4.紅玉の罠
   (Kougyoku no wana)




鎌足が入ってきたことに気づかないのか、中大兄皇子は険しく眉を寄せたまま、考え込んでいた。
鎌足は、遠慮なく近づいて、声をかける。
「赤兄どのは、何と?」
中大兄皇子は、顔を上げると苦笑いを浮かべた。
「有間が謀反、だそうだ。詳しくはまだわからぬ」
「さようでしたか」
抑揚のない声で、あっさりと返した鎌足に、中大兄皇子は一瞬、気の抜けたような表情を見せ、すぐに、くっくっと笑い声をもらした。
「おまえと言う奴は・・・」
まったく動じていない鎌足の様子に、あきれた口調でつぶやきながらも、中大兄皇子は、先ほどまでの憤りが収まっていくのを感じた。

「で、いかがなさいます」
「有間をここに来させる。赤兄もだ」
鎌足は、小さく頷く。
「そのほうがよろしいでしょうな。ここなら、何をするにも、人の目もいくらかはごまかせる」
「おい、鎌足、物騒な言い方をするな。飛鳥に戻るのも面倒なので、ここで詮議するだけだ」
中大兄皇子は、軽く鎌足を睨む真似をした。
「いえ、私はただ・・・」
鎌足は、いっこうに気にせず、言葉を続けた。
「皇子さまが、じっくりとお話をなさりたいのではないかと思いまして」
「話しだと?」
「はい、有間皇子さまと」

中大兄皇子は、目を細めたかと思うと、今度こそ本当に鎌足を睨みつけた。
「まったく油断ならないな、おまえは」
鎌足は、涼しい顔のまま、
「おそらく、そうでないと、皇子さまご自身納得されないでしょう」
そして、まなざしにかすかな憂いを滲ませた。
「そうなさるべきかと思います」


* * * * *            


額田王は、息を乱して走っていた。
有間皇子が謀反、と言う信じられない話を聞いて、矢も盾もたまらず、有間の館に向ったのだ。
赤兄が、有間の館を兵で囲んだとも聞いた。
あの赤兄が、どうして・・・いったい何があったと言うのだろう。
額田王は、裳裾が足にからみそうになるのを、かろうじさばきながら、走り続けた。


有間の館の前は、人だかりになっていた。
兵たちが、今にも出立するかの如く並んでいる。
まさか、有間を紀の国へと連れて行くのだろうか。
額田王は、焦りながら人垣の中に割り込み、有間の姿を探した。
けれど、まだ館の中にいるのか、みつからない。
嫌な予感が、ざわざわと胸を騒がせる。
それは、どれほど振り払っても、額田王の中から去ろうとはしてくれなかった。
絶望的な思いに、額田王は軽い眩暈を覚えた。

どうしたらいいのだろう。
有間と言葉を交わすことなど、到底無理かもしれない。
いえ、それどころか、もしかしたらもう二度と・・・
湧き上がってくる涙をぬぐいながら、額田王は祈るような気持ちで、有間の姿を求めた。
だんだん増えてくる物見の人だかりを、兵たちが無造作に追い払い始めている。
謀反人と言えども、前帝の皇子である。
人々の見世物になど、させるはずもなかった。
たとえ有間が姿を見せても、近づくことなどできない。
だとしたら、せめて・・・
額田王は、ある決意を胸にすると、居並ぶ兵たちの間に、必死に目を走らせた。


* * * * *      


赤兄は、自分の館に閉じこもっていた。
急ぎ、有間を紀の国まで連れてくるようにとの、中大兄皇子の命を、赤兄はすべて臣下に任せた。
とてもではないが、今の状態で、中大兄皇子に直接会う勇気などなかった。
有間の言葉が、呪いのように胸の奥に残る。

「あなたも、恨みを晴らしたかったのではないのですか」

そうだ、その思いは間違いなく自分の中にもあった。
大王と話し合いを持つだけと言いつつ、あわよくば中大兄皇子に打撃を与えられれぱ、と言う気持ちがあったのだ。
けれど、それは有間ほど過激なものではない。
あれほどはっきり「殺す」と言いきるなど・・・
正気の沙汰ではない、何かにとり憑かれているとしか思えない。
氷の仮面のような有間の微笑みを思い出し、赤兄はまたぞくっと肩を震わせた。


中大兄皇子に、どこまで言ったらいいものだろうか。
うっかり打ち明ければ、自分の本心の底まで探られそうな気がした。
有間とほぼ同時に捕らえた塩屋このしろ達は、あくまでも大王との話し合いの計画しか知っていないのだ。
なぜ、赤兄だけが謀反を知ったか、疑われることは予想できた。
いや、けれど自分はすぐに有間の館を包囲した。
その前のことは、他の者たちも承知している。
脇息が折れ、計画の決定を延ばしたことも、後に自分だけが残ったことも。
そして、その夜のうちに有間を取り押さえているのだ。

ふたりになった時、有間がつい本音をもらしたと言うことで、なんとか押し通そう。
こちらが不審に思って、有間にかまをかけた、と多少偽ってもいい。
とにかく、その旨を文にして送り、後は具合がすぐれないと言って、ここでじっとしている。それしかない。
赤兄は、自分に言い聞かせるように頷くと、かさかさに乾いた唇を湿らせ、震える手で筆を取った。


* * * * *      


そして、数日後、有間皇子は、大王や中大兄皇子の待つ紀の国に到着した。
すぐに館の一室に閉じ込められる。
有間到着の知らせを聞いたばかりの中大兄皇子のもとに、鎌足が顔を見せた。
「どうやら、着いたようだな」
中大兄皇子のつぶやきに、鎌足は、相変わらずの抑揚のない声で答える。
「同行した者たちの話を、少しばかり聞いてまいりました」
「ほぉ、手回しがよいな」
鎌足は、小さく頷くと話し始めた。

「有間皇子さまと共に捕らえられた、塩屋このしろ達の見張りの者が言うには、みな口を揃えて、自分たちはただ大王に工事をやめるよう言いたかっただけだ、と」
中大兄皇子は、ふんと鼻を鳴らした。
「それだけでも、十分に罪になるのだと教えてやれ」
鎌足は、口元だけでかすかに笑って、言葉を続けた。
「むしろ、赤兄どのこそ裏切り者。有間皇子さまに何がしかの恨みを持って、陥れようとしたに違いないと、旅の途中もずっと訴え続けていたそうです」
「当たらずも遠からず、か」
中大兄皇子は、皮肉めいた笑いをもらした。
「赤兄は、我らのご機嫌を取ろうと、先走ったと言うことか」
鎌足は、黙ったまま、何か考え込んでいる。

「どうした、鎌足?」
「いえ、まだよく状況が掴めません。とにかく赤兄どのに、直接お話を伺うのが一番かと」
「もちろんだ。赤兄には、すぐここへ来るように申し伝えてある」
鎌足は、またしても納得いかないように黙り込んだ。
その時、室の外から声がかかった。


「中大兄皇子さま、蘇我赤兄さまからの文が届いております」
「文、だと?」
中大兄皇子は、眉間に深くしわを寄せたまま、使いの者から文を受け取る。
「私は赤兄自身に来いと言ったのだ。なぜ赤兄は来ない!」
ぴしりと鞭の鳴るような、険しい中大兄皇子の声に、使いの者は縮み上がった。
「そ、その・・・赤兄どのはお身体がすぐれないゆえ、飛鳥の都にてご静養中とのことでございます」
「飛鳥にいるだと? ばかな・・・」
中大兄皇子の剣幕に、顔を青ざめさせている使いの者に、鎌足は無言のまま頷き、下がらせた。
中大兄皇子は、赤兄からの文を、少々乱暴に開いた。
厳しい表情で読み進むのを、鎌足はじっと見守った。

「鎌足、知っていたのか、赤兄が来ないことを」
「いいえ、先ほど到着した一行の中に、赤兄どのが見当たらないので、もしやとは思っておりましたが」
中大兄皇子は、苦々しく口元をゆがめた。
「だから信用できないのだ、あれは」
鎌足は、無表情のまま、中大兄皇子の落ち着くのを待った。


「有間が、私を殺すと言ったそうだ」
中大兄皇子は、あっさり言うと、赤兄の文を鎌足に差し出した。
鎌足は、急ぎ目を走らせる。
「これでは・・・詳しいことはわかりませぬな。ただ、有間皇子さまが
そう口にしたと言うだけで、どんな手筈だったのか、誰に実行させるつもりだったのか、まるでわからない」
「赤兄のでっちあげだと?」
鎌足はそれには答えず、中大兄皇子をひたとみつめた。
中大兄皇子の声は、苛立ちを隠せない。
「私は有間を見張れとは言ったが、謀反を起こさせよなどと命じた覚えはないし、謀反をでっちあげろとも言ってない」
「皇子さま」
「有間は本気だった、そうは思わぬか?」
鎌足は、そっけなく答えた。
「赤兄どのは信用できないと、先ほど申されたのは皇子さまです」

むっとした表情の中大兄皇子をたしなめるように、鎌足はことさら冷静な口調になった。
「皇子さま、これだけは申し上げておきます。今、有間皇子さまを処刑なさるのは、決して得策とは思えませぬ」
中大兄皇子のまなざしに、暗い影が射した。
「わかっている。私は・・・殺しすぎているからな」
自嘲めいた笑いを頬に浮かべた中大兄皇子を、鎌足は少し痛ましそうに見やった。
蘇我入鹿、古人大兄皇子、石川麻呂・・・みな、中大兄皇子の手によって、死に追いやられている。
冷酷無比な皇子だ、と言う人々の声も、聞こえてこなくはない。
「仕方なかったのです。ただ、今回は、いささかまずいと思われます」
「そうだな。有間は今、都でも人々に慕われている」
中大兄皇子は素直に認めた。

有間皇子の純真無垢な様は、それだけでも人々の同情を集める。
温厚だった孝徳帝の忘れ形見、すぐれた歌人としての才、たおやかな風情と際立つ聡明さ。どれも人々の憧憬を誘った。
へたに処刑などすれば、中大兄皇子への批難は高まり、これから先の帝位への道も、ますます険しくなるに違いない。
「それでは・・・どう処したらよいと思う?」


鎌足は、ゆっくりと言葉を選ぶようにして、話し始めた。
「とにかく、詮議の場で有間皇子さまに話させることです。どんな経過でこのようなことになったのか」
「話す、かな」
「話させるのです。おそらく、有間皇子さまもわかっておられるはず。
捕らえられた他の者たちと有間皇子さまが、同じことを申し立てたなら、こちらは信じるしかないのだと」
中大兄皇子は、まだ納得いかないように、顔をしかめた。

「赤兄どのは、ここへは来ていない。赤兄どの一人がどれほど都で騒ぎたてたとて、今証拠は何ひとつないことも、有間皇子さまは承知しておられると思います。それに・・・」
鎌足は、いったん言葉を切って、物憂そうな顔をした。
「都には、母君小足媛さまも残されております。有間皇子さまとて、むざむざ重い罪を背負いたくはないでしょう」

「それで? 罪の有無にかかわらず、有間を放免せよと?」
「いいえ、政への批判を直接大王になさるなど、当然それだけでも罪。有間皇子さまには、すぐさま出家して頂きます」
「出家だと?」
驚く中大兄皇子に、鎌足は厳しい顔で言葉を継いだ。
「どこか、深い山奥の寺にでも、こもって頂けばよろしいでしょう。
ただし、こちらの監視が届く範囲内で」
「なるほど。それなら、たとえ私の命を狙っていたのであっても、とりあえずは何もできぬ、か」
中大兄皇子は、渋々と言った様子で頷く。
「真実がどうであれ、あくまでも大王に意見するつもりだっただけだと、有間が言えばいい。そういうことだな」
鎌足は、低い声を響かせて、きっぱりと言い切った。
「はい。要は有間皇子さまご自身に、そう話させること。そして、出家を受け入れさせることです」


* * * * *   


「有間皇子さま、お出で下さい」
監視の者の声に、有間皇子は静かに立ち上がった。
旅の後の数日間の拘束で、いくらかやつれは見えたが、それでも仄白い顔は、いささかの曇りもなく、清らかなままだった。
落ち着いた足取りで、詮議の間へと向う。


数年ぶりに、間近に見る中大兄皇子。
端正な顔立ちと、冷徹なまなざし。あいかわらず細身ではあるものの、数年前より、さらに貫禄が増している。
そして、傍らに控える鎌足の浅黒い顔も、以前見かけた時に比べ、厳しく引き締まっているように思えた。
中央奥の玉座には、女帝が成り行きを見守らんと鎮座していた。
息をする音さえも響きそうなほど、室の中の空気は、ぴんと張り詰めている。
有間皇子の詮議が始まった。

正式な詮議の場ではあるものの、都から離れ、居合わせる者たちの数も常より少ない。
そのせいもあってか、中大兄皇子はまずは親しげな口調で、有間に話しかけた。
「久しいな、有間」
有間皇子は、黙ったまま頭を下げた。
「この度、蘇我赤兄より、そなたの謀反の知らせがあった。だが、赤兄はこの場に来ることかなわず、文のみの内容にて、今ひとつ事情がわからぬ」
有間は、まっすぐに中大兄皇子をみつめたままである。
その顔からは、何の感情も窺えない。

「すでに、塩屋このしろ、境部薬(さかいべのくすり)らには、話を聞いておる。みな一様に、謀反の企てなどしていないと申した」
中大兄皇子は、有間の顔をじっと覗き込んだ。
「それでは、いったい何の計画を立てていたのか。有間の口からも、詳しく聞きたいと思う。話してみよ」
有間皇子は、白い頬にうっすらと曖昧な微笑を浮かべたたまま、口を開こうとしない。
迷っているようにも、哀しんでいるようにも見える。

「どうしたのだ? 大王の前だとて、今は遠慮はいらぬ。このようなことになったいきさつを述べよ」
中大兄皇子は、鷹揚な声で催促した。
それでも、有間皇子は黙っている。
鎌足は怪訝そうに眉をひそめた。何か、不快な予感が胸をよぎる。
中大兄皇子の言葉は、十分事情はわかっているぞ、とほのめかしている。
他の者たちと同じことを話せば、それで通るのだ、と。
なのに、有間皇子は話そうとしない。なぜ?

「有間、おおよそのことはわかっているのだ。ただ、そなたがはっきりと申してくれなければ、私も頷くわけにはいかぬ」
中大兄皇子は、苛立ちの混じった口調で有間に迫る。
「なぜ話してくれぬのだ」
まるで、中大兄皇子の様相を、じっと観察している如く、有間皇子は沈黙を保ったまま。
室の空気が、徐々に不穏なものに変じようとしている。


ふいに、目の前の有間の姿が、不気味な静けさをまとったまま、存在感を増していくのに気づき、鎌足は狼狽した。
まさか、この皇子は・・・
「有間! 真実を話さぬか!」
中大兄皇子の声が、怒りに高まる。しまった、と鎌足が思った瞬間、
「真実は・・・」
有間皇子の透き通るような声が響いた。

「天と赤兄のみが知っている」
そして、勝ち誇ったように、有間皇子ははっきりと微笑んだ。


「わたしは・・・何も知らない」