< 6章 〜微笑〜 >



「伯約は・・・笑わぬのだな」
唐突に孔明はそう言って、やわらかく微笑した。
「は?」
姜維は面食らって、広げていた地図から目を上げた。
孔明の側に仕えることに、すっかり慣れた姜維ではあったが、まだまだ学ばねばならないことは、山積みだった。
蜀のために働くには、まず地理をしっかりと把握しなくてはならない。
様々な雑務の合間を縫って、姜維は食い入るように地図に目を走らせていたのだ。


少し疲れた目をしばたたきながら、孔明の方を見やる。
どこか懐かしさを感じさせるまなざしにぶつかり、姜維はかすかに戸惑った。
「今、なんと?」
「いや、たいしたことではない、ただ・・・ふと思ったのだよ」
孔明は少し照れたように、声に笑いを含ませた。
「そう言えば、そなたの笑顔をまだ見ていない、とな」

一瞬の間の後、
「申し訳ございません」
姜維は恐縮して、思わず頭を下げていた。
はたして、頭を下げるべきことなのか、よくわからないいままに。
もしかしたら、地図を見ることに熱中するあまり、眉間にしわを寄せていただろうか。
孔明が心配するほど、険しい顔を見せてしまっていたのかと言う懸念もあった。
「いや、謝ることではない。笑顔など義理で作るものではない。仮面のような笑顔は、被るものが虚しいだけだ。見ているほうもつらい」
孔明はそう言って、自分は静かな笑みを浮かべた。

「そなたは今、目の前のことで手一杯なのだな。いろいろと耐えねばならぬことも多かろう」
孔明は、納得がいったように、ゆっくりと頷き、
「無理せずともよい。少しずつ慣れて行けばよいのだ。さすれば・・・」
自らも、手元の書簡に目を落とした。
「おのずと、笑顔も出るであろうな。きっと」
最後は、ひとり言のように聞こえた。


姜維は返答に詰まったまま、先ほどまで見ていた地図に、目線を戻した。
なんとも、思いがけないことを言われたものだ。
確かに、表情は硬いほうだろうと言う自覚はある。
武将は簡単に感情を顔に出すものではないと、小さい頃から父に言われ続け、いつしか姜維は、感情を冷静に探る術を身に付けてしまっていた。
無表情なら、心のうちを読まれることもない。
それは乱世を生き抜く武将として、当然のように思っていた。
笑顔だと? 
姜維は、もう一度その不可解な響きを胸中で転がしながら、ふと顔を上げ、書簡を読みふけっている孔明の横顔を見つめた。


                             * * *


孔明は なぜ笑うのだろう?
心底幸せそうな笑顔とは思えない。そんな笑顔を浮かべるには、今の孔明の背負っているものは あまりにも重すぎるはずだ。
しかし、作り物にも見えない、やわらかな風が自然とたゆたってくるような、なごやかな笑顔だった。

天水にいた頃、孔明の噂を聞いた時には、どれほどか厳しい冷徹な顔をした人物だろうかと、ひそかに想像していた。
ところが、対面した時の、拍子抜けするほど穏やかな微笑に、かえって胸の内が読めずに、慌てふためいた自分がいた。
何事にも動じない、その覚悟が微笑と言う形になって現れたように感じたのだ。
ある意味、孔明の笑顔は、武器とも言えるのかもしれない。
いや、それでもやはり、あれほどの穏やかさは、表面的なものではないだろう。
人には計り知れないような、おおらかな慈愛がひそんでいるような・・・
それに比べ、自分は、まだまだ人としての器が小さすぎるのか。


そんな思いに沈みながら歩いていると、丁度前方からやってくる趙雲の姿が目に入った。
すっと道を開け、礼をとる。
「なにやら浮かぬ顔をしているな、どうした姜維?」
趙雲は、鷹揚に声をかけてきた。この誠実そのものの将軍に、姜維は深い尊敬の念を持っていた。
趙雲を目の前にしたとたん、姜維は突然、先ほどからずっと自分の心を占めている疑問を、打ち明けてみたくなった。



「趙将軍、私はそんなにいつも、つまらなさそうな顔をしているのでしょうか?」
「ん? どういう意味だ?」
趙雲は、軽い驚きを見せ、姜維の顔を覗き込んだ。
「丞相がおっしゃったのです。その・・・私が笑わない、と」
それを聞くと、趙雲は一瞬目を見開いたかと思うと、次の瞬間、弾かれたように豪快に笑い出した。
姜維は思わず赤面した。
「趙将軍、そんなに笑わなくとも・・・」
何か、とんでもなく可笑しな質問をしてしまったのか。焦る姜維を前に、趙雲は
「ははは・・・、いやすまぬ。実はな」
ようやく笑いを収めると、なつかしげな遠いまなざしになった。

「思い出したのだ。そう言えば、ちょうど今のおまえぐらいの年だったのだな」
「は?」
「丞相が、亡き先帝、玄徳さまのもとに仕え始めた年がだ」
先帝、劉備。字は玄徳。漢王室の血を引きつつも、長く放浪し、ようやく蜀の国の帝についた矢先、呉との戦いに破れ、崩御したと聞く。
孔明が、この人にこそついて行こうと、すべてを託したと言う先帝。


姜維は、しみじみと頷いた。
「存じませんでした。そうだったのですか」
趙雲は、少しいたずらっぽい目で、
「同じことを、玄徳さまに言われたのだ」
そう言うと、にっと姜維に笑いかけた。
「え、同じこと?」
姜維は目を丸くした。
趙雲は感慨深そうに、言葉を継ぐ。
「若かったのだな、孔明どのも。我々にばかにされまいとして、気を張り詰め続けておられたのだろう。いつも青白い厳しい顔をしていた。そこを心配した玄徳さまが、もっと笑えとおっしゃったのだ」
そして、さらに可笑しそうに
「そんな顔をしていては、陣が暗くなるぞ、と笑い飛ばされてな」


もっと笑え、と?
戦いの最中にありながら、若き軍師に向って、そのように言い放つことのできる先帝とは、いったいどれほど豪胆な人物だったのだろう。
そう言われた時の孔明の困惑が、まるで手に取るようにわかる気がした。
孔明は、姜維の中に、昔の自分の姿を見ていたのだろうか。
だから、どこか心配そうに、それでいて、すべてわかっているのだと言うように、頷いてみせたのか。

「おかしなものだな。いつのまにか孔明どの、いや、丞相も、玄徳さまのように、若いものを気遣うほど、年を重ねられている」
そう言うと、趙雲はまだまだ若々しさを備えた横顔に、苦笑を滲ませた。
「私も年をとるわけだな」
「いえ、そんな・・・」
姜維は、慌てて首を振った。
実際、趙雲はまだ少しも衰えと言うものを感じさせなかった。
あらためて、そう言おうとする姜維を遮るように、趙雲はじっと姜維を見据えた。


「姜維、丞相をしっかり支えてやってくれ」
その言葉の重みに、姜維は戸惑った。
「いえ、私など、まだとても・・・」
「おまえにしか、できないのだ」
きっぱりと趙雲は言い切った。
「おまえには、充分時がある。私と違ってな」

趙雲の温かいまなざしに、ほんのわずかだが、寂しさが垣間見える。
どれほど頑健に見えても、本人にしかわからぬ老いの影を、感じているのかもしれない。
自分に、趙雲ほどの働きができるとは、とても思えなかった。
それでも、この見事なまでの武将の期待をも、背負わなくてはならないのだ。
趙雲は大きな手で、姜維の肩を励ますように、ぽんと叩いた。
「頼むぞ!」
そう言って歩き出す広い背中に、姜維は深く礼を取った。


                             * * *


そうだったのか。
孔明が、亡き先帝、劉備に仕えたのは、今の自分と同じくらいの年だったのか。
おそらく、その時の孔明も、待ち焦がれていた自らの宿命と出会い、心震わせて、新たなる道を歩み始めたのだろう。
笑わない、厳しい表情の孔明。
それは、今の孔明からは考えられないような気がした。
やはり、今の自分のように、誇りと共に、押しつぶされそうなほどの重圧も背負っていたのだろう。
引き返すこと叶わぬ道を進むことの緊張感、不安や焦りもあったのだろうか。
旅立ちに当たり、何か犠牲にしてきたものもあったのかもしれない。


――― 伯約は、笑わぬのだな・・・


穏やかな声音が蘇る。
その言葉にこめられた孔明の思いが、今更のように、胸に迫る。
だが・・・今は、まだ無理だ。
姜維は唇を噛みしめた。
今の自分には、笑ったり、穏やかな心持ちでいるだけのゆとりがない。
必死なのだ。どうしたら、少しでも孔明の力になれるのか、蜀のために働けるのか、考えるだけでせいいっぱいだ。
新たなる道のために、切り捨ててきたものの大きさも、心に重くのしかかっている。


(申しわけありません、丞相)
姜維は、心の中で孔明に詫びた。
いつか・・・こんな自分でも、孔明のように穏やかな微笑を浮かべることができるようになるのだろうか。
なんとも、心もとない気がして、姜維は小さく首を振った。
自分に、そのような時がくることを想像できなかった。

たとえ、年を重ね、今よりすべてにおいて力をつけたとしても、孔明の懐の深さには、自分はとても及ばないだろう。
それゆえに、孔明の微笑は美しい。心から、そう思う。
染み入るような孔明のまなざしを思い返し、姜維はまたしても、言葉にならないような切なさに浸っていた。