偽りの死線 …中編…
怖かった。 「何が」を認識する前に、ただ、怖かった。 自分は、何かを叫んでいる。泣きじゃくる子供のように。いやいやをする子供のように。目の前の現実を捻じ曲げたいがために。 でも、何も変わらなかった。 目の前で溢れつづける紅い血に、「死」という文字が、頭をちらつく。 以前、大いなる敵と戦った時、確かに「死」は隣り合わせだった。けれど、不思議と怖くはなかった。あれは、なぜだったんだろう。 気の置けない仲間達がいた所為だったのだろうか。 自分は一人じゃないんだ、と。 でも。 今、私はひとりだ。 私しか、いないのだ。 私が、今、立ちあがらないで、誰がこの現実を救ってくれるのだ。 しっかりしろ! 鮮血でぬるりとする拳を握る。 歯を食いしばった。 息も凍る寒さを肌で受けているかのように、全身の震えは止まらない。頬を流れる涙も止まらない。 それでも。 虚空を睨むようにして、雪乃は、肘まで紅く濡れた指で、携帯の番号を押した。 突如振り始めた土砂降りの雨は、小雨になっていた。全てを洗い流すかのように、あちこちで雨水が小さな川を作っている。 ずぶぬれになりながら駆けつけた桜ヶ丘病院は、いつになく騒然としていた。 夕暮れ時の病院内に、すでに外来の患者はいない。ひっそりと静まり返っているはずの待合室には、見知った顔が沈痛な面持ちで並んでいた。 「飛羅!」 「如月は?」 待合室の椅子から腰を浮かせた壬生に、水をしたらせながら息を切らしつつも飛羅は聞く。 「まだ手術中だよ。銃弾が体に何発か残っているらしい。院長先生だけじゃ手が足りないということで、さっき外科の医者が呼ばれたみたいだ」 聞かれるであろう話を、壬生から話す。 「で、どうなんだ?」 怖いような無表情のまま、飛羅は低い声で問う。それは、壬生が自ら話すことを躊躇った言葉だった。 「…厳しいところらしい。まだ、それ以上の詳しいことは分からないけれど」 ぎり。 瞳に一瞬怒りの炎が浮かび、歯が鳴った音がした。 「相手は?」 「分からない。一緒にいた雪乃さんが、あの状態だからね」 そう言って、壬生は待合室の隅でちいさく縮こまる雪乃に視線を投げる。 いつもの男顔負けな勢いはそこになく、待合室のソファに小さく膝を抱えていた。雛乃がその隣に寄り添い、優しく肩を抱いている。雪乃はがたがたと震えているらしく、それは遠目にも見て取れるほどだった。 「俺が聞く」 「…ちょっ…、飛羅、今は…!」 短く言うと、飛羅はすたすたと雪乃に歩み寄る。止めようとした壬生の手が肩に触る前に、飛羅は雪乃に目を向けたままその手を払いのけた。壬生の言葉を聞く気はないらしい。 「…雪乃」 仁王立ちのように、飛羅は立ったまま 雪乃を見下ろす。その表情に労わるような同情はない。 「アスラ…」 雪乃は、声をかけられ、ゆっくりと顔を上げた。血の気が引いた顔色は青白く、唇は白い。赤く充血した瞳は潤み、今にもこぼれんばかりのしずくが目のきわにたまっていた。 「如月は誰にやられたんだ?」 誰もが聞きたくも、雪乃の状態を見て聞けなかったセリフである。飛羅は、そのままずばりとその言葉を口にした。 雪乃は、びくりと体を強張らせる。震えは更に大きくなり、歯ががちがちと耳障りな音をたてていく。その瞳が、すがるように飛羅を見つめた。救いを求めるように。 「…如月は…」 「誰にやられた?」 飛羅は、雪乃の口ごもる様を見て、即座に問いを繰り返した。非情過ぎるほどに、それは端的だった。 「…如月…、如月は…」 話そうとしても、舌がもつれて上手くしゃべれない。 違う。 あの時を思い出したくないだけだ。自分の無力さを思い知ったあの時。手から零れ落ちる砂のように、如月の命は削れていった。 雛乃に携帯で連絡をしたのが、自分の限界だった。丁度桜ヶ丘病院を訪れていた雛乃は、全てを察知し、救急車を手配した。しかも、如月の負傷が拳銃によるものだと知るやいなや、面倒を避け、桜ヶ丘病院に搬送させたのだ。 その間、雪乃はただ震え、涙を流すばかりで、何もできなかった。 ただひたすらに怖かった。 まぶたを堅く閉ざした如月を、まともに見ることができなかった。 この現実を捻じ曲げたくて。目を覚ますと「全て夢だったのよ」と、誰かに言って欲しくて。 泣いていた。 「しっかりしろ、雪乃!事の真相が掴めない限り、俺達は動けない。おまえが話せなければ、如月を叩き起こしてでも聞くことになるんだぞ!?」 立ったまま、飛羅は叱咤の声を雪乃に落とす。瞳には、その口調とは裏腹に、怒気は映っていなかった。瞳に浮かぶのは、真剣な漆黒のみ。 「…アスラ……」 「姉様」 飛羅の行動を止めることなく、黙って二人を交互に見つめていた雛乃が、促すように、雪乃の肩を抱く手にほんの少し力を入れた。接したところが熱を帯びている。…暖かい。 …オレは、一人じゃない。 雪乃の瞳に、生気が戻ってきていた。真っ直ぐ、飛羅を見つめる。 「…如月の家の前で、如月に送ってもらって帰ろうとしたんだ。そしたら、如月に引きとめられて…」 ひとつひとつ、自分の言葉を口の中で咀嚼するように、話す。 「襲われたんだ。…5人だった。応戦して、奴らはすぐに帰ったんだ」 「そこで、傷は負わなかったのか?」 「オレがかすり傷作ったくらいだ。あっちも、たいした負傷なしに帰っていった」 雪乃は、ひとつ息をついた。意を決したように、こくりと喉を鳴らす。 「…黒い装束に般若の面。…あれは、鬼道衆だった」 ざわりと、待合室内に動揺が走った。 少し予想していた答えだったのだろう。飛羅は特に驚く様子もなく、雪乃に先を続けさせる。 「でも、そのときは如月は撃たれなかった。じゃあ?」 「奴らが撤退した後、如月が突然オレを抱えて倒れこんで…」 「…撃たれた」 「…多分。音は聞こえなかったんだ。ただ、あちこちで火花が散ってた」 「相手は見えたか?」 「…如月が、盾になるようにいたから…、良くは見えなかったけど、…一瞬だけ…、黒い装束と…般若の面が…」 鬼道衆。 「…『じっとしてろ』って如月は言ったけど、…じっとなんかしてらんなくて。…如月は撃たれてるのに、オレを庇ったまま…、術で追い返して…、血が……」 「分かった。もういい」 そのときの記憶が、鮮明に思い出されたのだろう。雪乃は、切れ切れながら掠れた声を喉から押し出していた。 屈みこんだ飛羅が、雪乃の頬を包むように手を当てる。 「辛いこと話させて、悪かった」 その言葉でたがが外れたのか、雪乃の瞳から、涙が一筋零れ落ちた。 「…オレ、…如月を助けたかった…」 「分かってる」 安心させるかのように、飛羅は微笑む。 「雛乃」 飛羅の呼びかけに、何も言わずとも察したのか、雛乃はこくりと頷き、雪乃を抱き寄せた。 飛羅は、待合室を後にする。それを、壬生が追った。 「飛羅」 「ん?」というように、飛羅が首だけを壬生に向ける。 「さっきのはひどかったんじゃないのかい?」 「ああ、そうだな」 「雪乃さんは、ここに来たとき、血で全身真っ赤だったそうだよ?それに、如月さんも、酷い怪我だったようだし」 雛乃が、雪乃に桜ヶ丘病院のシャワーを浴びさせ、着替えをさせたらしい。壬生が到着したとき、すでに雪乃は着替えた後だったが、その前は、本当に壮絶な状態だったようだ。戦場から帰って来たような。 「うん、そうだろうな」 「…飛羅…」 既に、声が届かないほど、待合室からは離れている。今、病院の廊下に立っているのは、壬生と飛羅、二人きりだ。 生返事のような素っ気ない返事に、壬生は少し考え込んだ後、再び口を開いた。 「嫌われ役になったというのかい?」 「……」 「まったく…、君は…。僕にも少し役割を割いて欲しいんだけどね」 半ば呆れたように、壬生は溜め息をつく。 「二人もいらないだろ」 「違うよ。二人なら、役目の重さが半分になるだろう?」 「…」 「まあ、君の立ちまわりは、皆の理解するところだろうから、君の立場が悪くなることはないだろうけどね」 「…紅葉…」 「なんだい?」 「正直、女の涙はしんどいな…」 やっと本音が出たことに、壬生は安堵した。穏やかな笑みがその顔に浮かぶ。 「そうだね」 足は、いつのまにか手術室の前で止まっていた。「手術中」とのランプは、堅く閉じられた扉の上で、絶望的に赤く灯っている。 押しつぶされそうな不安。多分、雪乃はこれ以上の不安と闘っていた。だが、だからといって、状況を知らぬままではいられないのだ。 …誰が、次の被害者が出ないと言えるのだ? と、唐突にランプが消えた。手術室の扉が開き、のしのしと岩山が姿を現す。岩山は、手術室の前に立つ2人に気付いたようだった。聞かれる前に、口を開く。 「如月は無事だ」 短い言葉に、飛羅と壬生はホッと胸を撫でおろす。が、それをちらりと見て、岩山は続けた。 「幸い、弾丸は心臓を外れておった。頭もな。だが、出血が多過ぎた。失血のショックで組織機能が極端に落ちている。予断を許さない状況だ」 からからと音を立て、如月のベッドが手術室を出てくる。点滴や人工呼吸器などの機器や管に覆われ、痛々しい姿だ。顔は真っ青で、血の気がない。まぶたは堅く閉ざされている。 皮肉っぽい笑みを浮かべたいつもの如月は、見る影もない。 打ちのめされたように立ち尽くす2人に、岩山は告げる。 「後は、如月の生きようとする力次第だね。ちょっとでも諦めたら、そこで終わりだ」 岩山は、無表情のままだ。淡々と話す。それは、感情を出すことで、余計な希望や絶望を相手に与えてしまうことを避けるためだ。絶望して欲しくはないが、冗談にも楽観できる状態ではない。 その表情で、飛羅たちは反対に、厳しい状況に気付いたようだった。共に、顔色が暗くなる。 「こんなときに悪いがな、去来川。悪い知らせがもうひとつある」 「?」 「『あの子』が亡くなった」 それで飛羅には通じたようだった。飛羅の顔が一瞬驚愕に染まり、目に見えるほど、その肩をがっくりと落とす。 「そうですか、分かりました。教えてくれてありがとうございます」 沈んだ表情のまま、飛羅は如月のベッドと岩山を見送った。壬生が、その顔をちらりと覗きこむ。 (『あの子』とは、誰だ?) 「『あの子』って誰だ?って思ってるんだろ」 疑問を見透かされて、壬生ははっと息を飲んだ。相変わらず、何でもお見通しか。 「…俺達の闘いの、被害者だ」 「!」 柳生との闘いの間、少なからず敵と街中で対峙した。それは、人々が集まる繁華街の中心でなくとも、周りに人がいなかったわけではない、ということだ。 その存在を気遣っていなかったわけではなかったが、本当にいるとは、初めて知った。なぜ、飛羅は知っていたのだろう。 「ずっと、植物状態だったんだ。でも、1%でも助かる可能性があれば、と思っていたんだけどね…」 「…飛羅、一人で背負い込まないでくれないか」 顔を上げると、壬生が少々怒った表情をしていた。 「君は、僕達に『一人で背負い込むな』と言うが、君もだ。君がそう言うんだ。僕達の気持ちも分かるだろう?」 「悪い。背負い込んだつもりもなかったし、言いづらかったんだ。…でも、これだけだ。他には、ないぜ」 「…」 「本当だって」 疑うような目つきの壬生に、飛羅は困ったように答えた。壬生は、ひとつ、諦めたように息をつく。 「分かった。だけど、次、もしこんなことがあったら、ちゃんと話して欲しいね。それでも話してくれないのなら、僕達が信用できないというのと、同じだよ?」 ちゃんと釘を刺すのは忘れなかった。 ギブアップとでも言うように、飛羅は両手を軽く挙げる。 「はいはい。分かりました」 「お墓参りに行くのなら、僕も行くからね」 「分かった。そのときは頼むさ」 おどけたように笑みを浮かべるが、ふと思うことがあり、その笑顔は固まった。 死。 今、死に直面している友人を思う。 如月の墓参りなど、したくはない。ふと浮かんだ想像を、鳥肌を立てたまま頭を振って吹き消した。 「如月…」 ぎゅうと、拳を握る。とめどない憤りが、体に溢れてくる。このふつふつと沸いてくる怒りをどこにぶつければいいのだ。 般若の面が、頭をよぎった。 「鬼道衆…」 「…飛羅。ずっと考えていたんだけど、本当に鬼道衆だろうか?」 「…どういう意味だ?」 飛羅の呟きに気付いた壬生が発した疑問の意図が掴めず、飛羅は首を傾げた。 「ずっと、ひっかかっていたんだ。相手の武器について」 「武器?…拳銃か」 「そう。徳川に復讐せんとする鬼道衆が、拳銃を使うだろうか。少なくとも、僕達と闘っているときは、彼らが拳銃を使ったところを見たことがない」 壬生の言わんとしていることは、飲みこめた。…が。 「じゃあ、誰が…」 「そこまでは分からないけどね」 「…いや、ちょっと待て」 飛羅には、ひとつ気付いたことがあった。 「黒い装束と般若の面。これを見れば、誰もが鬼道衆だと思う」 「そうだね」 「じゃあ、黒い装束と般若の面の者に襲われたら、鬼道衆に復讐したくなる。でも、実際襲った者が鬼道衆でなかったら、俺達が鬼道衆に復讐して、誰が得をするんだ?」 虚を突くような論理だった。少々突飛過ぎて、一笑にふしてしまいそうだが、笑い飛ばせない何かがその考えにはあった。 「慎重にならないとまずい気がする。考えなしに鬼道衆へ仇をとりに行ったらいけない気が…」 誰かは分からない。だが、誰かに嵌められている気がした。無視できないその考えは、確かに胸の中で膨らんでいく。 多分、この考えに気付かなかったら、飛羅達は怒りに我を忘れ、鬼道衆を襲っただろう。でも、それはあまりにも都合が良すぎる感がある。 何かが、おかしい。 ぐっしょりと濡れた衣服は、飛羅の肩にぴっとりと張りついていたが、前髪はそろそろ乾きつつあった。桜ヶ丘病院の窓から臨む空はまだ暗く、強い風はざわざわと木々を揺らしていく。 まるで生き物のような木々の動きは、飛羅達を見下ろし、嘲笑っているかのようだった。 雨はまだ、全てを洗い流してはくれない。 この世であって、この世ではない。別次元で時を刻む浜離宮は、相変わらず春を歌っていた。はらはらと散る桜の花びらの隣で、つぼみを開く桜。なんとも不思議な光景が、毎日のように続いている。 昔の歌人は、潔く散る花を見て、散らないでくれと慟哭を覚えたそうだが、彼、いや彼女の心のうちは、桜によるものではなかったようだ。 絵筆を取る前から分かっていたことだった。 彼女が描く絵は、普通のものとは違う。未来を映し出す鏡。予知というべきものだ。それは、真っ白なキャンバスに無心のまま描くものではない。ある程度の画像が頭の中にあって、それを描き出すことになる。 その画像は、こうしてキャンバスに描き出された。彼女の手によって。 不安は絵に表れた。かき消そうと思った画像は、その思いが強いほど、鮮明に描き出されていた。顔を背けたかったが、目に入れずとも、それはそこに存在している。他ならない自分が生み出したのだから。 彼女は、落ち着こうとまず深く息をついた。そして、胸のあたりの衣服をぎゅうと握り、速度を速める心臓を、少しでも静めようと、押さえつける。 「なんとかしなくちゃ」 思ったはずの言葉は、呟きに変わっていた。 唇を引き締めると、表情を整える。ずっとつきあってきた自分の顔だ。鏡を見ずとも、いつもの表情に戻っていることが分かる。 腰を落ち着けている車椅子を、からからと鳴らし、陽の差し込むアトリエを後にする。 彼女は、満開の桜を臨む日溜りの廊下を進むと、目的の扉の前に車椅子を止め、軽くノックした。しばらくして、ゆっくりと扉が開く。 「秋月様?」 「忙しいところごめんね、御門。お願いがあるんだ」 「忙しくなどありませんよ。なんでしょう?」 御門は、どんなに忙しくても、秋月の問いにいつもこう答えた。それでも、御門が忙しいことなど、秋月は知っていた。だから、余計な仕事は増やしたくなかったのだが…。 「あのね。額を用意して欲しいんだ」 「額、ですか?」 「うん。この前の依頼があった絵、完成したんだけど、額に入れた方がいいと思って」 御門の表情は、変わらない。が、一瞬の沈黙が、秋月には怖かった。 さとられてしまわないだろうか。 「どういった額がよろしいですか?」 口調も、変わらない。良かった。気付かれていない。 秋月は、心の中でほっと息をついた。 「えっとね。金で、ちょっと重々しいのがいいな」 「サイズはいくつになりますか?」 その答えは用意してある。 「F8」 F8とは、キャンバスの大きさだ。45センチ×38センチというところだろうか。油彩を描くなら、手ごろなサイズといえる。 御門の瞳が、一瞬意味ありげに細められた気がした。が、一瞬後、もとの表情に戻る。さっきのは、見間違いだったのだろうか? 「分かりました。蔵を探してきましょう。多分、以前購入したものの中に、そういったものがあったはずです」 「ありがとう」 秋月は、御門に微笑んだ。 「こちらでよろしいですか?」 蔵から戻った御門が、抱えた額縁をテーブルに置いた。フローリングとはいえ、落ち着いた色調の部屋は、和風に近い。洒落たレストランのようなリビングで、秋月は額を手に取った。 「うん。ありがとう。思ってたとおりの額だ」 テーブルに裏返しに置いてあったキャンバスを、同じように裏返しにした額に嵌めこむ。 努めて、自然に。 キャンバスに被せてあった包装紙をめくらず、そのまま額に嵌めこみ、くるりと裏返した。 「うん、思ったとおりだ。暗い色調になっちゃったから、金がよく映える」 秋月は、「ね?」と言うように、御門にその額を見せた。と、その手に重ねられる手がある。 「御門?」 ギクリとしたのを、極力表情に出さぬよう、小首を傾げる。 「秋月様、見せていただいてよろしいですか?」 「うん、いいよ」 一抹の不安を覚えつつ、御門に額を手渡す。 御門は、ゆっくりと絵を眺めると、案の定額を裏返した。そして、木枠に張られた布地を、指でなぞる。 本来は、釘で木枠に打ちつけられた側面に、わざわざ色が塗られることはない。…が、二辺だけ、切り取られた布地の際まで色が塗られていた。まるで、その部分を切り取ったかのように。 御門がその二辺の部分を指でなぞる。無言のままの御門から、秋月は目を離せなかった。 「み、御門。もういい?」 半ばひったくるように、御門の手から額縁を引き剥がす。 御門は、表情を変えぬまま、やがて口を開いた。 「秋月様」 秋月は、額縁を抱えた肩をびくりと震わせる。静かな御門の声が怖かった。 「な、なに?御門」 「今回は、小さな絵なのですね」 「うん。たまにはね。手を抜いているわけなじゃいよ?」 「そうですか。じゃあ、アトリエを片付けましょう」 「いや、大丈夫!後で僕が片付けるから」 今のアトリエに御門が来たら、全て知られてしまう。それは、避けなければ。 が、御門は有無を言わせなかった。秋月の車椅子を押し、アトリエに向かう。 「大丈夫だってば、御門。僕一人で片付けられる!」 上半身をひねり、車椅子を押す御門の腕を押さえる。車椅子から引き離そうと御門の胸を押すが、御門は全く頓着せず、ゆっくりとした足取りでアトリエに向かった。 「僕だけで片付けるってば!」 がちゃり。 秋月の声も虚しく、アトリエの扉は、御門の手によって開かれた。 そして、そこには。 開け放たれた窓を背に、大きなイーゼルが立てられ、両手を広げるほどの大きなキャンバスがかけられていた。足元や棚に散らばる絵の具や筆。 そして、その風景から浮き出るように、目をみはるものがあった。 キャンバスは無残にも切り取られている。そこだけ、別世界のように。 ちょうど、大きさは今秋月が抱えているキャンバスと同じくらいだ。 「飛羅さん…?」 予想はしていたのだろうが、それでも話すことを忘れていたかのように、ぽつりと御門が言った。 切り取られ、残ったキャンバスに、倒れている人が描かれていた。暗雲のような、なにかもやもやとした暗いものに、押さえつけられている。何人かいるが、一番手前にいる男に、見覚えがあった。 「秋月様、これは…」 「……」 秋月に、返す言葉はなかった。 見られたくはなかった。自分一人で何ができるかなど分からない。…だが、御門達に迷惑はかけたくなかった。 …いや、自分一人でも何かができることを、自分の手で試したかったのかもしれない。いつも、守られている自分に。無力な自分に。 そんな自分から決別したかったのだ。 「ごめん、御門」 「説明していただけませんか?」 御門の口調は、いつもと変わらない。静かに、そして、感情の起伏のないしゃべり方。しかし、その口調から彼の感情は読み取れなかった。 ただ、常に秋月に対してだけは、御門の口調には穏やかさがあった。今、それはない。その言の葉には、深刻な影がある。 「僕にできることがしたかったんだ。どんなに責められようとも」 秋月は、屈みこんでその表情を覗き込んでくる御門を正面から見つめて、そう応えた。 「こんなことが許されるはずないって、僕も分かってる。お金を払って僕の絵を買おうとする依頼者の信頼を、僕は裏切っているんだ。…でも…」 秋月は、微かに眉間にしわを寄せると、視線を逸らし、桜の花びらが散る床に落とした。 「僕は、…僕だって、戦いたい。守られるだけなんて、嫌だったんだ」 「私は」 じっと耳を傾けていた御門が、おもむろに口を開く。秋月は、驚いたように御門に視線を戻した。 「あなたがただ守られているだけで、戦っていないなどと、思ってはいませんよ」 「…え?」 「むしろ、私達よりも、常に前線で戦っているとも、思っています」 意味が、分からない。秋月は、首を傾げた。いつのまにか、その表情が穏やかになっている御門にも気付かない。 「私にあるのは、陰陽道の力のみ。村雨や芙蓉にあるのも、目の前にいる敵をなぎ払うもの」 「それが、戦っているってことじゃないの?」 「そうですね。そういった戦いもあります。しかし、あなたは違うところで戦っている。未来と」 「僕は、ただ未来が見えるだけだよ?それを絵に描けるだけだ。目の前にあるものを退ける力なんて、ない」 「私達には、未来を見る力はありません。それが、どんなに絶望的な未来でも」 秋月は、息を詰まらせた。 「どんなに私があなたを手助けしたいと思っても、私には、未来を予見する力はありません。一人戦うあなたを、せめて守りたいと思ってはいけませんか?」 「…でも、僕は…」 緊張がゆるんだら、同時に零れてしまいそうだった。ぎゅっと拳を握る。 「みんなと一緒に、みんなと一緒の場所で、戦いたかったんだ!」 たとえ、自分が足手まといでも。たとえ、自分の戦いの場がそこではなかったとしても。 感情を吐露した途端、こらえていたものが瞳から溢れ出した。膝に、涙が染みを作っていく。 「薫さん」 優しげな声が、膝を抱えるように俯いていた薫に降ってくる。 「依頼主に、この絵を持って、会いませんか?」 「え?」 切り取られ、額に収められたキャンバス。栄光を掴むように、大きな手が光を握っている。それが、依頼主の未来の姿。 「でも、その絵は…」 「これも、依頼主の未来の姿です。そして、切り取られ残されたあの絵も、真実。そこに私達の友人がいるのなら、黙って見ていなければならない義理など、ないと思われますが?」 「…御門!」 薫の表情が、ぱっと輝く。 「村雨と芙蓉を呼び戻しましょう。それと、飛羅さんに会う必要がありますね。依頼主に会うにも、準備が必要です。ただ…」 「ただ?」 小首を傾げた薫が、きょとんとした表情で御門の次の言葉を待つ。その仕草は、無意識なのだろうが真実の女性で、惹きつけられ目を離せない魅力があった。 ふと、御門は自嘲気味に笑う。 「いえ。ただ、あなたの身は、守らせていただきますよ」 薫は一瞬言葉を失ったようだが、頬の涙を拭うと、応えるように満面の笑みを浮かべた。 戦いに向かうはずのその表情に、暗い影はない。それは、守られる安心感からか、それとも共に戦う仲間達がいるからか。 なんにしても、その笑顔は、戦場に立つ女神に等しかった。守られているのが、自分のような気さえしてくる。 どこが、守られる存在か。 自分を無力と信じて疑わない彼女に、御門はまぶしそうに目を細めた。 守る理屈などない。そこに、彼女がいるから。そして、その存在に自分は救われているから。 あなたは、そこにいるだけで、私の幸いなのだ、と。 理路整然と並ぶ御託に、分かりやすいことを感謝しつつも、出された茶をすすりながら、多少飛羅はうんざりしていた。 桜ヶ丘病院を出た直後だった。できるだけ集団行動を、という結論から、数人が組みになって帰宅の途につく。それぞれの家に着き、たとえばらばらになったとしても、すぐに連絡が取れるようにすること。それを徹底した。 そんな中、とりあえず濡れた服を着替えたいと、足早に帰り道を急いでいた飛羅の目の前に、村雨と芙蓉が現れたのだ。 拒否権はなかったらしい。 浜離宮に着き、差し出された服は村雨のもので、アロハシャツと紫のパンツというまったく自分の趣味ではない派手なものだったし、これを着て帰ることも、後に洗濯をして感謝を述べつつ返すことを想像するだけでも、気分は重い。 なんで、この状況で、俺は村雨に感謝しなきゃいけないんだ! そのときの村雨の顔が目に浮かぶ。にやにやと、貸しを作ったことをほくそえむのだ。 腹が立つ! 「で?」 相当な不機嫌を隠さず顔に出し、飛羅は次を促した。 「私を睨んでも始まりませんよ」 「悪いな、俺は今、めちゃくちゃ機嫌が悪い」 「そう、怒んなさいな、先生」 (誰の所為だと思ってやがる!このクソ陰陽師とクソ賭博師が!!) イライラと、心の中で吐き捨てる。 「とりあえず、状況は今お話した通りなのですが。これを、見てください」 御門がテーブルに差し出したのは、金の額縁に収められた、光を掴む手の絵。そして、立ち上がり、リビングに立てたイーゼルにかかる布をするりと外す。現れたのは、切り取られたキャンバス。 そこには、飛羅がよく鏡でみる顔が描かれている。 「…俺?」 「そのようですね」 「いい男が、なんだかやられてるみたいだな。顔が苦悶に歪んでる」 「先生だけじゃないみたいだけどな」 良く見れば、他にも倒れている者がいる。誰もが、背中を預けられる仲間達だ。その表情は、全てが苦しそうに歪んでいる。 それを押しつぶしているのは、切り取られた額縁の絵。光を掴む手の持ち主に他ならない。 そして、その手の持ち主は、この絵を依頼した主だ。 「ふうん、これが未来か」 「ごめんなさい!」 じっと御門が飛羅に説明するのを聞いていた薫が、突然頭を下げた。飛羅は、目を丸くする。 「なんで薫ちゃんが謝るのさ?」 飛羅は、秋月の正体を知った後、その正体を知っている者の前では彼女を「薫」としか呼ばない。まあ、初めて会ったときから、彼女が女性であることは分かっていたようなのだが。 「獣の勘かねえ?」 そう言った村雨を、御門が苦々しく睨んだのは、言うまでもなく。 「え、でも、こんな未来を描いてしまったのは、僕だから…」 「それは、薫ちゃんの所為じゃないだろう?」 しどろもどろになる薫を、飛羅は一言で片付ける。あっさりとしたものだ。 「そうは言っても、俺が言うのもなんだが、先生。ここに描かれてるのは、死にそうになってるあんたなんだぜ?」 しかも、それはこれから先実際に起こる未来。過去より延々と続き、現在というレールの先にある、決められた未来。 村雨の言葉に、とりあえず天井に目を向けて考えた素振りを見せた飛羅だったが、何事もなかったように応えた。 「だって、俺、死んでないじゃん」 「死んでない…って…」 さしもの村雨も、言葉を失った。 「この絵を疑ってるわけじゃないぜ?でも、俺は死んでない。この先の未来もあるっつうわけだ。こういう未来がこの先ある。それだけじゃねーの?」 「実にあなたらしいですね」 ふ、と笑って、御門が呟いた。 飛羅が、ソファから立ち上がり、車椅子に腰掛ける薫の下で屈みこむ。 「気にすることないんだぜ?いろいろな未来が見えて、辛いかもしれないけど、それで未来は終わらない。その先の未来を疑っちゃ、そこで未来が終わっちまうからな」 「飛羅さん…」 薫の頬に、そっと手をあてる。泣きそうになる薫に、飛羅は微笑みかけた。 その手をぴしりと叩くものがある。 飛羅は、忌々しそうに御門の扇子を睨んだ。 「なんだよ、痛てーな」 「話は終わっていません」 「…分かってるよ。依頼主だろ?」 「そうです」 大袈裟に、扇子で叩かれた手の甲をふーふーと吹く。 「誰なんだ?そいつは」 沈黙を守っていた芙蓉が、御門に促され、応えた。 「防衛庁長官、鈴木孝義。敏腕と知られ、次の首相候補と噂される人物です」 「ふうん」 飛羅の瞳が薄められた。それまでのおちゃらけた雰囲気は抹消され、殺気にも似た気が彼を取り巻く。 「そいつは、何をたくらんでやがるんだ?」 誰に問うでもなく、飛羅は切り取られたキャンバスと、金色に包まれた額縁を交互に睨んだ。 …応える者は、いない…。 to be continued |
長くてすんません…。 まだ、後編に続いたりします…。 前編の如月×雪乃要素に引き続き、御門×薫要素も含めてみました。 苦手な御門さんと村雨を登場させてみたり…。 ええ、失敗してますね。失敗です。(涙) あんたら、なんでこんなに難しいんだよ…。(T□T) 如月が酷い目になってます。しかも、この回では救いなく。 雪乃ちゃんを泣かせています。罪作りなやつめ!! …なーんて、いろいろと決着つけなきゃいけないことになってませんか?ryoさん?(自爆) 後編は、今全然書いていません。 今から恐ろしいです。(自分で言うな) 頑張ろう…と、思います…。 よろしかったら、おつきあいを…。 |
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