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「磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む」
静かな声で、有間皇子は歌を詠みあげた。
白い横顔、遠くをみつめる淡い瞳、まるで、少女かと見まごうほどの線の細さ。
儚げで、たおやかな風情をもつ、年若き皇子は、今まさに、運命の旅路の途中であった。
謀反の罪での尋問を受けるための旅。その先には、斉明天皇はじめ、中大兄皇子たちが待ち受けているはずだった。
自らの命を賭けて、いや、投げ打ってまでも、有間皇子が為そうとした、ひとつの計画の終焉が近づいていた。
風も止み、海も眠るが如く、凪いでいる。
ひとときの休息の際、有間はすぐ側の松の、細くなった枝先を結んだ。
いったい何をしているのかと、監視の者が慌てて近寄ってくる。
が、有間のしていることに気づき、すまなそうに引き下がろうとした。
草木を結ぶのは、幸運を願う行為だ。
監視の者の目には、無実の罪が晴れることを、有間が祈っているように見えたことだろう。
その時、ふいに口をついて出たのが、あの歌だった。
自分でも気づかないほど深い意識の底から、湧き出たような歌。
「ま幸くあらば また還り見む」だなどと・・・おかしなものだ。
もう二度と帰り来ることなどないと、わかっているはずなのに。
覚悟を決めているはずなのに、あんな歌が浮かぶとは。
未練だろうか、いや、違う。
美しい砂浜、波の音、常緑の松の葉・・・穏やかそのものの風景に、自分の歌人としての魂が反応しただけなのだ。
有間は、感傷を振り払うように、目を閉じた。
松の枝を引き結ぶと言う行為、そして今詠んだ歌の内容で、生きて帰りたいと言う切なる願いを抱いた、薄幸の皇子としての有間の姿は、監視の者の目にしっかりと焼きついたであろう。
「あの・・・有間皇子さま」
後ろから、遠慮がちな声がする。
うつむき加減に振り向く有間に、監視の者は困ったような顔をしながらも言った。
「今、皇子さまが詠みました歌、今一度聞かせて頂けませぬか。できれば、書き留めさせて頂きたいと思いますので」
「なぜ?」
静かに問いかける有間に、ますます困ったように、
「その・・・ 実は、額田王さまに申し付かっております」
「額田に?」
「はい、もし旅の途中で、皇子さまが歌を詠まれるようなことがあれば、必ず書き留めて、後で見せるようにと」
意外な答えだった。いったい、いつの間に額田王は、そんなことをこの者に申し付けたのだろう。
いや、出立の時、集まっていた人々の中に、額田王の姿を目にしたような気がしていた。
斉明女帝の側に仕え、その息子の大海人皇子の想い人ともなり、周りからそれなりの立場をも認められている額田王なら、とっさに監視の者を見極め、命ずるくらいのことは、難しくはないだろう。
それほどまでして、私の最期の歌を知りたいと言うのか。
それも、額田王が有間のことを、野心も欲も持たぬ、無垢で哀れな皇子だと、信じている所以であろう。
そう思ってくれるよう、ずいぶんと苦心したのだから、これで甲斐があったと言うわけだ。
有間は、かすかな苦笑を唇に刷いた。
中大兄皇子の機嫌をそこねまいと、みなが有間から遠ざかっていた時にも、額田王は、常に堂々と有間に会いにきていた。
「有間皇子さま、歌をお聞かせ下さいませ。皇子さまは、毎日歌をお詠みになるのでございましょう? さ、今日はどんな歌を?」
にっこりとあでやかに微笑みながら、額田王は有間に歌を催促した。
自らも歌の才に秀で、それは神の声を降ろすようにさえ尊ばれているのに、額田王は有間の歌を、誰よりも認めてくれていた。
まるで、姉が自慢の弟を誉めそやすような様に、有間もいつしか、張り詰めた心の糸がほぐれて行くのを感じていた。
自分が遺した歌なら、おそらく額田王は涙ながらに、みなに謳い聞かせ、多くの同情を誘ってくれるに違いない。
あの男は、どんな思いでその歌を聞くだろう。
あの男・・・中大兄皇子。
暗い焔が、胸のうちを焦がしそうになり、有間は急いで自制した。
今はまだ、だめだ。
運命を嘆く、無力な皇子のままでいなくては。
私は、謀反の濡れ衣を着せられた、哀れな犠牲者なのだから。
有間は、結んだ松の枝を見ながら、もう一度、澄んだ声で歌を詠んだ。
監視の者は、必死にそれを書きとめる。
磐代の松よ、おまえをもう一度見ることなど、ありはしない。
それが一番わかっているのは、私自身。
そう、これは自ら望んだ道だ。
今更、悔やみなどしない。
有間の透き通るような頬が、人知れぬ決意に、厳しく引き締まった。
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