< 3章 〜岐路〜 >



姜維は視線を上げ、自分を覗き込んでいる諸葛亮の顔をみつめた。
「そなたの、力を貸してほしい」
一言ずつ、ゆっくりと確認するように、諸葛亮は言葉を継いだ。
「私ごときに、何を・・・」
それ以上は、言葉にならなかった。
うろたえたのは、己が心の不可解な動きに対してだと気づく。

諸葛亮が口にした言葉、それは姜維にとって、魏の国を裏切ることに他ならない。
憤りや嫌悪感をもたらしてしかるべきなのに、今姜維の心を占めているのは感激だった。
諸葛亮・・・自分には計り知れないほどの深い智慧と、人としての大きさを備えた、まごうことなき英傑が、自分の存在をまっすぐに見てくれている。
そのことが、姜維の心を熱くし、そして同時に戸惑わせていた。

「そなたの知力は、私の策を見破り、我が軍を翻弄したことで知れる」
驚いたことに、諸葛亮はひざまずいている姜維の両腕に手をかけて引き上げ、立たせようとした。
意外なほどしっかりとしたその力に、抵抗することも忘れ、姜維はぎくしゃくと立ち上がった。

そのことに満足したように、諸葛亮はふっと笑って、
「そなたの武勇は、趙将軍が証明して下された」
少しいたずらっぽいまなざしを、今度は趙雲に向けた。
「趙将軍が槍を合わせて、打ち負かすのも、押し返すのも手こずった相手など、私は今までに覚えがありませんからね」
「いや、それは・・・お恥ずかしい」
思わず、趙雲が照れたそぶりを見せ、だがきっぱりと告げた。
「姜維、おまえの腕前、見事だった」

趙雲の言葉に、諸葛亮はやわらかな笑みを浮かべ、姜維に視線を戻した。
「そして、そなたの心の強さは、たった今、私自身が確かめさせてもらった」
「私は、強くなど・・・」
「そなたの命、あまりにも惜しい」
笑みは消え、真剣そのもののまなざしにみつめられる。
「私を、助けてはくれぬか」

粉々になったはずの夢が、黄金のお盆に乗せて、目の前に差し出されたような・・・
姜維は、またしても心が震えそうになるのを、必死に押し留めた。
いや、だめだ、早急に結論など出してはならない。
あまりにも思いがけないことばかりで、自分は動転している。
もっと冷静に、状況を見極め、相手の思惑を読んだ上でなければ、判断できない。


                             * * *


こわばったままの姜維の表情を見て、諸葛亮は小さく頷いた。
「今すぐに納得するなど、無理なことは承知している。まだ私のことも、蜀の国のことも、何ひとつ掴めていないであろうからな」
「はい」
姜維は、正直に答えた。
「それでよい。そのままの気持ちでよいから、しばらく私の近くにいてはもらえぬか」
「近くに、でございますか」
姜維は、わずかに眉をひそめた。
「何もせずともよい。ただ近くで私の話すことを聞き、私の立てる策を知り、私の戦いを見ていてほしい」
「それは・・・」

姜維は、諸葛亮のあまりの無防備さに、あっけにとられた。
まだ本心もわからぬ者を近くに置いて、内情をさらし、もしも裏切られたら、どうすると言うのだ。
この人は、いつもこんなふうに簡単に、人を信頼してしまうのだろうか。
いや、それは選ばれた者だけかもしれない。
たとえば、後ろに控えている趙雲のような。
それでは、自分も選ばれたというのだろうか、本当に?
確信が持てず、姜維は答えを逡巡した。

「そなたが私を認められないと思ったなら、いつでも好きにするがよい。自ら命を絶とうとも、魏へ帰ろうとも、他国へ走ろうとも」
「いや、丞相、それではあまりに・・・」
さすがに、趙雲が慌てて、たしなめにかかった。当然であろう。
蜀の機密事項を掴んだまま、逃げられたなら、とんでもないことになる。
諸葛亮は、しかし小さく首を振り、趙雲を見やった。
「趙将軍、私が欲しいのは、心からの信頼を置ける人物なのです。それには、すべてをさらけ出した上で、相手にも信頼してもらえわなくてはならない」

そして、さらに厳しい顔で、
「もしも・・・姜維よ、私がただの敵、憎むべき人間だと思えたなら、遠慮せずに寝首をかくがよかろう」
「な、なにを! 冗談が過ぎるぞ、孔明どの!」
趙雲が、今までにないほど荒々しい声を放った。
憤慨のあまり公私を忘れたのか、親しげな口調になっている。
「申し訳ない、子龍どの」
諸葛亮もまた、字(あざな)で趙雲に詫びた。静かな声で続ける。
「ですが、冗談でも何でもありません。これほどの優れた武将に、運命を分かつ選択を迫るのです。こちらも、命を賭ける覚悟でなければ」
「だが、孔明どの・・・」
「よいのです」
穏やかな、けれど、決して揺るがない意志を秘めた声だった。

いきなり振り向いた趙雲の鋭い眼光が、姜維を射抜いた。
姜維は、背中に冷や汗が流れるのを感じた。
戦場で槍を交えた時ですら感じなかったほどの、すさまじい鬼気。
たとえ諸葛亮が何と言おうと、万が一、諸葛亮に何かあったとしたら、決してお前を生かしてはおかない、とその目は言っている。
姜維も負けじと、趙雲の視線を受け止めた。
卑怯なことなど、断じてするものか・・・
姜維の強い瞳に曇りがないことを見抜いたのか、趙雲はかすかに頷いて、平生の表情に戻った。

ふぅっと、姜維は気づかれないよう、小さく息をついた。
二人の信頼の絆を目の当たりにしたようで、どこかで羨望すら覚えていた。
そうだ、この二人が、がっちりと蜀を支えている柱なのだ。
そして、その蜀へ、自分と言うよそ者を連れて行くのか。
諸葛亮自身を試させるために。

いや、違う! 試されるのは自分だ。
何を見、何を知り、どう判断するのか、自分と言う人間が試されるのだ。
はたして自分は、諸葛亮の魂の誠を見抜くことができるのか。
身体中に、緊張感が張りめぐらされる気がした。
しかしそれは、なぜか心地よい緊張感だった。
今、自分は運命の岐路に立っている。
答えを出す日は、さほど遠くはないのであろう。

「承知してくれるか、姜維?」
さざ波ひとつ立たぬ水の静けさで、諸葛亮が問う。
姜維は、言葉の代わりに、美しい所作で深々と礼を取った。