碧の汀


〜 Ao no migiwa 〜



1.翡翠の風
  (Hisui no kaze)


「磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む」

静かな声で、有間皇子は歌を詠みあげた。
白い横顔、遠くをみつめる淡い瞳、まるで、少女かと見まごうほどの線の細さ。
儚げで、たおやかな風情をもつ、年若き皇子は、今まさに、運命の旅路の途中であった。
謀反の罪での尋問を受けるための旅。その先には、斉明天皇はじめ、中大兄皇子たちが待ち受けているはずだった。
自らの命を賭けて、いや、投げ打ってまでも、有間皇子が為そうとした、ひとつの計画の終焉が近づいていた。


風も止み、海も眠るが如く、凪いでいる。
ひとときの休息の際、有間はすぐ側の松の、細くなった枝先を結んだ。
いったい何をしているのかと、監視の者が慌てて近寄ってくる。
が、有間のしていることに気づき、すまなそうに引き下がろうとした。
草木を結ぶのは、幸運を願う行為だ。
監視の者の目には、無実の罪が晴れることを、有間が祈っているように見えたことだろう。

その時、ふいに口をついて出たのが、あの歌だった。
自分でも気づかないほど深い意識の底から、湧き出たような歌。
「ま幸くあらば また還り見む」だなどと・・・おかしなものだ。
もう二度と帰り来ることなどないと、わかっているはずなのに。
覚悟を決めているはずなのに、あんな歌が浮かぶとは。

未練だろうか、いや、違う。
美しい砂浜、波の音、常緑の松の葉・・・穏やかそのものの風景に、自分の歌人としての魂が反応しただけなのだ。
有間は、感傷を振り払うように、目を閉じた。
松の枝を引き結ぶと言う行為、そして今詠んだ歌の内容で、生きて帰りたいと言う切なる願いを抱いた、薄幸の皇子としての有間の姿は、監視の者の目にしっかりと焼きついたであろう。

「あの・・・有間皇子さま」
後ろから、遠慮がちな声がする。
うつむき加減に振り向く有間に、監視の者は困ったような顔をしながらも言った。
「今、皇子さまが詠みました歌、今一度聞かせて頂けませぬか。できれば、書き留めさせて頂きたいと思いますので」
「なぜ?」
静かに問いかける有間に、ますます困ったように、
「その・・・ 実は、額田王さまに申し付かっております」
「額田に?」
「はい、もし旅の途中で、皇子さまが歌を詠まれるようなことがあれば、必ず書き留めて、後で見せるようにと」

意外な答えだった。いったい、いつの間に額田王は、そんなことをこの者に申し付けたのだろう。
いや、出立の時、集まっていた人々の中に、額田王の姿を目にしたような気がしていた。
斉明女帝の側に仕え、その息子の大海人皇子の想い人ともなり、周りからそれなりの立場をも認められている額田王なら、とっさに監視の者を見極め、命ずるくらいのことは、難しくはないだろう。

それほどまでして、私の最期の歌を知りたいと言うのか。
それも、額田王が有間のことを、野心も欲も持たぬ、無垢で哀れな皇子だと、信じている所以であろう。
そう思ってくれるよう、ずいぶんと苦心したのだから、これで甲斐があったと言うわけだ。
有間は、かすかな苦笑を唇に刷いた。

中大兄皇子の機嫌をそこねまいと、みなが有間から遠ざかっていた時にも、額田王は、常に堂々と有間に会いにきていた。
「有間皇子さま、歌をお聞かせ下さいませ。皇子さまは、毎日歌をお詠みになるのでございましょう? さ、今日はどんな歌を?」
にっこりとあでやかに微笑みながら、額田王は有間に歌を催促した。
自らも歌の才に秀で、それは神の声を降ろすようにさえ尊ばれているのに、額田王は有間の歌を、誰よりも認めてくれていた。
まるで、姉が自慢の弟を誉めそやすような様に、有間もいつしか、張り詰めた心の糸がほぐれて行くのを感じていた。

自分が遺した歌なら、おそらく額田王は涙ながらに、みなに謳い聞かせ、多くの同情を誘ってくれるに違いない。
あの男は、どんな思いでその歌を聞くだろう。
あの男・・・中大兄皇子。
暗い焔が、胸のうちを焦がしそうになり、有間は急いで自制した。
今はまだ、だめだ。
運命を嘆く、無力な皇子のままでいなくては。
私は、謀反の濡れ衣を着せられた、哀れな犠牲者なのだから。


有間は、結んだ松の枝を見ながら、もう一度、澄んだ声で歌を詠んだ。
監視の者は、必死にそれを書きとめる。
磐代の松よ、おまえをもう一度見ることなど、ありはしない。
それが一番わかっているのは、私自身。
そう、これは自ら望んだ道だ。
今更、悔やみなどしない。
有間の透き通るような頬が、人知れぬ決意に、厳しく引き締まった。



* * * * *       



有間の父、軽皇子は、乙巳の変(中大兄皇子、中臣鎌足らが、大極殿での儀式の最中に、蘇我入鹿を討った事件)の後、天皇に即位したが、事実上の執政者は、あくまでも中大兄皇子だったと聞く。
まだ若い同母の妹を、親子ほども年の違う父の后としたのも、自らの地位をより強固なものにせんと、中大兄皇子が考えての上だったのだろう。

物静かで穏やかな父は、すべてを唯々諾々と受けてきた。
けれど、天皇になってから8年後、中大兄皇子が、都を難波宮から倭京に移すと言った時だけは、断じて聞き入れなかった。
自ら築き上げた都に愛着もあったのであろうし、自分の知らないところで進められていた、遷都への反発もあったのだろう。

父の反対は、何の妨げにもならなかった。
中大兄皇子は、主だった血縁の者はもちろん、大半の臣下まで引き連れて、倭へ赴こうとしたのだ。
(あの日のことは忘れない)
有間は、唇を噛みしめた。


いよいよ難波の都を去ろうと言う日、中大兄皇子は父の前に姿を表した。
冷ややかなほど端正な、その面持ちからは、心の内は窺えない。
形通りの別れの挨拶をすませた後、中大兄皇子はわずかに眉根を寄せて、父に言った。
「大王も、どうかできるだけお早く、倭へお移り願いたい。ここは寂しくなりますゆえ」
「申したはずだ。私は倭へは行かぬ」
硬い声で、父はそっけなく答えた。
「しかし・・・何かとご不自由になると存じます」
「行かぬ」
珍しく、中大兄皇子が歯がゆそうに、顔をしかめた。
まだ、何か言い足りなそうな様子に、父の側に控えていた有間は、憤りを覚えた。
誰のせいで、父がこんな思いをしているのだ。
せめて、一時も早く、父の前から姿を消してほしい、そう思った。
「大王、どうか今一度・・・」
「中大兄皇子さま!」

気がついた時には、中大兄皇子の言葉をさえぎって、声を発していた。
驚いた中大兄皇子のまなざしが、ひたと有間に据えられる。
まるで、今まで美しい人形か何かと思っていたものが、いきなり動いて仰天した、とでも言う様子だった。
「これ以上の問答は、不要でございましょう。どうぞ、お引取りを」
高く澄んだ、よく通る声に、凛とした意志がこもっていた。
まだ13歳の少年、幼さの残る顔には、すでに類まれなる聡明さと、清廉な気品が漂っている。
一瞬、声を呑み込んだ中大兄皇子だったが、すぐに冷静さを取り戻した。
「なるほど、これはなんとも頼もしい。大王、賢き皇子でございますな」
あらためて、有間に向けられた瞳には、ひんやりと不敵な微笑みが浮かんでいた。


ようやく中大兄皇子が退出すると、有間はほっと安堵の息をもらした。
とてつもなく強大な壁に、立ち向かっているような気がしていたのだ。
ふと、この先の自分の道は、容赦なく遮られるかもしれない、と言う暗い不安がよぎった。
けれど、今はどうする術もない。
有間は気を取り直して、室を出た。そのまま、外の様子をうかがう。
今にも出立しようとする人々で、通りは溢れかえっている。
その中に、一際目立つのが、やはり中大兄皇子だった。
特別背が高いわけでもなく、むしろ細身であるのに、その立ち居振る舞いには隙がなく、それでいて堂々としている。

と、その時、するりと中大兄皇子に近づいた優美な女人の姿に、有間は我が目を疑うほど驚いた。
間人皇后、父帝に嫁いだ中大兄皇子の妹。
天女かと思うほどの、透き通るような風情を持つ間人は、咲き零れる花の如き美しい笑みを見せながら、中大兄皇子に寄り添った。
まさか、父を見捨てて行くと言うのか・・・
怒りよりも絶望が、有間を襲った。
父は知っているのだろうか。年の離れた美しい后が、夫よりも兄を取ろうとしていることを。
止めなくては、と思いながら、有間の足は動かなかった。
自分の力の及ばないところで、運命が回っている気がした。


父は、すべて知っていた。いや、有間の気づかなかったことまで知ってしまっていたのだ。
そのことを、父は歌に託して、間人皇后に贈った。

「鉗着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか」

馬になぞらえて、「大切にしていたはずの人が、いったい誰と親しくなって、連れ去られてしまったのだろう」と、痛烈な皮肉をこめた歌だった。
この歌を聞いて、さらに有間は血の気が引くのを感じた。
間人が中大兄皇子と?
まさか、そのようなことが・・・ 二人は同母の兄妹だ。
けれど父の歌には、中大兄皇子と間人皇后との、禁忌の恋が暗示されていた。
間人からの答えはなかった。


もともとあまり頑丈とは言えなかった父は、それからめっきりと弱り、病に寝込むようになった。
母である小足媛と共に、必死に看病したにも係わらず、父は一年後、ひっそりと息を引き取ったのだ。
有間自身も、魂が抜けたようになった。
何もかもが、信ずるに足りないような気がした。

父の死後、中大兄皇子の母である宝皇女が、斉明天皇として、飛鳥で再び即位したのを機に、有間も母と共に飛鳥へ移り、人目を避けるような静かな暮らしを始めた。
せめてもの心の慰めは、歌を詠むことだった。
美しい自然や四季の移り変わりの風情、俗世から離れ、自分の心の中を、歌を詠むことでまっさらに洗う。
そんなささやかな歓びだけが、有間の支えとなった。
けれど、そのつつましい暮らしにも、逃れようのない翳が忍び寄っていることに、有間はいつか気づいていた。

有間皇子、17歳。
無慈悲な運命の手が、この美しく聡明な皇子を、今まさに捕らえようとしていた。