< 5章 〜決意〜 >




「そなたが漢中に来ていたとは、知らなかった」
諸葛亮のまなざしは、常と変わらず静かだった。
その声音にも、波立つものは感じられない。まるで、何事もなかったかのような穏やかさをまとっていた。
「情けない敗走であったゆえ、な。行方知れずと聞き、てっきり天水へ帰ってしまったものと、あきらめていたのだ」
諸葛亮はかすかに微笑むと、先ほどまで見ていた木簡に、また目を落とした。


何かの報告書であろうか。おそらく、諸葛亮のもとには、様々な用件の書簡が、途切れることなく届けられているのだろう。
忙しい時に来てしまったのか。いや、諸葛亮が忙しくない時など、めったにないだろうと、姜維は思った。



漢中に入って以来、初めて顔を合わせた二人だった。
馬謖との思いがけない顛末があった後、趙雲は、すぐにでも諸葛亮に会うようにと、強く姜維に勧めた。
いつでも会えるように、すべて自分が取り計らっておくから、とまで言ってくれた。
もとより、そのつもりだった姜維は、趙雲の言葉に甘え、さっそく諸葛亮のもとを訪れることにしたのだった。


諸葛亮は、ごく当たり前のように、姜維を迎えた。
まるで、蜀への帰還中、常に諸葛亮の近くに在ったのが、つい昨日のことのように思えるほど、自然な再会。
忙しい中にも、穏やかなゆとりを保っている物腰も、変わっていない。
「すまぬな、急ぎの書簡が届いている。少し待っていてほしい」
そう断って、諸葛亮は木簡を読み続ける。
その様子を、これもまた当たり前のように見守っている自分に、姜維は気づいた。
この人の側にいることが、これほどにも自然に思えるのは、なぜなのだろう。
「在るべき場所」、ふいにそんな言葉が心に浮かんだ。


                             * * *


ようやく、いくつかの書簡を読み終えて、諸葛亮はふっと息をつくと、姜維の方を向いた。
「待たせてすまなかった」
いえ、と姜維は小さく礼を返した。
「漢中は、どうであろう?」
「はい、とても住みよいところかと思います」
「それはよかった」
そのまま、沈黙が落ちる。諸葛亮の視線が、さりげなく姜維から逸れる。

そこで初めて、姜維はかすかな違和感を覚えた。
これは、今までになかったことであった。
まるで、次に切り出される話題を、少しでも先延ばしにしようとしているような、諸葛亮らしくない、ためらいの呼吸を感じたのだ。
さきほどまで、穏やかに思えていた静寂に、胸騒ぎのような困惑が混じる。

その原因に、姜維は思い至った。
自分がするであろう、ひとつの問いを、諸葛亮が怖れている?
いや、むしろ怖れているのは自分かもしれない。諸葛亮の答えを推測し、おそらくそれが正しいことを確信している自分がいる。
そして、そんな気持ちの強張りを、諸葛亮もまた察しているのだろう。
互いに、避けること叶わぬと知りつつ、逡巡している。

本来、ここに来て、真っ先に訊ねても不思議はない問いだった。
諸葛亮が、あまりに平静に自分を迎えてくれたがゆえ、そのことを慌てて問い詰めるのが憚られたのか。
だが、聞かないわけにはいかない。
姜維は、意を決して、その名前を口にした。


「馬謖どのは・・・いかがなされたでしょうか」


ぴくりと、諸葛亮の肩先が動いたような気がした。
頬の線が、わずかに硬さを増したように見える。
一瞬の間、そこに諸葛亮のため息が凝縮されているように思えた。
けれど、次に聞こえてきた声は、平静そのものだった。

「残念だが、先ほど・・・」
その短い答えに、姜維は覚悟していたとは言え、やはり愕然とした。
先ほど? すでにかの若き武将は、刑に処されてしまったと言うのか。
口惜しさとも切なさともつかない感情が、姜維の心を占めた。
最後に聞いた、馬謖の悲痛な声が蘇る。
丞相のために、力になってほしい、と・・・



諸葛亮の顔をじっとみつめる。その白い顔は、ことさら何の感情も映してはいないかに見えた。
けれどそれは、今にも剥がれ落ちそうな、脆い仮面のように、姜維には感じられた。
馬謖の死を目にして、まだ幾程も経ってはいないのだ。
よくよく注意して窺うと、涼しげなその眼が、ほんの少し赤い。
涙を拭った跡? 姜維の胸が痛む。

「馬謖のことでは、そなたにも面倒をかけた。みつけてくれたのが、そなたでよかったと思っている。馬謖も・・・」
水面にさざ波が立つように、声が震え、ふっと途切れた。
諸葛亮は、目を閉じ、ひとつ大きく息をつくと、
「馬謖も、たいそう感謝していた」
眉根を寄せ、うな垂れる。


この人は、今、とてつもなくつらいのだ。
翳る横顔に、押し隠された慟哭を、姜維は感じ取った。
どれほどか深く哀しみ、苦しんでいる。自らを厳しく責めているに違いない。
馬謖に策を誤らせてしまったことを、その馬謖をみすみす死なせるしかできなかった
ことを、心が張り裂けんばかりに嘆いているのだ。



「お気持ち、お察し致します」
低い声で、そう告げる。
他に、どんな言葉も思い浮かばなかった。
波立った水面が、また静まって行くような沈黙の間。
ふいに、諸葛亮の身体が揺れたかと思うと、がくっと机に手をついた。
顔を俯け、何かの痛みに耐えているように、肩を上下させる。
身体を支える手が、小刻みに震えている。


「私が・・・殺した」


絞り出すような、苦しげな声に、姜維の目が見開かれる。
「私が誤ったのだ。わかるであろう。私の考えの甘さが、蜀を大敗に導き、馬謖を死なせることになったのだ」
「諸葛亮どの、それは・・・」
「姜維」
諸葛亮は顔を上げると、ひたと姜維を見据えた。いつもの平静さは一変し、抑えきれぬ感情がそのまま表れたような、悲痛なまなざしだった。

「なぜ、あのまま街亭から天水へ戻らなかったのだ」
思いがけない問いかけだった。
戸惑う姜維に、さらに諸葛亮は言い募った。
「そなたなら、わかったはず。大切な戦を任せる大将の人選を誤るなど、指揮官としてあるまじきことだと。なぜ、あきれて見限って、魏へ戻らなかったのだ」


諸葛亮の頬を、ひとすじ流れていくものがあった。
姜維は、答える言葉を思いつかなかった。
まっすぐに諸葛亮の顔を見ていることができず、気がつくと、不器用に視線を逸らせていた。
やはり、泣いていたのだ、この人はこんなにも熱く泣くことができるのだ。
そんな思いだけが、心の中を駆巡っている。


「私は、身勝手な夢を見ていた。馬謖とそなた、二人が力を合わせて、いずれこの蜀の両輪となってくれたらいいと」
諸葛亮の切なげな声が続く。己自身を鞭打つように。
「自らの夢に酔って、経験浅い馬謖に、重い任を与えてしまった」
諸葛亮は、机についた手を、ぐっと握り締めた。
「すべて・・・、私の責任だ」

「いいえ、それは・・・」
意識するより前に、言葉が出ていた。
姜維は、自分でも思いがけぬほど冷静な声で続けた。
「それは違うのではないかと、思います」
「・・・違う?」
諸葛亮の声が、ひどく頼りなく響く。
姜維は、逸らしていた視線を、諸葛亮の上にゆっくり戻した。

「たとえどのような重責であろうと、引き受けたからには、その者はすべての責任を負う覚悟を持つはずだと、私は思います」
諸葛亮のまなざしが、驚いたように、戸惑ったように、姜維に注がれる。
「それが、武将たる者の誇りなのです」
まっすぐに、諸葛亮をみつめたまま、姜維はきっぱりと告げた。


そうだ、馬謖とて望んではいまい。
自分のために、このように冷静さを失って嘆く諸葛亮の姿など。
ふと、姜維は思った。
もしかしたら、馬謖は、諸葛亮の内に潜む、意外な脆さに気づいていたのではないだろうか。
冷徹に見えて、情を切り捨てることができない。
何かあらば、すべての責任を、自分が負おうとしてしまう。痛々しいまでに。
そんな諸葛亮だからこそ、馬謖は必要以上に期待に応えようとしたのか。自分の力量を超えてまでも。

趙雲もだ。
常に諸葛亮の力になるべく、心を砕いている。
いや、諸葛亮を護ろうとしているようにさえ見える。
天水での、諸葛亮と自分とのやりとりにやきもきし、鋭い視線で自分を射抜いた趙雲の姿が蘇った。
あれも、諸葛亮を心底気遣ってのことだ。


思えば諸葛亮は、どれほど多く人々の信頼を、蜀と言う国を担う重荷を、その身に背負っていることだろう。
おそらく、蜀のために犠牲になった者たちの命の重みをも、その無念をも、言い訳なしに受け止めてきたに違いない。
その清雅な微笑みの影に、どれほどの苦渋を忍耐を、そして心苛むほどの後悔を隠してきたことか。
それを知っている者のみが、全霊を賭けて、この人を助けようとするのだ。

(ならば、自分も・・・)
突然、心に湧き上がった熱望に、姜維は驚いた。
そうなのだ、わかっていたはずだ。
すでに自分は、もどかしいほどに強く望んでいる。
すべてを賭けてでも、諸葛亮の力になりたい、と。
たとえ、どんなにか厳しい道であろうと、この人について行きたい。


「諸葛亮どの、いえ、丞相!」
凛と響く己が声を、姜維は聴いていた。
「どうか、私にお命じ下さい。たった今より、蜀に仕えよ、と」
諸葛亮の目が、信じられないと言うように見開かれる。


「この姜維、信義を持って、蜀のため、力を尽くさせて頂きます」


微塵のためらいもなく、姜維は力強く礼を取った。
道は決まった。
いや、自ら選んだのだ。
己が知恵と力、そして胸ときめかすほどの誇りを持って、私はこの貴き人に仕えるのだ。
熱く揺るがぬ決意が、姜維の頬をかすかに上気させていた。