凍れる星            
< 序章 >


星が・・・。
まるで、あまたの星が闇の中で凍り付いているようだ、と姜維は思った。
ひんやり澄み切った空に、ひとつひとつの星がくっきりと己の存在を示している。


冷たい秋風に全身をなぶられるのもかまわず、姜維は空を仰ぎ続ける。
どの星なのだ、貴い人の魂が駆け上った、その星は…
この天心で、最も輝きを放つ星、清らかな白い星。
食い入るように、数知れない星をみつめながら、ふとまぶたの熱さに気づいた。その感覚が、すぅっと頬にまで伝う。

涙?

信じられない思いで自分の頬に手をやり、姜維は狼狽した。
自分が、この自分が泣いているのか。
涙など、とっくに乾涸びたものと思っていた。どんなに辛いと思った時でも、涙は出てこなかったからだ。

泣くという行為が、何の解決にも役立たないということに気づいたのは、いつだったろう。
常に冷静に、感情を表に出さないことに慣れきっていたはずだった。
それなのに今、まるで胸の奥深くからせりあがってくるように、熱い涙がとめどなく流れ落ちている。
姜維はぐっと目を閉じた。そうすると、なおさら涙は熱くまぶたをいっぱいにし、目の奥に痛みさえ覚えた。
かの人への呼びかけが、知らず呪文のように口をついて出る。

「丞相・・・」

答える声はない。
立ち尽くす姜維の頭上で、星は無言の煌きを放ち続けていた。


                                            * * *


< 1章 〜 彷徨 〜 >


「姜維とやら、どこへ行こうと言うのだ。もうこの地に、おまえの帰れる場所はない。こころよく降りてしまうがよかろう」

目の前に立ちふさがった鋼のごとき雄々しき武将が、朗々と声を張った。何度か渡り合い、引き分け合った蜀の名将、趙雲だった。
「馬遵(ばじゅん)はおまえを疑い、矢を射掛けたと聞く。信頼を自ら断ち切った馬遵に、これ以上忠義をつくすなど、むなしいと思わぬか」

姜維は、唇を噛んだ。
今、この場で趙雲に挑んでも、負けないだけの自信はあった。握り締めた槍の感触が、そう自分に告げる。
しかし・・・趙雲のきっぱりとした言葉が、すでにぐらつきかけている信念を、さらに揺さぶる。

この期におよんで、なんのために自分は戦うのだ?

幼い頃から武術を磨き、兵法を学び、亡くなった父の後を継ぐのにふさわしい、魏の国の武将となることだけを願ってきた姜維だった。
諸葛亮率いる蜀の軍勢が、この天水郡に寄せて来たと聞き、今こそ自分の力を尽くす時と決意を定め、諸葛亮の策の裏をかくべく知恵を絞り、自ら先頭に立って獅子奮迅の働きをした。

だが、天水郡の太守馬遵は、姜維が諸葛亮と内通し、自分を討とうとしていると思い込み、上けいの城に立て篭もって門を閉ざしたのだ。
もともと、疑い深い上に、臆病なところを持っている主ではあった。
姜維が諸葛亮の策を見抜いたことが、逆に災いして、誰かにあらぬ恐怖を吹き込まれたのかもしれない。
そうなれば、馬遵がひとたまりもなく脅えるであろうことは、容易に想像できた。

恐怖ほど始末の悪いものはない。
それは、疑心暗鬼にさらに拍車をかけ得る感情だ。
おそらく、馬遵は二度と自分を受け入れはしないだろう。
仕方なしに、冀県の城へと廻ってみたが、そこへも馬遵の伝令が届いているのか、中へ入ることはできず、姜維は途方に暮れ、さ迷った。

諸葛亮と内通しているだと、この私が? 
姿を見たことすらないと言うのに。
どこをどう疑えば、そういう結論が出るのだ。

憤りを超えて、冷笑が浮かびそうになる。
なんと言う暗愚な主に、自分は仕えていたことか。
今まで必死に築いてきた理想や忠誠心が、一挙に崩れ去るような情けなさに、姜維は打ちのめされていた。
そんな姜維の前に、再び立ちふさがったのが趙雲の軍だったのだ。


「姜維よ、まだ戦うと言うなら、いくらでも相手になろうぞ」

趙雲が、今一度大音声で呼ばわる。
みじんも揺るがぬ自信が、身体中から発せられているようだった。その自信は、そのまま趙雲に寄せられている信頼の厚さに比例するのであろう。
それに比べ、自分はもはや、誰からも当てにされていない。
そう思ったとたん、やるせないほどの虚脱感に襲われた。

手にしていた槍が、からんと音をたてて地面に転がる。
それにつられるように、姜維は膝を折って頭を垂れた。
縄を打たれる屈辱も、麻痺したような心には響いてこなかった。 どこへ引き据えられて、どんな死に様をさらそうと、かまわないと思った。

運命を足元に投げ出してしまえば、こんなにも気楽なのか。
端正な横顔が、自嘲めいた笑いに薄くゆがんだ。


                                          * * *


結局、圧倒的な蜀軍の勢力によって、天水、上けい、冀県とも落とされた。
馬遵は、わずかな兵と共に、命からがら逃げ出したと聞く。
悪運の強い・・・姜維は、胸のうちで苦々しくつぶやいた。
だが、もうどうでもいい、自分には関係のないことだ。

蜀軍に占領された城に連れて行かれ、すぐさま首を打たれるものと覚悟していた。
だが、どこからどんな伝令が届いたものか、丁寧に縄をはずされ、城の奥へと案内された。
通されたのは、さほど広くはないものの小奇麗な部屋だった。

これは、いったいどういうことだ?
訝しむ姜維の目の前で、卓の向こうから、ひとりの文官姿の人物が、ゆるやかな仕草で立ち上った。

――― 背が高い。

それが第一印象だった。淡い水色の袍が涼しげで、片手に添えられた白い羽扇が目を引く。

まさか・・・?

予想だにしなかったことに、胸の鼓動が大きくなる。
この戦いの最中において、まったく場違いな格好、しかもそれが当たり前のように落ち着いた佇まい。

諸葛亮だ、間違いない!

姜維は確信し、驚愕した。木偶のように突っ立ったまま、その人から視線が外せなかった。
相手も、ひたと、こちらをみつめている。
その表情に、切れ者と言う鋭さは感じられない。むしろ、ごく普通の文官と、どこと言って違いはないような・・・

いや、そうではない。

白い額にも、穏やかなまなざしにも、並々ならぬ智慧の輝きが窺えるではないか。
敵の城だったこの場所へ乗り込んだばかりなのに、まるで常にここで政務を行っていて、ひとときの息抜きをしているとでも言うような、くつろいだ様子。
それでいて、その立ち姿には一分の隙も感じられなかった。

けれど、静かすぎる。
相手のまとった空気のあまりの静謐さに、姜維は、何ひとつ感情を読み取れぬもどかしさを覚えた。
この人物が、さんざん自分たちの陣を苦しめた諸葛亮なのか。

と、次の瞬間、姜維に注がれていた諸葛亮のまなざしが、ふっと細められた。
たった今、何かしらの決断がなされた・・・なぜか、そう強く感じられ、思わず姜維は頬を強張らせた。