夢  影

   ― その壱 ―




源博雅は、いつものように、一条戻り橋を渡った先にある、安倍晴明の屋敷へ向っていた。
ついさっき、宮中で耳にした出来事を、なんとしても晴明に伝えなくてはと、意気込みながら。
もっとも、特に用がない時でも、博雅の足はおのずと、そちらへと向うことが常だった。
要するに、居心地がいいのだ。
さほど手入れのされていない、けれど野に咲く様々な花が集う、不思議と風情のある庭を見渡せる室で、他愛ない話をしながら、晴明と酒を酌み交わすひとときを、博雅は好んでいた。

真面目に宮中の勤めに励んでいる博雅とは違い、晴明は時折、宮中にも出ず、屋敷で一日ぼんやりと過ごしていることがある。
それは、陰陽寮の誰もが、晴明の類まれな才を認めているがゆえ、許されているのかもしれない。
なにしろ、面倒な暦の作成も、天の星の動きを書きとめることも、そしてもちろん呪術に関しても、晴明は天賦の才で何の苦もなく、さらさらとこなしてしまうのであったから。
陰陽寮に出ない日は、おそらく誰ぞの悩みを解決すべく、館に出向いているのであろう、と皆から大目に見られているのだった。

だが、博雅だけは、晴明が本当に単なる気紛れで、勤めを怠っていることを知っていた。
そのことを注意しても、晴明には無駄だと言うことも、すでに承知していた。
「陰の気が、だいぶ満ちてきてしまった。今日は、それを逃さなくてはならない日なのだ」
などと言われれば、何のことやらわからずとも、思わず「そうなのか」と、納得させられてしまうのだ。
たとえ、晴明がのんびりと酒を呑んでいるのを、目の当たりにしても。


だから博雅は、今日も戻り橋を渡りながら、ぶつぶつと独り言を漏らしていた。
「晴明め、また陰陽寮に出てこなかったらしい。どうせ、昼間っから酒でも飲んでいるのだろう。仕方のない奴だ」
博雅は、勢いにまかせて、ずんずんと大またに戻り橋の上を歩いた。
ふと、どこからか、小さく忍び笑いが聞こえたような気がした。


          *****


「晴明、いるか」
博雅が声をかけ終わるか、終わらぬうちに、すっと目の前に、薄紫色の小袿も涼しげな、美しい女が現れ、黙ったまま礼を取ると、案内に立つ。
蜜虫と呼ばれるその女が、実は人間ではなく、晴明に仕える式神であり、真の姿は、季節を問わず庭に花を咲かせている、藤の木の精なのだとわかっていながら、いつも博雅は会うたびに、胸ときめく思いがするのだった。

蜜虫は、どうぞ、と言うように博雅を差し招き、一瞬だけ振り向いて、匂いたつような白い頬に、微笑みめいたものを浮かべた。
が、次の瞬間には、掻き消すように姿が見えなくなっていた。
毎回のことなのに、博雅はいつも懲りずに、あっけにとられ、ふと我に返って、晴明がそこにいることに気づくのだった。


晴明は、軽く片膝を立てて座ったまま、静かに杯を口に運んでいた。
あまり行儀がいいとは言えぬその格好、烏帽子もつけず、結い上げた髪がいくぶんゆるんでいるところからも、今日はどこにも出かけるつもりはないらしい。
けれど、狩衣の白を、そのまま映したような、色白の横顔を見る限りでは、ほとんど酔っている様子は見えなかった。

もともと晴明の容貌は、全体的に色素が薄いような感じがする。
髪はさらさらと豊かではあるが、明るく茶色がかっており、瞳の色も淡かった。
そのせいで、口さがない者たちは、晴明のどこか浮世離れした、不可思議な雰囲気とも合わせ、
「安倍晴明は、白狐の腹から生まれたのだろう」
などと噂していた。

もちろん、博雅はそのようなことは、まったく気にせず、何の気兼ねもなく、晴明と付き合っていた。
常に感情が先行してしまう、一本気な博雅としては、晴明の冷静さや才能は頼もしく、ついつい何でも話してしまう。
こちらの行動を見透かされることや、ちくりと皮肉を言われること、一見冷淡な態度に、多少むっとするものの、そんなことをいつまでも気にする博雅ではなかった。
表面の愛想の悪さと裏腹に、晴明が思いがけぬほどの細やかな心配りを隠し持っていることを、知っていたからだ。


そして、博雅の吹く笛を、実は誰よりも愛でているのも、晴明であった。
「おまえの笛には、まるで、天上からの光や風が宿っているようだな」
と、いつか珍しく本気の顔で言ってくれたことがあった。
めったに、褒め言葉を口にしない晴明だけに、博雅はそれがたいそう嬉しかったのだ。
もしかしたら晴明は、何か心に人には見えない、宿命じみた影を抱えているのかもしれない。
それは、晴明に与えられた人智を超えた才と、ひきかえなのだろうか。
その影を、少しでも自分の笛で晴らせたら、と博雅は時折しみじみと思うのだった。


          *****


博雅は、遠慮なく晴明の側に腰を下ろすと、いささか不満そうな声を出した。
「なんだ、酒を飲んでいるのか」
晴明は振り向きもせず、杯をあおると、冷ややかに言葉を返した。
「期待に答えたまでだ。『どうせ、昼間っから飲んでいるのだろう』と、おまえが言っていたからな」
ぐっと博雅は言葉に詰まった。

「式、か・・・」
戻り橋には、いつも晴明の式神が見張っていて、来客があることを晴明に告げているのだと聞く。
「私の式は融通がきかない。どんなささいなことでも、私に伝える。戻り橋でおまえが、石を蹴ろうとして転びそうになったことから、すれ違った美しい女人に見惚れて、ぽかんと口を開けていたことまで、な」
皮肉めいた口調も、いつも通りだった。

博雅は、反論しようと口を開けかけて、思い留まった。
いつもむきになって言い返しては、墓穴を掘ることになる。
そうだ、それどころではなかったのだ、と自分に言い聞かせた。
「そんなことより・・・、なあ晴明、知っているか?」
「知らぬ」
そっけなく返す晴明に、博雅はむっと眉をしかめる。
「まだ何も言ってないぞ」
晴明は、少しも表情を変えず、淡々と、
「おまえは、宮中からまっすぐ来たのだろう。そして、勢い込んで、『知っているか』と聞いた。宮中で耳にしたばかりの話に違いない。当然、私が知っているはずはない」
そう言うと、かすかに、いたずらっぽく唇の端を上げた。
博雅は、これまたいつものことだと言うように、ふんと鼻を鳴らすと、構わずに話し始めた。


          *****


「右大臣家の二の姫が、なにやら様子がおかしいそうだ。一昨日の夜から、ずっと眠ったままだとか」
「眠ったまま?」
晴明は、口元に運んだ杯を止めて、聞き返した。
「息はしている。苦しそうな様子でもない。安らかに眠っているとしか見えない。ただ、どう声をかけても、身体を揺すっても起きないのだそうだ」
晴明は眉をひそめ、一口酒をすすると、じっと考え込む様子を見せた。
博雅も、息を呑むように、そんな晴明を見守る。

「・・・で?」
晴明は、短く問うと、すいっと切れ長の視線を博雅の方へと流した。
「へ?」
博雅は、何を聞かれたかわからず、間の抜けた声を上げた。
やれやれと言うように、晴明が苦笑を漏らす。
「私にどうしろと言うのだ? 人を眠らせる薬なら、作ってやらぬこともないが、人を起こす薬は・・・、原因がわからないと、いささか危ない」
「だから! その眠り続けている原因を探ってほしいのではないか。無理やり起こせと言っているわけではない! 第一・・・、姫がかわいそうであろう?」
博雅は、唇をとがらせた。
子供っぽい仕草は、相当気をもんでいる証拠だった。
おそらく、その眠り姫は、かなりの佳人と博雅が認めていると言うことだろう。


「面倒だな」
気だるそうにつぶやく晴明に、
「晴明! おまえにしかできないから言ってるんだ。とにかく一緒に右大臣家に行ってくれ、頼む!」
大きな目を見開いて、博雅は詰め寄った。
晴明は、ため息をつくと、しなやかな手つきで、もう一杯酒をあおった。
そのまま、あきれたように博雅の顔を盗み見る。

どうしてこの男は、美しい女人と聞くだけで、こうまで夢中になって肩入れするのだろう。
人の美醜など、所詮皮一枚のものなのに・・・
けれど、そう思うそばから、晴明自身、何やら掴みどころのない不気味さを感じていることをも、認めずにはいられなかった。
こうなると、放ってはおけない晴明であることを、博雅はちゃっかり知り抜いていて、話を持ってきているのだ。


「やれやれ、おまえには敵わぬよ」
晴明のぼやきを聞くと、博雅はあからさまに相好を崩し、嬉々として晴明を急き立てた。
「よし、それでこそ晴明だ。早いに越したことはない。さあ、行こう」
「せっかちな奴だな」
晴明は、物憂げに杯を置くと、ゆらりと立ち上がった。
いつのまにか蜜虫が側に控え、見る見るうちに、晴明の仕度を整え始めた。
そこだけ、時の流れが急速に回転しているような現象に、博雅は慣れているはずなのに、またもやあっけにとられ、ぽかんと口を開けた。


「では・・・、行ってくる」
蜜虫に向って、晴明は小さく頷いた。
先ほどまでのしどけない様から一変して、乱れひとつない髪に烏帽子を被った、雪白の狩衣姿の晴明は、まるで、闇夜に浮かび上がる三日月の如く、凛として、きわやかだった。
その変わり身の見事さに、一瞬見惚れた博雅は、はっと気を取り直すと、慌てて晴明の後を追った。
「おい、待ってくれ、晴明」
「追いて行くぞ、博雅」
晴明の笑い声が、軽やかに遠ざかって行った。



            
 <続く>