3.琥珀の檻
    (Kohaku no ori)


有間皇子が、心の病を癒すため、牟婁の湯に療養に行ったと言う噂が、またもや人々の間を駆け巡った。
気の毒に、と涙ぐむ者も多かった。
けれど、内心は誰もがほっとしているのだった。
優雅な風情だった有間の、哀れに狂った様子は、とても正視できるものではなかったから。
有間の母、小足媛は同行せず、一人留守を守っていた。
どんなことがあっても耐えてほしいと言う息子の言葉を、小足媛は嘆きながらも、胸に刻んでいた。


都から、有間の噂が薄れたと思われる頃、有間はひっそりと飛鳥に戻ってきた。
牟婁の湯がよく効き、心の病がすっかり治ったことを、有間は女帝に報告に行き、その地の湯のすばらしさを熱心に語った。
女帝は、有間の回復を心から喜んだ。
有間の父、亡き孝徳天皇は、女帝の同母弟である。
残された有間のことも、女帝なりにかわいがり、心配していたのだ。

もともと、出歩くのが大好きな女帝は、有間の話す紀の国の様子に心動かされ、すぐに行幸を決めた。
もちろん、天皇だけでなく、中大兄皇子や大海人皇子をはじめ、家臣たちも大勢引き連れての、大掛かりな行幸である。
天皇一行が紀の国へと旅立つと、飛鳥の都は、なにやら火が消えたようにもの寂しくなった。

これでいい。思い通り・・・

有間は、満足の笑みをもらした。
退屈を何より嫌う女帝のこと、きっと有間の話を聞けば、なんとしても紀の国へと行ってみたくなるに違いない。
そう踏んだ有間の目論見は、見事に当たったのだ。
そして今、都の留守官をしているのは、蘇我赤兄。
当然、中大兄皇子の決めたことだろう。有間を見張るために。
これでいい・・・有間は、くり返し自分自身に言い聞かせた。


* * * * *            


「赤兄どので、大丈夫でしょうか」
中臣鎌足の問いに、中大兄皇子は平然と答えた。
「さあな。いずれにしろ、さして問題はないと思うが。有間が、それほど大胆なことをするとも思えぬし、赤兄にしても」
「蘇我一族の、最後の砦・・・」
鎌足は、中大兄皇子の言葉を遮って、ぼそりとつぶやいた。

「鎌足、何が言いたい」
中大兄皇子は、いささかむっとした顔を、鎌足に向けた。
常日頃から、鎌足は、その浅黒い痩せた顔にも、低く通る声にも、ほとんど感情を滲ませない。
石の如き無表情が、中大兄皇子には頼もしく思えていた。
が、時には、あまりにも考えていることが読めずに、苛立つこともあった。

「もし、赤兄どのに野望があったとしたら・・・」
「そんなものは、あの男にはない」
きっぱりと言い切る中大兄皇子に、鎌足は口元だけに、かすかに苦笑を浮かべた。
「人と言うものは、時に、思いがけない感情に捕らわれることもありますゆえ」
中大兄皇子も、にっと笑い返した。
「なるほど。もし赤兄が、蘇我の生き残りの意地で、野望を持ったとしたら」
「取る道は、ふたつにひとつ」
鎌足も、ためらわずに言い切った。

「有間にことを起こさせ、それをいち早く我々に密告してくるか、あるいは・・・我々を裏切って、有間につくか、だな」
鎌足の言わんとするところを、中大兄皇子は先に言ってのけた。
「皇子さまは、すべて読んだ上で、赤兄どのを選ばれたのですね」
「赤兄の立場ならではだな。それに、どっちを選んでも」
「結果は同じ、と?」
間髪を入れず切り返す鎌足に、中大兄皇子は、美しくも冷淡な微笑を浮かべた。
「赤兄は、私の恐ろしさを誰よりも知っている。いやと言うほどな」


鎌足は頷きながらも、ふと思い返していた。
中大兄皇子の側近くに仕えるようになる以前に、何度か訪れたことのある幼き皇子の顔を。
少女かと見紛うばかりの儚さと、淡く澄む瞳。
けれど、その奥にひそむのは、さざ波ひとつたたない水面のような、子供らしくない怜悧さ。
その凛とした面影が、ふいに、目の前の中大兄皇子とだぶる。

まさしく、二人は血縁なのだと感じた。
赤兄は、中大兄皇子を恐れながらも、その圧倒的な意志の力に、少なからず惹かれ、逆らえずにいる。
ならば、一見まったく違う風情ながらも、有間皇子が同じ匂いの強さを秘めていることにも気づくだろうか。
もしそうなら・・・ことは危うくなるやもしれぬ。
鎌足は、憂わしげに眉をひそめた。


* * * * *      


赤兄は、人目のない時を見計らって、有間のもとを訪れた。
年齢より老けて見える重々しい顔つき、けれど、その目にはどことなく気弱そうな落ち着きのなさがある。
赤兄は、考えていた。
有間皇子は、本当に治ったのだろうか。
いや、本当に心の病だったのだろうか。
その判断を、自分自身がなさなくてはならない。その緊張で、赤兄は手のひらに汗が滲むのを感じた。

そんな赤兄の前に、軽やかに現れた有間は、以前見張っていた頃の、虚ろで乱れた様子は微塵もなく、清らかな気品に満ちていた。
赤兄は、心からほっとした。
「有間皇子さま、ご快癒なされ、祝着に存じます」
「ありがとう。牟婁の湯のおかげで、すっかり心が落ち着きました」
細いけれど、よく通る美しい声。
「それはなにより。母上さまもさぞ安心なさったでしょうな」
赤兄は、磊落そうに笑ってみせた。

「あの、赤兄どの・・・」
有間は、無邪気そうに小首をかしげる。
「なぜ、わざわざ私をお訪ね下さったのです?」
「は?」
「いえ、今まで赤兄どのと、近しく話したことがなかったゆえ」
赤兄は、急にばつの悪そうな顔になった。
「皇子さま・・・、覚えていらっしゃらないのですか」
「何をでしょう」

有間は、淡い色の瞳を、まっすぐ赤兄に向けた。
何ひとつ、後ろめたいことなどない、澄んだ瞳。
赤兄は、いたたまれず、思わず視線を外した。
「その、皇子さまが病で外に歩いて出られていた時に、一度お会いいたしました。このお館までお連れ致したのですが」
有間は、にっこりと微笑んだ。
「そうでしたか。それは失礼致しました。さぞご面倒をおかけしたのでしょう」

赤兄は、有間の透き通るような笑顔に、なぜか気恥ずかしくなった。
これが、嘘偽りを言っている顔か。
やはり、この方は心の病だったのだ。
中大兄皇子は、疑いが強すぎる。
おそらく、有間だけでなく、同時に赤兄をも試しているのだ。
自分に忠実かどうかを。
何かきっかけがあれば、すぐにでも蘇我一族は滅ぼされるかもしれない。

もし、有間皇子に十分な後ろ盾と力があったならば・・・
ふと、そんな思いが湧いてくる。
亡き孝徳天皇が、遷都のことで中大兄皇子ともめていたことは、周知の事実である。
有間にも、自分と同じように、何かしら中大兄皇子に対するわだかまりはあるはずなのだが。

焦ることはない、と赤兄は思った。
今は、天皇も、中大兄皇子たちも都にはいない。
この機に、少しずつ有間の考えを聞きだすこともできるだろう。
もうすぐ19歳。しかも、並外れて聡明なことは知れている。
病の心配さえなくなれば、政に関わってきても当然と言える。
赤兄は、一人納得すると、今度は落ち着いて、有間の顔に視線を戻した。
こんなまっさらな皇子に仕えたいものだと、あらためて有間の清らかな佇まいに見入った。


* * * * *      


いつしか、有間の館には、境部薬(さかいべのくすり)や塩屋このしろと言った、有間を慕う者たちが集うようになっていた。
いずれも、今の女帝の政に、不満や不安を持つ者たちであり、おのずとそのことが話題になる。
民人の批判を、常に耳にしている者たちであればこそ、なんとかして大王の工事好きを食い止めたいと、みな本気で思っていた。

そんな中に、赤兄の姿もあった。
中大兄皇子から、有間の見張りを言いつかっていた赤兄である。
最初こそ、そのつもりで有間の館に訪れていたものの、いつしか有間の人柄に惹かれ、その聡明さや、外見に似合わぬ意志の強さを、頼もしく思い始めていた。

もし、有間が政に加わり、その才を発揮できたなら、と言う期待。
それはそのまま、蘇我の再興へのかすかな望みに繋がっていたことも否めない。
そして、中大兄皇子を裏切っている後ろめたさを、蘇我一族を陥れた恨みへと、無理やり置き換えようとしている自分にも、赤兄は気づいていた。それは、当然のことなのだと、言い聞かせた。


「思いきって、ご忠告申し上げてみようか。今ならば、紀の国で大王もおくつろぎゆえ、不意を突けるかもしれない」
ぽつりと、独り言のようにこぼれた有間の言葉に、赤兄をはじめ、みなハッと息を呑み込んだ。
この皇子ならば、女帝の心をも動かせるかもしれないと言う期待と、へたをすると謀反とも取られると言う危惧と・・・
誰もが、しばらく言葉を発するのに躊躇していた。
が、最初に賛成したのは、赤兄だった。

「試してみる価値はあると存じます。確かに、一歩間違えば誤解を招きかねない。けれど、ここで命運を賭けるだけの価値はありましょう」
命運を賭ける、それは有間のためでもあり、蘇我一族のためでもあるのだと、赤兄は思った。
女帝が有間を認めてくれれば、自分も側で有間の力になる。
「そうだ、すべては民人のため、大王にもわかってもらえましょう」
境部薬(さかいべのくすり)が、すぐに賛同した。
他の者たちも、力強く頷いた。


この日から、計画は具体的になって行った。
これは断じて謀反ではない、大王に対し、貴重なる苦言を呈するだけなのだと豪語する内心で、誰もが挙兵するような昂ぶりと、不安とを感じていた。
都を有間たちの制する兵で固め、大王のもとへ使者を走らせて、急ぎ帰京して頂く。
都のすぐ外で待ち受け、話し合いを持とうと言う計画であった。
これなら、圧倒的にこちらの兵の数が勝る。
もっとも、兵たちは、あくまでも大王を出迎えるため、と言う前提であるが。
大王も、話を聞かざるを得ないだろうとの予測だった。
大王への使者は、当然、留守官を任されている赤兄の家臣の中から選ぶ。

ところが、いよいよ紀の国へ使者を送る日を決めようかと言うある夜、なぜか有間のもたれていた脇息が、いきなり折れた。
「これは・・・いささか不吉ですな」
赤兄は、眉をひそめた。みなも、出鼻をくじかれたような気後れを感じていた。
「とりあえず、今日の話は、ここまでにしましょう。またあらためて、じっくりと決めればいい」
有間は、別段不安がる様子もなく、穏やかにそう言った。
みなが帰りかけるのを見計らって、赤兄だけを引き止める。

時は満ちた・・・有間の心は、自分でも驚くほど凪いでいた。


* * * * *   


「赤兄どのに頼みがあります」
「何でございましょう」
今更、何を頼むと言うのだろう。赤兄は、いぶかしく思った。
「赤兄どのにしか、できないことなのです。急を要します」
有間の静かな声に、緊迫感がひそんでいた。
先ほど、すべて後日にと言ったばかりなのに、何を焦ることがあるのか、赤兄はますます不審に思った。
「皇子さま、今宵は、もう遅うございますし、先ほどの脇息のことがございます。日を改めたほうが・・・」
なぜか不安になり、思わず逃げ腰になる。
「脇息は、私がわざと折りました。みなを帰すために」
えっ、と赤兄が驚く間もなく、

「赤兄どの、今すぐ使いの者をお願いしたい。ただし、呼び出すのは大王ではなく、中大兄皇子・・・ あの男を殺します」

「な、なんと仰せになる!」
あまりに唐突な言葉に、赤兄は顔を引きつらせた。
言いようのない恐怖が、背中をずずっと這い上がってくる。
「大王など、どうでもいい。私の狙いは、最初から、中大兄皇子ただ一人です。亡き父君を苦しめ、そして今、私を脅かしている」
「有間皇子さま・・・」
「亡き父君の遺恨を晴らしたい。赤兄どの、あなたもそうではないのですか」
怖ろしいほど澄んだ瞳に、じっと射られて、赤兄は動けなかった。

「蘇我一族にとって、中大兄皇子ほど恨みに思う相手はないはず。あなたも、その恨みを晴らしたかったのではないのですか。だから、私に近づいた」
「ち、違う、そんな・・・、恨みなどと・・・」
「まったくないと?」
有間のまなざしは、いささかもひるまない。
赤兄は、気圧され、無様にたじろいだ。
「いや、それは・・・し、しかし、いくらなんでも、無茶だ」

有間の顔に、うっすらと、静かな微笑が広がって行く。
微笑んでいながら、まるで無機質な仮面を思わせるその顔。
赤兄は、ますます恐怖を募らせた。
「相打ちは覚悟の上。私は今更、助かろうとは思っていない。けれど、あの男だけは、殺す」
有間の声は、流れるようによどみない。
「今都にある兵すべてで、取り囲みます。あなたは計画通り、使者を出して下さればよいのです」


赤兄は、今度こそ本当に腰を抜かした。
有間は本気だ。これは、まさに私怨による謀反・・・
冗談ではない。この皇子は、最初から大王に会う気など、さらさらなかったのだ。政に加わる気もない。
ただ、中大兄皇子を討ちたかっただけ。そのための兵を集めるのに、自分を始め、他の者の協力が必要だっただけなのだ。
もし、事が成らなければ、いや、たとえ事が成り、中大兄皇子を討ったとしても、有間は捕らえられ、加担した自分も間違いなく死罪だ。
赤兄は、目の前が真っ暗になった。
冷や汗が、寒気を覚えるほど流れる。

助かる道は、ひとつしかない・・・
とりあえず、朝一番で伝令を出すからと、有間に無理やり承諾させ、ほうほうの体で、赤兄は館から逃げ出した。
そのまま、赤兄はできる限りの兵を集め、すぐさま有間皇子の館を取り囲ませた。
紀の国への使者も、急ぎ出す。伝える内容は、たった一言のみ。


有間皇子、謀反!


ざわざわと無数の兵たちの足音が、館の周りから押し寄せる。
真闇の中に、兵の持つ篝火の明るさが、ぼぉっと浮かび上がるのを、有間はじっとみつめていた。
彫像のように静かな横顔。その口元には、かすかではあったが、確かに微笑が刻まれていた。