2.藍玉の翳
    (Rangyoku no kage)


「皇子さま、有間皇子さま、いかがなさいました?」
ふくよかな声に、有間ははっと我に返った。
額田王が気遣わしげにみつめている。
いつものように、有間の歌聞きたさに、訪ねてきていたのだ。
「何も・・・ 少し疲れたのかもしれない」
有間はまなざしに、かすかにいたずらっぽい微笑を含ませた。
「額田が、あまりに歌をねだるから」
「まあ、私のせい?」
ちょっとすねたように軽く有間を睨んだ額田王は、すぐにあでやかな笑顔に転じた。
「皇子さま、噂などでふさぎこんでしまわれてはいけません」
「え?」
「誰が何を言おうと、涼しいお顔をなさっていればよいのです」
気づいていたのか、と有間は苦笑した。

中大兄皇子が、有間の動静に目を光らせているらしい、と言う世間の噂は、嫌が上にも、有間の耳にも入ってきていた。
有間の父、孝徳天皇の死後、今度こそは中大兄皇子が帝位につくだろうと思われた。
だが、中大兄皇子はまたしても自ら退き、母である宝皇女(たからのひめみこ)が、再び女帝として、即位した。
宝皇女は、ちょうど乙巳の変の時にも、帝位についていたのだ。
蘇我入鹿が討たれた後、中大兄皇子に帝位を譲ろうとしたが、中大兄皇子は辞退し、有間の父、軽皇子を押したのだった。
さすがに、入鹿に斬りつけた張本人が、すぐに帝となることを、避けたのかもしれないが。

中大兄皇子の母、今の女帝は、様々な工事を起こすことに熱心だった。活気あること、派手なことが好きな質なのだ。
大きな倉を建てたり、長い溝を掘ったり、常に労役を強要されている民人は、徐々に不満を募らせて行った。
穏やかだった、先の孝徳天皇を偲ぶ声も聞かれ、それはそのまま、遺児である有間皇子への好感にも繋がっていた。
そんな空気が、中大兄皇子の神経をも刺激しているのかもしれない。

なぜ、中大兄皇子は帝位につかないのだろう。
有間は、焦れるように考えた。
皇太子として、政の実権を握っていたいのか。それとも・・・

(邪魔者がすべていなくなるのを、待っていると言うのだろうか)

ぞくっと、有間の背が震えた。
乙巳の変の後、もう一人の次期天皇候補であった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)は、辞退し、出家したにもかかわらず、謀反の疑いで討たれた。
乙巳の変で、中大兄皇子に協力した石川麻呂すらも、やはり謀反の疑いをかけられ、同じ運命を辿ったのだ。

次は、自分かもしれない。
前帝のただ一人の皇子。もし、今の帝に不満を持つ者が、反旗を翻す中心に、祭り上げようとしたなら・・・
中大兄皇子にとって、間違いなく邪魔な存在であるはずだった。
おぞましい予感は、常に有間の心に棲みついていた。


「額田はいつも自由で、うらやましい」
有間は、さりげなく話を変えようとした。
すると、額田王は明るい瞳を、くるりと有間に向けた。
「私が? 皇子さまには、私がそんなに自由にお見えになる?」
「見える。額田は、誰の手にも囚われず、美しく舞う鳥のように私には思える」
額田王は、ふっと目を細めた。
「自由でいることは、決してたやすくはないのです。絡めとろうとする手から逃れるために、時には、自らの心の一部を切り捨てなくてはならないこともあるのですよ」

有間の心にひらめくものがあった。
心の一部を・・・そうだ、そういう手もあるか。
そんなことでだまされるだろうか、あの中大兄皇子が。
だが、やってみる価値はあるかもしれない。
このまま、自分の周りに張り巡らされた網が絞られていくのを、じっと待っているくらいなら。

「私も・・・心くらい切り捨てられる」
低い声にこめられた、強靭な意志。
何か、つかみどころのない翳が、目の前の若き皇子を覆っていくような錯覚に捕らわれ、額田王は頬を強張らせた。
不穏な緊張感が、二人の間に流れる。
だが、瞬時の後
「そうしたら、もう歌は詠めなくなったと、額田に断ることができるな」
ふわっと声をやわらげると、有間は透き通るような笑みを、額田王に向けた。

「まあ、皇子さまったら。からかわないで下さいませ」
額田王は、たった今胸を冷やした不安を振り払うように、明るい声で有間を叱った。
振り払いきれない翳は、確かに額田王の中に残っていた。
この皇子は、すべて自分一人で呑みこんでしまう、自分を追い詰めすぎるのではないか。
それが、額田王には、どうしようもなく気がかりだった。


それからしばらくして、有間皇子の気がふれた、と言う噂が、またたく間に広がった。

* * * * *            


くるくるくる・・・

目に見えない花の乱舞を追って、有間は空に向って手を伸ばしながら、道の真ん中で回っていた。
衣の襟元がはだけ、みずらに結った髪もほどけかけている。
裸足の足は、すでに泥だらけだった。
行き交う人々が、気味悪そうに後ずさる。
あるいは、遠巻きにしながら、気の毒そうに見ている。
もう何日も続けていることとは言え、有間にとって、気狂いの真似をすることは、とてつもない気力と忍耐を要した。

「有間皇子さま!」
突然、聞きえ覚えのある声が、背後から追いかけてきた。
振り向かなくてもわかった。額田王だ。
額田王はためらうことなく、有間に近づき、そっと両方の腕を取ると、道の端へと連れて行った。
「おいたわしい・・・皇子さま、どうぞ気をしっかりお持ちになって」
額田王は、涙をためた目で有間をみつめ、乱れた髪を撫でた。
有間は、わざと焦点の合わない目線を、あちこちにさ迷わせた。

まいったな、どうやって逃れよう・・・
有間は、困惑した。
さすがに、よく見知っている額田王の前で、奇異な行動をとり続けるのは心苦しい。
額田王は、今にも声をあげて、泣き出しそうだった。
それもまた困る。
と、その時、すっと二人の側に近寄ってきた者があった。
「額田さま、どうぞ落ち着いて下さい」
視界の隅に入ってきたのは、蘇我赤兄(そがのあかえ)だった。


蘇我赤兄・・・乙巳の変で、中大兄皇子たちに討たれた蘇我入鹿とは、従兄弟の関係になる。
さらに、赤兄の兄である石川麻呂は、中大兄皇子に謀反の疑いをかけられ、無実の罪で討たれている。
衰退しそうな蘇我一族の中で、赤兄だけが、中大兄皇子に取り立てられていた。
石川麻呂が、間違いなく無実だったと後で知れたことが、かろうじて赤兄に幸いしたのかもしれない。
とは言え、赤兄が少なからず、中大兄皇子に対してわだかまりを持っていても不思議はない。

赤兄は、額田王の肩を、なだめるように軽くたたくと、有間の腕を掴んでいた額田の手をそっと外した。
有間は、内心ほっとすると、またその場でくるくると回り始めた。
このまま、さりげなく二人から離れて隠れよう。
そう思った有間の手を、今度は赤兄が掴んだ。
「額田さま、私が皇子さまをお館の前までお連れ致しますゆえ、ご心配なく」
「でも、赤兄さま・・・」
「貴女さまでは、目立ちすぎます。私にお任せ下さい」
あっけにとられた額田王を残し、赤兄はさっさと有間の手を引いて歩き出した。


いったい、なぜいきなり、赤兄は近づいてきたのだろう。
有間は、大人しく手を引かれながら、いぶかしく思っていた。
今まで、特に赤兄と親しい言葉を交わしたこともなかった。
偶然通りかかったにしても、ここまでする必要はない。
額田王と有間が親しいことは、誰もが知っているのだから、赤兄にしても、額田王に任せておけばよいと思うはずなのに。
おかしな男だ。

そこまで考え、有間はハッと思い当った。
そう言えば、このところ、自分が気狂いの真似で外を出歩いている時、やけに執拗な視線を感じることがあった。
誰かが、物珍しさに追いかけているのだろうか、と思っていたのだが、あれは赤兄だったのかもしれない。

有間の神経が研ぎ澄まされる。
夢見るような、虚ろな様子を装いながら、隣りを歩く赤兄の顔を、視界の端に捕らえ続けた。
そうだ、気配が似ている。遠くから注がれていた視線と、今すぐ近くに感じる雰囲気。
間違いない。有間は、自分の勘に確信を持った。
赤兄は、自分を見張っている。なぜ?

一人の男の顔が、有間の脳裏にはっきりと浮かんだ。


* * * * *      


「有間皇子の様子を探ってもらいたい」
中大兄皇子の言葉に、蘇我赤兄は驚愕した。
「どういうことでございますか」
「そなたも聞いているだろう。有間が気狂いになったと」
確かに、そのことは都中の噂になっていた。
「あれは、なかなか利口らしいのでな」
「まさか・・・気狂いは偽りだと?」
中大兄皇子は、端正な顔に皮肉めいた微笑を浮かべた。

「大王の政に、不満の声が多い。よもやとは思うが、前帝の皇子を担ぎ出そうとする不届き者が現れぬとも限らぬ」
「それで、有間皇子さまを見張れとおっしゃいますか」
赤兄は、顔をゆがめた。
「なぜ、私に?」
中大兄皇子の声は、そっけない。
「嫌ならばよい。他の者に申し付ける」

赤兄は、ますます顔をゆがめ、唇を噛んだ。
自分が絶対に断らないことを、中大兄皇子は承知しているのだ。
いや、断れないことを・・・
自分が見放されれば、蘇我一族は二度と日の目を見ない。
「承知致しました」
赤兄は、深く頭を下げながら答えた。


* * * * *      



「有間・・・」
母である小足媛が、心配そうに入ってきた。
「大丈夫なのですか、おまえ。こんなに汚れて・・・」
涙を浮かべながら、やわらかな布で有間の顔や手、足を拭いた。
「すみません、母上」
有間は、ひとつの考えに捕らわれ続けていた。

赤兄は、額田王に言った通り、有間の館の前まで来ると手を離し、有間に優しく声をかけた。
「有間皇子さま、さあ、母上さまが心配なさっておられますぞ」
そう言って、有間の背を軽く押しやると、自分はもと来た道を帰って行ったのだ。
有間は、その後姿に、じっと視線を注いだ。
やはり・・・そうに違いない。

ふと気がつくと、母が悲しい目でみつめていた。
事情は話してあるものの、我が子の惨めな様を、実際に見せ付けられるのだ。
その胸のうちはいかばかりかと、有間はいたたまれなくなった。
「申し訳ありません」
あらためて詫びる有間に、小足媛は優しく言った。
「いいのですよ、これでおまえが無事なままでいられるのなら、私はいくらでも我慢します」
「母上・・・」

有間は、黙っていられなくなった。
先ほどの疑惑は、すでに確信となって有間の心に根付いていた。
「だめ・・・かもしれません」
「え?」
「もしかしたら、すべて無駄かもしれない。気狂いの真似など、あの男はとっくに見抜いているかもしれません」
小足媛の唇から、声にならない悲鳴が漏れた。

「母上、どうか覚悟を決めて下さい。もしもの場合、私は中大兄皇子の思惑を覆すために、この命を賭けます」
「有間・・・!」
「これから先、私がどのようなことをしても、信じて見守っていて下さい。父上の遺恨、たとえわずかながらでも、私の手で晴らしたいと思います」
「有間、お願いだから、無茶なことは・・・」
「母上! 私にも皇子としての誇りがあります。このまま、身動きもせずに、相手の思い通りにはなりません」
有間は、きっぱりと声を張った。
小足媛は、唇を震わせたまま、有間の顔を見上げた。
「お許し下さい」
深々と頭を下げる有間に、小足媛は頷くと、そのまま泣き崩れた。