5.黒瑪瑙の贄
   (Koromenou no nie)




「真実は・・・」

「天と赤兄のみが知っている」

「わたしは・・・何も知らない」


しんと、水を打ったような静けさが広がる。
鎌足は、唇を噛みしめた。
やられた!
おそらく有間皇子は、これ以上何ひとつしゃべらないだろう。
まさか、ここまであからさまにしらを切るとは、鎌足は予想していなかった。
しかも、何ひとつやましいことなどないと言う顔で。
これでは、誰の目にも、無実の罪で赤兄に陥れられようとしているとしか見えない。
すでに玉座の女帝は、動揺した様子で、はらはらと痛ましげに有間を眺めやっている。
出家を促し認めさすなど、到底できようもない。
どうしたらいいものかと、中大兄皇子の方を向き、鎌足はまたもや息を呑んだ。

中大兄皇子の端正な顔は、怒りのあまり蒼白になっている。
思惑がはずれたこと、無言の挑発に乗り、有間の望む展開にさせられたことで、堪忍の限界にきているのかもしれない。
普段冷静にしてはいるものの、中大兄皇子の心の中に、時折激情が渦巻くことを、鎌足は承知していた。
(皇子さま、どうかお心を鎮めて・・・)
鎌足は強く念じた。
よもやとは思うが、中大兄皇子が取り返しのつかない言葉を発してしまったらと、鎌足は気が気ではなかった。


「有間・・・」
押し殺したような中大兄皇子の声に、誰もが内心びくりとした。
そう、ただ一人、有間皇子を除いて。
だが、みなの心配をよそに、中大兄皇子は強張った頬のままではあるが、強靭な意志の力で、平静な様を装い、かすかに笑った。
「なるほど。今すぐにことを決めるのは、早急すぎるようだな」
有間の顔は、今はまた無表情に戻り、光を放つ目だけが中大兄皇子を窺っていた。
中大兄皇子は、ふっとひとつ大きく息をつき、自分に言い聞かせるような調子で宣言した。
「そなたは、とりあえず飛鳥に戻るがよい」
有間は、黙ったまま深く頭を下げた。
音にならないため息が、そそここで漏れ、室内の緊張が、ぎこちなくとけた。


* * * * *            


「甘かったな」
鎌足とふたりになると、中大兄皇子は自嘲気味につぶやいた。
「私のせいです、申し訳ありません」
珍しく鎌足の顔にも、苦渋の色が見えた。
有間が手強いかもしれないことは、幼かった頃の末恐ろしいほどの怜悧さを見ても、想像がついたはずだったのに。
謀反を知らせてきた赤兄への不信感が、己が判断を誤らせたのだろうか。
それとも、様々な策を用いて、中大兄皇子の手から逃れようとした有間に、哀れみを覚えてしまったのか。
罪を軽くすることで、有間が素直に頷くと思い込むなど・・・
鎌足は、自分の中の思いがけない甘さを見て、自己嫌悪に捕らわれていた。

「あの有間を見ていたら、誰だとてだまされる。邪気など、微塵もないふりをして、あれほどしたたかな奴だとは」
中大兄皇子は、とりなすようにそう言ってから、眉をひそめて考え込んだ。
「さて、どうしたものかな」
ぼそりとつぶやいた中大兄皇子の声に、鎌足は我にかえったように、いつもの無表情に戻ると、じっと中大兄皇子の顔をみつめた。
その強い視線に気づき、中大兄皇子は口元を引き締めた。


「そうだな、私が決めるしかない」


* * * * *      


有間皇子は詮議の後、先ほどと同じ室に戻され、ひとりじっと座り、目を閉じていた。
やがて日が落ち、小さな灯りが点されてからも、同じ姿勢のまま動こうとしない。
まるで、一体の座像になってしまったかのように、白い横顔を伏せ、ゆっくりと時が過ぎ行くに任せていた。

どれほど経ったのだろう。
ふいに、外に人の移動するかすかな物音を捕らえ、ぴくっと有間のまぶたが震えた。
すうっと扉が開き、微風と共に気配が入り込む。
ゆっくりと、有間の切れ長の美しい瞳が開く。
唇の端が、微笑みの形に、ほんのりと上がる。
灯りが揺らめき、室に入ってきた者の影を、不気味に歪ませた。


「お待ちしておりました、中大兄皇子」
涼やかな声を、有間は発した。
まっすぐ据えられたまなざしの先で、中大兄皇子も不敵な笑みを浮かべた。
「なるほど、すべて見越していたと言うわけか」
中大兄皇子は、有間の目の前まで進むと、上から見下ろした。
「ならば話は早い。さて、今度こそ、ことの顛末を話してもらおうか」

有間は、毛ほども動じた様子を見せず、静かに言い放つ。
「何も・・・申し上げることはありません」
中大兄皇子は、すっと身をかがめ、片膝をつくと、有間の顔を間近に覗き込んだ。
「赤兄をうまく操ったな。私が、赤兄に見張らせていたのを承知の上でだ」
「さあ、何のことでしょう」
「謀反の企てはあった。おそらく他の者は知らず、おまえと赤兄の間だけでな。目標は大王ではなく、私。そうであろう」
有間は一瞬目を見張ると、いかにも可笑しそうに頬をゆるめた。
「赤兄どのを信じておられるのですか? あなたを恨んでいる、あの男を。あなたを、惑わせようとしているだけかもしれない」


中大兄皇子の顔に、怒りが走った。
「確かに、赤兄は私を恨んでいるだろう。だが、赤兄以上に恨んでいるのは・・・有間、おまえだ!」
中大兄皇子は、憤りに任せて言い募った。
「おまえは思っているのだろう。孝徳帝をないがしろにし、難波に取り残し、惨めな死に追いやったのは私だと。そして・・・」
わずかな間のためらい、
「后であった間人を、私が連れ去った。それも許せぬはず」
ふふふ、と有間が暗い笑いを漏らす。
「ご自分からお認めになるとは・・・ どうやら、禁忌の罪の意識は、お持ちらしい」


中大兄皇子の顔から、血の気が引く。
同母妹である間人皇女との道ならぬ恋は、中大兄皇子にとって、知られてはならない、触れられたくない唯一の弱みだった。
有間は、なめらかな頬から微笑みを消すと、氷のようなまなざしをひらめかせた。
「そう、私は父上からすべて聞いております。ご自分の罪を隠すためにも、私はさぞ邪魔でしょう」
中大兄皇子は、険しい目で有間を睨みつける。
「なるほど。それで、先手を打とうとしたか。赤兄や他の者をうまく躍らせたものだな。だが、残念ながら、赤兄では役不足だったようだ」

「赤兄など、最初から頼ってはおりません」
間髪を入れず、有間は切りかえす。
「あのような臆病者の恨みごとなど、いかほどに軽いものでしょう」
平然とした有間の顔から、中大兄皇子は視線を外した。
「おまえの恨みは、もっと深いと言うわけか」
中大兄皇子は、長い指先を額にあて、ため息をついた。
「それほど、私を亡き者にしたかったのか」

その苦々しいつぶやきを聞いたとたん、
「いいえ」
突然、有間の声に、満足そうな響きがこもる。
「あなたは、何もわかっておられない」
有間の顔に浮かぶ、美しい微笑み。
「逆なのです」

「・・・なんだと?」
中大兄皇子の眉が、怪訝そうに曇る。逆とは?
頭の中で、様々な出来事が目まぐるしく回転を始めた。
都に流れた噂、気狂いの真似、赤兄の見張り、紀の国への湯治の薦め、からになった都、謀反の企て、赤兄からの文、そして詮議での態度・・・
まるで、危うい立場に追い込まれるのを知りながら傍観しているような、いや、むしろ自らその流れに乗ったようにすら見える。
「有間、まさかおまえは・・・」
有間の声が、謳うように答える。


「申し上げたはずです。赤兄が知っている、と」


謎かけのような言葉。
有間に翻弄されている自分が、中大兄皇子は歯がゆかった。
そうだ、あの詮議の場で、有間は堂々と「赤兄のみが知っている」と言った。そして「私は知らない」とも。
あれで、ことの表面しか知らぬ者は、有間は無実なのだと思う。
赤兄の企みに乗せられたのだ、と。
しかし、赤兄の文を読んだ者だけは、さらに疑いを強めるはずだと、有間は確信していたに違いない。
(赤兄がどう言っているのか、あなたは知っているのでしょう。
さあ、私をどうなさいます?)
そう答えを迫っていたのだ。

「あなたは、私を生かしておくわけにはいかない」
まっすぐに、有間は中大兄皇子をみつめた。
「間違いなく、あなたへの謀反を胸にひめている私を」
中大兄皇子の顔が、苦しげにゆがむ。
「けれど、世の人々は、おそらく私の潔白を信じる」
有間の目に、鋭い光が宿る。
その瞳で中大兄皇子を射たまま、きっぱりと有間は声を張った。


「そう。あなたはまたしても、無実の罪で人を殺すのです。
自分の前途に邪魔な、前帝の皇子である私を」