< 4章 〜月光〜 >



暮らしやすそうなところだ。
初めて漢中に入った姜維は、そう思った。
蜀の皇帝だった劉備亡き後、諸葛亮がずっと駐屯していたのが、この漢中だった。
人々の身なりも暮らしぶりも、つつましく素朴である。けれど、誰もがゆったりと、そして清々しい。
盗人や暴漢の類を見かけることもなかった。賞罰が行き届いている証拠だろう。
もっとも、蜀軍の兵たちが、それぞればらばらに敗走してきたことで、漢中に住む人々は非常に驚き、もしや魏軍がここまで攻めてくるのではと怖れ、一時は騒然としていたのだが。
その騒ぎも、ようやく落ち着いてきたようだ。人々はまた、いつも通りの日々の暮らしを取り戻している。


そう、信じられないことに、諸葛亮率いる蜀軍は、あの後大敗し、かろうじて祁山方面から帰還してきたのだ。
危うく全滅するところだった、と言っても過言ではない。それほどの負け戦だった。
その敗因は、魏の都、長安への道の要所である、街亭の守りに失敗したこと。
街亭の陣の大将に、諸葛亮はまだ戦の経験も浅い馬謖(ばしょく)を抜擢した。
馬謖は、若いながらも知力に優れ、弁も立ち、よく諸葛亮とも戦略について語り合っていた。
諸葛亮にとっては、自慢の愛弟子とも言える。それゆえに、街亭戦の大将に馬謖が自ら名乗りを上げた時、諸葛亮は迷いながらも承諾したのだった。

攻めることよりも、道を塞ぎ、敵の一兵たりとも通すことならぬ、との諸葛亮の命令に背き、なんと馬謖は、山の上に陣を張ってしまった。
なまじ、兵法に秀でていたが為に、策を読み誤ったのだろう。
運の悪いことに、その時の魏軍を率いていたのは、切れ者の司馬懿(しばい)。
馬謖の失策を、見逃すはずはなかった。
周りを囲まれ、水を絶たれ、山頂で孤立した馬謖軍に、勝ち目などあろうはずもない。散々に蹴散らされ、副将として諸葛亮の指示をしっかり守っていた王平の軍に助けられながら、馬謖はひたすら逃げた。
この大敗で、蜀軍は退却するしかなくなった。

しかも、魏軍の追撃を阻みながらである。
しんがりを務める趙雲の軍の、冷静にして激烈な奮戦のおかげで、なんとか最小限の被害のみで、漢中に帰り着くことができたのであった。
姜維はその様を、時に諸葛亮の側で、あるいはひそかに身を隠し偵察に赴きながら、一部始終見ていた。
退却の際に、諸葛亮の隊とはぐれたが、そのまま敗走する兵たちに紛れて、自分も漢中の地を踏んだのだった。


城内は、まだ混乱の中にあり、姜維のことを誰何する者もいないのを幸いに、あちこち様子を見て回ったり、出くわした兵士たちに話を聞いたりしていた。
漢中に来てから、まだ諸葛亮とも趙雲とも顔を合わせていない。
もしかすると、逃げたと思われているだろうか・・・
姜維は、心の中で苦笑した。さて、どうやって会いにいったものか。


なにやら城内の様子がおかしい、と気づいたのは、夜になってからだった。
ひそかな命令が出ているらしく、時折数人の兵士たちが小声で話しながら、駆け抜けて行く。
どうやら、誰かを探しているようだ。
「逃げた」とか「みつからない」と言う言葉が、途切れ途切れに聞こえた。
まさか、自分のことではあるまい。いったい誰のことだろう・・・
また数人が走って行く後を、姜維もさりげなくついて行った。
城の建物を出ると、みな三々五々に散る。

姜維はため息をついた。
らちもない。誰を探すのかもわからず、自分はいったい何をしようとしているのだ。
自嘲しながらも、ふと考える。
どんな奴かは知らぬが、自分なら逃げるために、まず馬を手に入れるな。
それも一時を争う。伝令が伝わりきる前に、城門を突破しなくてはなるまい。
そう思うと、やけに気になり、姜維は自分の勘を確かめてみたくなった。
さて、厩はどっちだったか・・・
うろ覚えのまま、姜維はこちらかと思える方へと足を向けた。


                             * * *



しばらくすると、厩独特の臭気が夜風の中に漂ってきた。
空を流れる雲が、月を隠したり、現したりしている。
満月には、まだ少し日が足りないようだが、それでも雲が晴れれば、十分に見通しは効く明るさになる。
闇にひそんで逃亡しようとする者には、なんとも気紛れな空に思えるだろう。

薄闇の向こうに、厩が見えてきた。
ちょうど、ひとかたまりの雲が月を隠したところだった。
姜維の神経が、かすかな気配に反応した。
足音をひそめ、じっと目をこらすと、厩の入り口に向い、そろそろと動く影がある。
厩番の者なら、あんなにしのびやかに歩くこともあるまい。
辺りを窺いつつ、馬を盗もうと狙っているに違いない。


当たりだったか・・・
相手との距離を確認する。この程度なら追いつける自信はあった。
姜維は、覚悟を決め、まっすぐ厩に近づきながら声を上げた。
「何者だ!」
ふいを突かれ、黒い影の動きが、びくりと止まる。
息を殺す気配。こちらの様子をうかがっているのだろう。
姜維も足を止め、だがいつでも駆け出せるよう、気を集中して構えた。
闇の中に、張り詰めた静寂が流れる。

次の瞬間、影はきびすを返し、厩の後ろ側に向って走り出した。
姜維も、すぐに後を追う。
相手の足は、さほど速くない。慌てているのか、足がもつれたような走り方だ。
あっと言う間に、その背中が近づいた。
と、何かにつまずいたのか、目の前の影がいきなり倒れこんだ。
姜維は、手際よく相手の両腕をひねり、後ろ手に押さえつける。
相手は、意外にも抵抗なく、なすがままになっていた。

「馬を盗んで逃げるつもりだったか?」
相手は身体を強張らせたものの、沈黙のままだった。
月を隠していた雲がするすると流れ、淡い光が地上を照らし出す。
姜維は、相手の身体を引き起こした。
顔を覗き込んだとたん、驚きに息を呑む。


「馬謖どの!」
姜維は、我が目を疑った。
髪は乱れ、無精ひげも伸びて、やつれてはいたが、その細面の顔は、諸葛亮のもとで何度か会ったことのある馬謖に間違いなかった。

ああ、そうだったのか・・・
姜維は胸の痛む思いで、納得した。いや、むしろ今まで、このことに思い当らなかった自分の迂闊さに歯噛みした。
命に背き、軍を大敗に導いた罪で、馬謖が牢に繋がれたことは、耳にしていた。
そして、諸葛亮が死刑を申し渡したことも。

姜維の声で、ようやく焦点が合ったように、馬謖も姜維の顔を凝視した。
「おまえは・・・」
馬謖は、憔悴しきった顔をかすかにゆがめた。
「姜維、と申したか。そうか、丞相に言われて、私を捕らえに来たのか」
姜維は答えず、ただ痛ましそうに眉をひそめて、馬謖をみつめた。
押さえていた手をそっと離すと、馬謖はそのまま、がくりと地面に手をついて、うな垂れた。


どうやって牢から逃げてきたのだろう。
いや、馬謖の知恵を持ってすれば、それはさほど難しくないかもしれない。
姜維は、自分が少なからず後悔していることに気づいた。
逃亡者が馬謖と知っていたなら、自分はこうして探そうとしただろうか。
厩ではないかと言う自分の勘が当たったことも、今では皮肉なことに思えてくる。
「悪あがきだった、と言うことだな」
自嘲するように、ぼそっとつぶやいた馬謖の背中を、姜維はやりきれない思いで見下ろしていた。


                             * * *


天水で、諸葛亮がさりげなく姜維のことを紹介した時、馬謖は興味深げなまなざしを、姜維に注いだ。
それは、諸葛亮が命を助けた敵方の武将とは、どんな男だろう、と言う好奇心の表れだったのか、それとも、軽蔑や不快を押し隠した表情だったのか。
いずれにしても、馬謖はそつなく型通りの挨拶を返すと、すぐに諸葛亮との戦略の話に熱中しだした。

姜維は、黙って二人の話を聞きながら、馬謖の様子を目に留めていた。
武官と言うには、線が細い気がした。だが、話す内容を聞いている限り、気転が利き、知識もあるのが十分に知れた。弁舌も滑らかだった。
この人は、自分こそが諸葛亮の後継となると信じているのだろう。
会話の端々に、そんな自信が仄見えた。
自分より幾分年上でありながら、まだ挫折を知らない、屈託のない自信に思え、姜維はそのことに、少しだけ危惧を覚えながらも、眩しさに似たものを感じていた。
その馬謖が、今みじめな様子で目の前にいる。
いやと言うほど、挫折を味わって・・・


                             * * *


「逃げて・・・どうなさるおつもりだったのです?」
聞いても詮無いことと思いながらも、姜維は問うた。
心のどこかで、生き延びさせてやれるものなら、と言う気持ちがおきていた。
許されるはずがないとわかっていながら、もし馬謖が望むなら、と。
だが、
「誰にも知られぬところで、命を絶とうと思った」
暗く沈む馬謖の言葉に、姜維は深く嘆息した。
まるで、あの時の自分のようだ。
自暴自棄になって、命を無意味に捨てようとしている。


苦い記憶を反芻する姜維の耳に、くぐもった笑いが聞こえてきた。
「哀れな奴と思っているのだろう、こんな馬鹿なことまでして・・・ どこまで丞相を怒らせれぱ、気がすむのだろうな」
一瞬、姜維は言うべきか迷い、言葉に詰まった。
けれど、このまま中途半端な気持ちで、馬謖に戻ってほしくはなかった。
わざと冷淡な声で、語りかけた。

「いいえ。きっと諸葛亮どのは、お許しになると思います。あなたが生き延びる覚悟で逃げたのなら。たとえ、実はこっそり逃がしたのだろうと、ご自分が周りから疑われたとしても」
息を呑む気配がした。
自分の逃亡が、諸葛亮の立場をさらに追い詰めることに、ようやく気づいたようだった。それほど、自分を見失っていたのだろう。

「あなたが、とことん生きるのだと決めたのなら、諸葛亮どのは、どんな非難を浴びようとも、あなたを生かしたいと思われるはず」
「そのようなこと!」
悲鳴にも似た声が上がった。が、すぐに、その声は力を失った。
「・・・できるわけないでないか。信頼を裏切り、軍を大敗させた。その上、どんな生き恥をさらせと言うのだ」
「馬謖どの」
「せめて・・・、せめて誰の目にも触れずに、死にたかった」

わかっている、その気持ち、十分すぎるほどわかってはいるのだ。
けれど、姜維は自分に鞭打った。厳しく言い募る。
「諸葛亮どのに、一生、無駄な重荷を背負わせてもですか」
打ちひしがれている相手に、こんな言葉を吐かなければならない自分を呪った。

「あなたは、戻らなくてはならない。諸葛亮どのをお慕いしているのなら、最後まで責任ある立場のまま、刑を受けなければならない」
馬謖は、その場にくずおれた。
肩が、小刻みに震えている。嗚咽を必死に噛み殺しているのだ。
姜維は、自分自身が責め苦に遭っているようなつらさに、じっと耐えていた。


                             * * *


バタバタと、辺りをはばからない足音が近づいてくる。
おそらく、先ほどの探索の命を受けた兵たちに違いない。
ようやく思い当って、厩へと足を向けたと言うわけか。
姜維は、とっさの判断で、馬謖をそこに残したまま、急いで厩の入り口へと走り、姿を現した。
わっ、と相手が二人、驚いて立ち止まる。
「あ・・・ば、馬謖どの、でありましょうか」
恐る恐ると言う口調で問いかけてくる。罪人にではなく、上官に対する言葉つきだ。
姜維は、ゆっくり重々しい声で答えた。

「私は姜維。諸葛丞相のお側近くに仕えている者だ」
「こ、これは、ご無礼申し上げました。あの・・・」
姜維の威厳に押され、兵はおどおどと謝った。
「気にかかることがあり、厩を調べていたのだが。誰ぞを探しているのか」
「はい、あ、いえ、その・・・」
言っていいものかどうか、兵は困ったように言葉を濁した。
「ここには、私しかいない」
きっぱりとした姜維の言葉に、兵たちは慌てて何度も頷く。

姜維はさらに落ち着いた声で命じた。
「急ぎ、趙雲将軍に伝言されたい。馬のことで、いささか気がかりがあるので、厩までご足労願いたい、とな」
「は、はい。趙雲将軍にですね」
「他の者には内密に」
「承知致しました」
兵たちは、礼を取ると、逃げるように駆け去って行った。

その後姿を見送って、姜維は厩の後ろ側に回った。
馬謖は、さきほどと同じ姿勢のままだった。
兵たちとのやりとりは、聞こえていたはずだ。
「お聞きになった通りです。後は趙雲どのにお任せ致します。私には、何の権限もございませぬゆえ」
そう言って、姜維は、すでに震えの止まった馬謖の背中を見下ろした。


「司馬懿と言う男、さすがだな」
ふいに、馬謖の冷静な声がした。驚いた姜維の顔を、馬謖はゆっくりと見上げる。
先ほどまでの虚ろさは消え、聡明な光の宿る瞳だった。
「私がおろかすぎたのかも知れぬが・・・ 一目で私の失策に気づき、水も漏らさぬ首尾で私の軍を追い詰めた」
「そう、でしたか」
「怖ろしいほどの冷徹さだった。丞相が警戒するはずだ。これからも油断ならんな」
まるで、普段通りに軍議をしているような口調だった。

司馬懿が為した策のひとつひとつ、自分たちの苦戦の様を、まるで他人事のように客観的に、かつ事細かに馬謖は語りだした。
姜維の質問にも、的確に答える。街亭での敗因を、必死に次の戦に役立てようと、苦心しているようだった。
そうだ、これが本来の馬謖なのだ。
もし、街亭での大敗がなかったなら、こうして今後の蜀のために、どれほどか馬謖と語り合うことになっただろう。
いや、そうありたかった、と心から思いながら、姜維も会話を続けた。
少しでも、馬謖の意志を感じ取り、自分の中に残したかった。


                             * * *


草を踏む重い足音が近づいてくる。
「いるのか、姜維」
趙雲の声だ。
「こちらです、趙雲どの」
「驚いたぞ、姜維。てっきり天水へ戻ったかと・・・」
趙雲は、ぎくりとして、姜維の足元にうずくまる人影に視線を落とす。
「馬謖ではないか、なぜ!」
馬謖は黙ったまま、趙雲に深く頭を下げた。
問いかけるような趙雲のまなざしに、姜維はかすかに首を振った。
「私は、たまたま馬を見に来ただけです。そして、偶然馬謖どのに出会った。詳しい事情はわかりかねますゆえ、趙雲どのをお呼びしたまでです」

趙雲は、馬謖をみつめ、しばし黙考した後、ようやく口を開いた。
「そうか・・・承知した。馬謖、よいのだな、それで」
馬謖は頷くと、しっかりとした声で答えた。
「お手をわずらわせ、申し訳ありません、趙将軍」
趙雲は、いたわるように馬謖を立たせた。そのまま馬謖の腕を取って、歩き出す。
姜維は、佇んだまま、そんな二人を見送っていた。


「姜維どの!」
切羽詰った声で叫んだのは、馬謖だった。趙雲も驚いて、足を止める。
馬謖は、振り向かず前を向いたまま、言葉を継いだ。
「どうか、丞相のために、力になってほしい。司馬懿などに決して負けぬよう、丞相を助けてほしい」
馬謖の表情は見えない。
「私の・・・代わりに・・・」
絞り出すように途切れて行く声に、姜維の胸はまた痛んだ。
答えを待たず、馬謖は趙雲を促して歩き出した。
その背に向って、姜維は大きく呼びかけていた。

「命を賭けて! 姜維、承りました」
ゆっくりと、馬謖が頷くのが見えた。
すっかり雲が晴れ、清かな月光がしんと降り注いでいた。