< 2章 〜対峙〜 >



「姜維どの、よく参られた」

思いがけぬほど、やわらかな声が響く。
いつのまにか、その表情は微笑と呼ぶにふさわしいものになっていた。
張り詰めていた姜維の神経が、一瞬ゆるみそうになる。
まるで、客人を招いたとでも言うような親しみさえ感じられ、姜維は言いようのない戸惑いを覚えた。

神算鬼謀で敵を思うがままに翻弄する天才軍師。丞相となった今でも、孔明はその威力を発揮し続けているはずだった。
冷静に戦局を見極め、時に応じ、柔軟な策を打ち立てる。
相手の心を読み、その謀(はかりごと)すらも、逆に利用して勝利に導く。

緻密にして大胆、揺るがぬ自信に満ちた軍師の姿。それは、もしかしたら姜維自身が目指したいと願っているものなのかもしれない。
しかしその実像は、どこか俗世を超越したような、茫洋とした雰囲気をも漂わせ、それでいて時折、澄み切った水面のような怜悧さを垣間見せる。

掴めない、器が大きすぎるのか・・・
このような人物に出会ったのは、初めてだった。
姜維の胸のうちに、焦燥とも憧憬ともわからぬ感情が渦巻いた。


                                         * * *


「諸葛丞相であらせられる。礼を取らぬか」

はっと我に返る。
趙雲の声だった。いつ部屋に入ってきていたのか、うかつにも気づかなかった。
それほど、諸葛亮に気を取られていたのか。
姜維は慌てて、膝を折ろうとした。

「趙将軍、よいのですよ。姜維どの、かまいませぬ、そのまま・・・」
かすかに笑いを含んだ、あくまでも穏やかな声音。
その声が、失いかけていた姜維の冷静さを呼び戻した。
姜維はさらに姿勢を低くし、頭を垂れた。

動揺した様など、見せてはならぬ。
幼い頃より培っていた抑制力が、胸中の混乱を、あやういところで押し留めてくれた。自分の足元に目を落としながら、姜維は淡々とした口調で告げた。
「私は捕虜の身でございます。捕虜にふさわしく扱って頂きたい」
ほぉっ、と感心したようなつぶやきが、趙雲から漏れる。

捕虜にふさわしく・・・
そうだ、自分はすでに運命を投げ出した身。今さら、感情を乱されてどうする。
何があっても動じない、最後にそれくらいの誇りは見せたい。
負け戦の上、掴みどころのない相手に翻弄され、あまつさえ哀れみをかけられたのだとしたら、みじめすぎる。

「なるほど。敵方の武将として認めよ、とな」
諸葛亮は、小さくため息をついた。どんな表情をしているのか、頭を垂れている姜維には見えない。
「面を上げよ、姜維」
さきほどまでのやわらかさとは打って変わって、ぴんと張った威厳ある声。
姜維は、反射的に、低い姿勢から顔だけを上げた。
諸葛亮の視線とぶつかる。強い光の宿る瞳。

姜維は、ぐっと奥歯を噛み締めた。
決して目をそらすまい、と自分を叱咤し、まなざしに力をこめる。
そんな姜維の決意を受け止めるが如く、諸葛亮も視線を外そうとはしなかった。
息詰まるような沈黙の時が過ぎる。


                                         * * *


先に緊張の糸を解いたのは、諸葛亮だった。
先刻と同じように、ふっと目を細める。その様は、わけもなく姜維の心を波立たせるのだった。

「あなたのおっしゃる通りでしたね、趙将軍」
ふふっ、と小さく笑いをもらして、趙雲に頷いた後、姜維の顔に視線を戻す。
「さすがに手強い、噂にたがわぬな」
手元の白羽扇が、ふわりとかすかな風を起こす。
「死して、その名を残さんとするか。誇り高き、天水の麒麟児・・・」

姜維の頬に、わずかに朱が射した。
どこで聞いてきたのだろう、その言葉を。
年若き頃より兵法を修め、武勇にも優れた姜維を尊敬し、郷里の者たちは「天水の麒麟児」と噂していた。
そして、その噂こそが馬遵に、自分への警戒心を植えつけたのであろうことも、いつしか姜維は気づいていたのだ。
諸葛亮が発した言葉を、苦い思いで反芻する。

それにしても、諸葛亮は、このようなことまで戦いの合間に調べさせたと言うのだろうか、それも趙雲に。
相手に先んずるためには、まず、とことん相手を知れと言うことか。
とても敵わぬ・・・。
諸葛亮にも、そして、これほどの信頼を諸葛亮に寄せられている趙雲にも。
深いため息が、姜維の胸をじわじわと侵食する

「なんとも、惜しいことよ」
唐突に、諸葛亮が、さらりと水色の袍の裾をさばきながら、近づいてきた。
「そなたの目には、まだ強い意志が燃え盛っているではないか」
驚く間もなく、すっと膝を折り、姜維の目線と同じ高さになったかと思うと、じっと顔を覗き込まれる。

「なぜ、最後の最後まで戦わぬ? なぜ、虚しく縛についたりしたのだ」
まるで、味方を冷静にとがめているような口調。
姜維は言葉が出なかった。言いたいことは、あまたある。
けれど、何を言っても情けない言い訳にしかならないように思えた。
諸葛亮は、よく通る声でさらに言葉を継ぐ。

「私は潔い死に様など欲しいと思わぬ。誇りのために死を選ぶより、たとえどれほど無様であろうと、目指すもののために、斃れるまで戦う」
決意をひめ、どこまでも澄み切った目・・・

「それが、私の志しだ」

姜維は愕然とした。諸葛亮の言葉に、知らず胸苦しくなる。
それは、姜維の心の奥深いところにひそむ、切ないほどの願望を揺さぶった。

そうだ、本当なら自分もそうありたかった。
私は、私の信念のままに、持てる限りの力を尽くしたかったのだ!
声にならない自らの叫びを、姜維は聞いていた。

なぜ、あきらめてしまったのだろう。いつから、自分は屈折していたのだ?
もう遅い、運命は後戻りを許してはくれない・・・
うな垂れる姜維の耳に、不思議なほど温かい声が流れ込んできた。

「姜維、そなたの命、私に預けてはくれぬか?」