子の絵。
そこには、咲き誇る牡丹の花と共に、淡蘇芳と白から成る、牡丹の重ねの衣をまとった女人の姿が描かれていた。
それはまさに、あでやかな牡丹の精のようだった。
「おお・・・これは、なんと美しい。目がくらむようだ」
感嘆の声を漏らしたのは、博雅だった。

晴明は、冷静にじっと絵をみつめた。
確かに美しい。それだけでなく、この絵からは、描いた者のもの狂おしい情熱が感じられるような気がする。
(禍々しいほど・・・)
晴明は、目を細めた。
そう、これはまるで、ひたすら思い詰めた恋の相手への、妄執をこめて描いたようだ。

もう一枚の絵は、まだわずかな線しか描かれていなかったが、それでもすらりとした立ち姿の女人の様が伺える。
さらに、後ろには樹のようなものが描かれている。
影秋が、笙子に合わせようとした花は、樹に咲く花だったのか。
(いったい何の樹だろう。今の時期に花をつける樹・・・?)
晴明が考え込んでいると、右大臣が低く唸った。


「や、これは・・・」
「どうかされましたか」
「いや、気のせいかもしれないが。前に見た時よりも絵が・・・、その、進んでいるような・・・」
「進んでいる?」
晴明は、はっと息を飲みこんだ。
「前はほとんど形になっていなかったはず。けれど今見ると、娘の姿がだいぶはっきりとしている。いや、でもまさか、そんなことが・・・」
どうやら、不吉な予感が当たったようだ。
晴明は、ひとつ大きく息をつくと、憂鬱そうに言葉を継いだ。
「お気の毒ですが、どうやら絵師の執念が、笙子どのを捕らえているようです。それを祓わないと、おそらく・・・」
右大臣は絶句すると、頭を抱え込んで呻いた。


事は、急を要するかもしれぬ。
晴明は、考えうる最悪の事態をも踏まえた上で、これから為すべきことを、目まぐるしく頭の中で組み立てた。
まだ、わからぬことが多すぎる。
もっと影秋について、聞いてみなければならない。
晴明の目に、きらりと厳しい光が浮かんだ。
            
 <続く>