偽りの死線 …前編…



「共に戦った友人達に、いつでも連絡できるようにしておきなさい」
 その日、不意に呼びとめられ、かけられた言葉に、壬生は考えることもなく応えた。信頼する者の言葉に、余計な詮索などいらない。
 が、日を重ねるごとに、その言葉は湖底に沈む砂のように、胸の奥でゆっくりと降り積もっていった。無視することのできない砂の塊が、不安の重みを増していく。
 いつもなら、あり得ないことだった。

 多分、どこがどう、とははっきりと言えないものの、何かがそうさせたのだろう。いつしか、壬生は、彼の携帯番号を鳴らしていた。言葉だけで伝えられるほど、自分が話の上手い人間だとは思っていない。適当な時間を空け、懐かしい新宿公園で会うこととなった。
「何かがひっかかるんだ。飛羅なら、何か分かるかもしれないと思ってね」
「あー、おまえ馬鹿だもんなあ」
「君に言われたくはないけどね」
 微かに眉をひそめたが、本心での態度ではなかった。
 確かに、壬生は飛羅より成績がいい。…が、反対に言えば、それだけだった。
 成績など、と投げやりに思うわけではないが、それは、労せず得ることのできる、知識の尺度でしかない。知識の尺度という存在意義はあるが、それ以上ではない、ということだ。
 日々の経験からによる、マニュアルには到底載りそうもない知識。それは、勘というものに値するが、世間で言う曖昧なものではなく、実際積み重ねた経験からしか現れない、得がたいものだ。人間国宝や、職人技などが当てはまる。
 それに、テストでは計ることのできない、思考力や応用力。判断力なども、紙に表すのは至難の技だ。
 壬生が、常々飛羅には敵わないと思う部分は、そこである。
 また、いくら成績が悪くても、そういった能力に優れているなら、馬鹿とは言わない。…ただ、そんな能力があるものが、酷い成績をもらうことは考え難い。それでもあるのなら、当人の成績への放棄なのであろう。
「…ふうん。何かあるね」
 壬生の話を一通り聞くと、あっさりと飛羅は言った。
 壬生が話した、というより、壬生の一言から、飛羅が壬生に質問を繰り返した、という風だった。壬生も意識していなかった「話したいこと」は、自然と口から引き出されていた。
「鳴瀧さんは、それ以降、そのことについて口に出していないんだな?」
「そうだね。最近は、学校で姿も見かけないけど」
「じゃあ、おまえと一緒にいることを、誰かに見られたくないんだな。もしくは、足しげく誰かに会っている。紅葉、心当たりはあるか?」
「心当たりはあるか、と言われてもね…」
「そうだな。鳴瀧さんより立場が上の人間だ。多分」
「館長の上なら、理事長になるかな」
「拳武館以外なら?」
「拳武館以外?」
 だんだん、壬生には飛羅の考えが途方もないものに思えてくる。拳武館以外で、僕達に関係ある人間なんて、思いつきようもない。しかも、拳武館館長、鳴瀧に関係して、鳴瀧より上の立場の人間など。
「僕には、分からないな。実際、そんな人物がいたとしても、僕の前には姿を現さないだろうし」
「…そうか。まあ、そうだろうな」
 ふむ、と飛羅は顎に軽く握った拳をあてると、壬生から視線を逸らして考え込んだようだった。
「紅葉、調べて欲しいことがあるんだ」
「なんだい?」
 それを聞くと、飛羅は一通り周りを見まわしてから、公園内に人気がないことを確認すると、それでも小声で口を開いた。
 拳武館のOBで著名な人間がいないかどうか。危険人物が拳武館を卒業していないかどうか。その行方。
「おまえ、拳武館の図書館には良く行くのか?」
「行くよ。卒業生も利用できるようになっているからね」
「それなら良かった。拳武館の図書館で、普段読む本と一緒に、卒業アルバムを見るんだ。絶対、借りるなよ。…まあ、持ちだし禁止だろうが」
 卒業した人間を調べるなら、それが妥当な線だろう。が、後半の方のセリフが、壬生には理解できなかった。
「分かったけど、なぜだい?」
「念のためにな。できる限り注意を払っておいた方がいい。調べたことも、メモなんかするなよ。おまえ、記憶力はいいだろ?」
「そんなに気をつけなければならない理由は…」
「俺にもまだ分からない。でも、鳴瀧さんが言ったセリフが、確かに気になるんだ」
 それには、壬生も合点がいった。何気ない一言のようでいて、喉に小骨がひっかかるような異物感がある。なぜ、館長は壬生だけでなく、壬生の仲間達を指定したのだろう。
 嫌な、予感がした。
 飛羅の同意を得て、それは確かなものとなる。
「戦う相手のことは、でき得る限り知ることだ。相手を知らずして戦うことは、死を意味する」
 それは、他でもない、館長の言葉だった。しかし、相手を…、相手がいることすら、壬生達には分からない。ただ、胸の辺りにもやもやとしたものがわだかまっているような気がするだけだ。
 気のせいではない。その感覚は、柳生の存在がまだ見えてない頃と同じものだった。身体が覚えている。
 どんよりとした雲は灰色に暗く、新宿の空を覆い尽くしていたが、それでも雨を落とさなかった。
 まるで、今の壬生と飛羅の胸の内を映しているかのようだった。

 飛羅に会ってから、数日が過ぎた。
「手分けして、みんなには知らせよう。だけど、詳しくしゃべっちゃだめだ。ただ『最近、変わったことはないか?』と、これだけ聞けよ?」
 とりあえず連絡してみたが、みな一様に何気ない最近の話をしただけで、何かに気付いているようなふしはなかった。少なくとも、壬生にはそう思えた。
 いつも通り、毎日のように図書館に通い、飛羅に言われたように、いつも借りるジャンルの本と卒業アルバムを開く。
 飛羅の指定した、「拳武館を卒業した危険人物」なら、密かに伝えられる拳武館内の噂で何人か知っている。その末路も、噂でしかないが、知ってはいる。あまりお目にかかりたくない末路であることは確かだ。
 しかし、館長より上の人物となると、該当人物は極端に少なくなる。はっきり言ってしまえば、壬生には心当たりがない。ただでさえ情報の機密性が重んじられる拳武館なのだから、壬生の心当たりがない時点で、「危険人物」についてはお手上げだった。
 それであれば「OBの著名人物」になる。壬生は、「著名人物」に的を絞って、何気ないふりを装い、無表情のままページを繰っていた。7年分の卒業アルバムに目を通して、数人の氏名を頭に留めている。
 ただ、記憶したそれらの人物が、果たして捜し求めている人物かどうかは、甚だ信じられなかった。
 と。
 約三十年前のアルバムを見ていると、聞いたことのある名前が目についた。果たして誰から聞いたものだったかと、薄れていた記憶を手繰り寄せ、壬生は小さく「あ」と呟いた。
 それは他でもない。拳武館館長から聞いた名だった。
「公平なものの見方をする人でね、偏見の恐ろしさを教えてくれた人でもある」
 そう、言っていた。
 いや、それより、その後の言葉を強烈に思い出す。
「だから、彼が鬼道衆の後見人になると言ったとき、彼なりの考えがあってのことと、思ったよ」
(鬼道衆!)
 壬生の中に、ざわりと戦慄が沸いてくる。殆ど確信に近かった。
 彼だ。

 厳しい暑さがゆるみ、過ごしやすくなった空の下、壬生と飛羅は黒塗りの車をバイクで追っていた。仕事のため、免許取得年齢になってすぐに運転できるようになった壬生がバイクを操る。仕事用に自由に使用できるバイクを、しぶる壬生に無断拝借させたのは、飛羅である。
「俺達の命を守ることは、おまえの仕事を守ることにもなるだろが」
 一応、筋は通っているようにみえた。
 生温い風を肌に受けつつ、海岸線をひた走る。陽が傾いたこともあり、照り返すようなアスファルトは、熱を下げた。
 追っている車は、先刻台場のレストランを出たばかりだ。どうやら、政治家達が集まる会食だったらしい。車に乗っている人物も、その中の一人だった。
 その前は、公共事業の視察、その前は、老人ホームへの訪問。
 政治家など、汚職か議事堂で寝るものだと思っていた飛羅には、意外な忙しさだった。
「多分、このまま事務所に帰って、雑務整理をすると思うよ」
 暗殺者でもある壬生が、ターゲットに多い政治家の動きを推測してみせた。案の定、車は事務所の前で止まり、車の主が地に足を下ろす。
「おまえの言った通り、今日はこれで終わりみたいだな。結局接触はなかったってわけか」
 離れた場所でバイクを止めた壬生は、事務所に消えて行く彼を見つめたまま、飛羅の声を聞いていた。
 彼、永井は、衆議院議員だ。
 昨日、壬生が拳武館の卒業アルバムで見つけた人物である。どうせ、確固とした証拠はないのだ。とりあえず、1日永井を尾行するということになった。他に、手のつけようがないという意味でもある。
 事務所に戻った永井は、もうこれ以上本日中に何かをするということはないだろう。夜に誰かと接触、ということも考えられなくもないが、人に知られたくない接触であれば、事務所に戻るという愚は起こさないはずだ。
 意識はしていなかったが、自然と何かを期待していたのだろう。壬生の口から小さな溜め息がもれた。
「そんなすぐに手がかりは見つからないさ。相手は頭が切れる連中だからな。尻尾はなかなか出さない」
 壬生の溜め息に気付いたのか、飛羅がぽんと壬生の肩を叩いた。
「ああ、そうだね」
「そういうこと。…あー、俺、ちょっと茶、買ってくるわ」
 ヘルメットを脱ぐと、事務所の隣のコンビニに足を向ける。そのときだった。
「!」
 飛羅と壬生が、同時に体を硬直させる。思考が追いつく前に、体に緊張が走った。
 凄まじい殺気だった。
 殺気の発された場所を振り返りたくなる衝動を、懸命に抑える。相手に気取られてはならない。
 一瞬後、痛いほどの殺気を浴びつつ、何気ない振りを装って、飛羅は再度コンビニに足を向けた。たとえ、飛羅や壬生を見ていた人間がいても、怪しむことのない、それどころか、何かが起こったことさえ気づくはずもないような、動作が止まったのは一瞬のことだった。飛羅が入口の自動ドアをくぐった瞬間、殺気はきれいに姿を消す。
 飛羅が缶入りのお茶を買って戻ってくると、壬生は無言のままその場所を離れ、人気のない公園でバイクを止めた。
「俺が事務所に入ると勘違いしたんだな」
 お茶を一口飲むと、飛羅が口を開いた。
「護衛、しているのかな」
「そんな感じだな」
「永井を護衛するとしたら、やはり鬼道衆…?」
「決めつけるのは早いけどな。紅葉、おまえも相手は見なかったんだろ?」
「ああ。こっちが気づいていることを、相手に知られたくはなかったからね」
「…最初、からだったよな?」
 飛羅の問いかけに、壬生はこくりと頷く。
 尾行を始めてからすぐだった。飛羅も壬生も口にはしなかったが、自分達のバイクを追っている者がいた。
 それは、永井を追っているのか、飛羅達を追っているのかは分からない。ただ、先刻の殺気を見る限り、飛羅達に友好的ではないのは確かだ。反対に言えば、永井を尾行している飛羅達に気付いている、ということにもなる。
「まずいな。こんなにガードが堅いとは思わなかった」
「こちらの存在に気づいたら、相手は何か行動を起こしてくるかな?」
「あり得るな。…何もなきゃいいが…」
 確かに、永井には護衛のような者がいた。その存在が永井とどう繋がっているのか分からない。そして、その繋がりが、どう飛羅達に関わっているのか、関わっていないのか、それすらも飛羅達には分からなかった。
 ただ。
 これだけでは終わらない。
 飛羅にも壬生にも、そんな予知めいた同じ思いがあった。

 近所で評判のその和菓子屋では、秋に入ると、栗入りの蒸し羊羹が販売されるようになる。いわゆる、期間限定だ。先日販売され始めたばかりの栗蒸し羊羹を袋のまま抱え、織部姉妹は帰宅の途についていた。
「それにしても、いっぱい買ったなあ。これ、どうすんだ?ひな」
「普段お世話になっている皆様にお裾分けしようと思って」
「それにしても…」
「いっぱい買いすぎてしまったでしょうか」
 いたずらをしてしまった子のそれのように、雛乃は小さく笑った。
 甘さが控えられたつぶ餡とこし餡の中には、採れたての栗がふんだんに入っている。普通の羊羹よりは一回り小さいのに500円は割高だが、それでもその味を買い求める客は多い。
「まあ、いいや。それだけたらふく食べられるってことだろ?早く帰って食べようぜ?」
「だめですわ、姉様」
「は?」
 家に帰り、今年初めての栗蒸し羊羹をほおばる想像が頭を埋めていた雪乃は、雛乃の言葉で現実に引き戻された。半ば夢見心地のまま、雪乃は問い返す。
「なんで?」
「お羊羹はなま物ですもの、早めに皆様にお配りしませんと」
「えー?今からぁ?」
「そうですわ」
 露骨に嫌そうな顔をした雪乃を無視したまま、雛乃は一本の栗蒸し羊羹を雪乃の手に持たせる。
「今の時間なら、まだお茶うけの時間に間に合いますわね。じゃあ、姉様、如月様のお宅にお願いします」
「は?」
 今度こそ、雪乃の顔がひきつった。顔にはっきり「嫌だ」と書いてある。むっつりしたまま、雪乃は雛乃に問いかけた。自然と声が低くなる。
「なんで」
「いつも弓や薙刀の具合を見ていただいてますもの」
「それなら、オレじゃなくて、ひなが行けばいいじゃんか」
「私はつい先日弓を見ていただいたばかりですわ。姉様は、そろそろ薙刀の調子を見ていただきませんと」
「また後ででいいよ」
「せっかく薙刀を持ってきたんですもの。今日うかがうのが丁度いいですわ」
「…って、出かけるとき無理矢理持たせたのはひなじゃ…」
 そこで、雪乃は気付いた。
「もしかして、でかける前から…」
 目の前では、にこやかに雛乃が微笑んでいる。
「私は、比良坂さんのところへお届けしてまいりますわ。比良坂さんとお話したいことがありますから」
 商店街を抜けかけた小道を雪乃と反対方向に進みながら、雛乃は呆然と立ち尽くす雪乃に振りかえりつつとどめの一言を告げた。
「じゃあ、頼みましたわ、姉様」

「やあ、いらっしゃい」
 如月骨董品店の前で、沈黙したまま突っ立っている雪乃に、和服姿の店の主は声をかけた。声は聞こえているらしいが、身じろぎもせず、睨むような目つきでこちらを見つめている。動く気はないらしい。
「そんなところで突っ立ってないで、中に入ってきたらどうだい?」
 溜め息混じりに再度声をかけると、意を決したのか、雪乃が手にした何かを突きだし、口を開いた。
「これ、『鉢の木』の栗蒸し羊羹!雛乃がお裾分けって」
(子供か)
 おつかいに出た子供が、ぶっきらぼうに用件だけ伝える様に良く似ている。店の主は、こらえきれず、ぷっと吹き出し、はははと笑った。
「何がおかしいんだよっ、如月!」
「いや、なんでもないよ。入りなよ、お茶でも淹れるから」
 笑いを漏らしながら、如月は店の奥の椅子から立ち、奥へ招き入れる。
「帰る!」
 笑ったままの如月の顔を不機嫌そうにちらりと見ながら、雪乃は栗蒸し羊羹を手渡すと、くるりと踵を返す。
「ふぅん」
 含みのある声だった。如月は、手にした羊羹の重さを量るような仕草をすると、ずんずんと歩き店を出そうな勢いの背中に声をかける。
「一人暮しには、随分と量が多いな。一人では食べきれなさそうだ」
 ぴたり、と雪乃の歩が止まる。
「そういえば、薙刀を持っているようだけど、薙刀の調子を見せに来たんじゃないのかい?使い方が荒いと、こまめに調整をしないとね。いい薙刀がもったいない」
 むっつりとした表情のまま、雪乃が振りかえる。
「ああ、帰るんだっけね。悪かったね、引き止めて。雛乃さんに『ありがとう』と伝えてくれ」
「…けば…」
「なんだい?」
「お茶飲んでいけばいいんだろ!?」
 半ばやけっぱちのように、雪乃が吐き捨てた。勝手知ってか、自分の家のように店の奥の部屋に上がりこむ。如月とすれ違いざま、抱えていた薙刀を乱暴に手渡した。
 くすりと笑いをこぼすと、如月は店をたたみ、お茶を淹れる。塗りの皿に切った羊羹を並べ、小皿とフォークを二人分膳に置いた。
「いつも思うけど、店、こんな簡単に閉めちゃって、大丈夫なのか?」
「どういう意味だい?」
「客がいそうもないのに、食っていけるのか、っつう意味」
「一人分食べられれば十分だからね。客も、随分と前からついている常連が殆どだし」
 普通に聞いたら一見失礼にあたりそうなセリフを、あっさりと雪乃が口にするが、失礼と気付くことができないほど、それに嫌味はない。むしろ、思ったことを嫌味なく口にできることに、好感が持てた。それは、言葉にした気持ちが全てで、裏に潜む気持ちなどがないからなのだろう。
 如月には、羨ましいことでもある。
「食べていいか?」
 鮮やかな緑色の茶を差し出すと、先刻のふくれっつらはどこへやら、雪乃が顔を輝かせていた。
 こうやって、如月の羨望など、軽く吹き飛ばしてしまうのだ。如月は、ふっと微笑んだ。
「もちろんだよ。君が届けてくれたものだろう?」
「うん。じゃあ、いただきます」
 水羊羹であるかのような滑らかな舌触り。その中に、まるで羊羹の一部かと勘違いしそうな、同じ柔らかさと甘さを合わせ持った栗が顔を出す。旬の栗の風味は、羊羹に入れられても、損なわれることはない。
「…おいしい…」
 口に残った羊羹の味を楽しんでいるのか、雪乃はお茶を手にしたまま、口に運ぼうとはしなかった。顔は、ほころんでいる。
「…『またおごりたくなる』とか、言われたことないかい?」
 雪乃が、「ん?」という表情で、茶を口にした。
「ひなが良く焼き菓子とか作るんだけど、食べてると『また作りたくなる』とは言われるなあ」
「だろうね」
「なんでだ?」
「さあ」
 おかしそうに、如月はくすくすと笑う。そして、自らも羊羹に手を伸ばした。
「へえ、本当においしいね」
「だろ?やっぱり、秋はこれを食べないとなあ」
 同意を得て、素直に嬉しいのか、雪乃は満面の笑みを浮かべた。
「もっと食べていいよ」
 切り分けられた羊羹に向けられる視線に気付いたのか、如月が雪乃に声をかける。
「でも、如月の食べる分がなくなっちゃうんじゃ…」
「僕がどれだけ食べると思ってるんだい?ふた切れくらい残してくれれば十分さ」
「良く食べるな、とか思ってるんだろ」
「思ってるけどね、なくなったら、買ってきてくれるんだろう?」
 言い返してくるかと思っていると、雪乃は何かに気付いたように黙り、如月の顔をしげしげと見つめた。
「なんだい?」
「如月って、田舎のじーちゃんみたいだなあ、と思って」
「はあ?」
「なんだかさあ、孫が来ると嬉しくって、おいしいもの食べさせたり、次はいつ来るかって聞く感じ」
「おいしいものを届けたのは、雪乃さんだろう?」
「うん、そうなんだけど…」
 雪乃は、微かに首を傾げると、しばらく考え込むようにし、合点がいったのか、「そうか」とうなずいた。
「如月って寂しがりやなんだな」
「どうしてそんな結論が…」
 内心、痛いところを突かれたようで、如月は咄嗟に応えていた。
 確かに、村雨が呼び寄せた麻雀の面子は、如月宅に集まることが殆どだ。表面は嫌な顔をしているものの、歓迎していないわけではない。村雨も、それを知ってか知らずか、何度も麻雀の機会を設けている。それ以外でも、昔の仲間は、ちょくちょくと顔を覗かせていた。
 認めたくはなかったが、つまりはそういうことなのだろう。
「じゃあ、たまにはオレが来てやるよ」
「じゃあ、って…」
 如月の返答を聞く気がないのか、当の本人は、嬉しそうに羊羹をほおばっている。如月は、諦めたようにふうと溜め息をついた。
 穏やかな顔で、雪乃がおいしそうに羊羹を食べるさまを、頬杖をつき見つめる。
 …多分、そういうことなのだろう。

 どんよりと曇った空が、そろそろと暗くなり始めたころ、羊羹の半分を平らげた雪乃が腰を上げた。
「じゃあ、薙刀、さんきゅーな」
「とりあえず、今日できる修復はしておいたから、次にでも時間をとって全体的に修復するといいよ」
「ああ、そのときにはまた持ってくる」
 店先で二三言葉を交わすと、如月は空を仰いだ。普段より早い夕暮れ。この薄暗さは、曇り空のせいらしい。
「雨が降ってきそうな天気だな。傘は持って行くかい?」
「多分、急いで帰れば大丈夫だろ。じゃあ」
 軽く手を挙げて、雪乃が走り出す。応えて手を挙げようとして、如月の表情が豹変した。
「雪乃さん!止まって!」
「え?」
 怪訝な顔をした雪乃が、足を止めて振り返る。
 気のせいではない。雪乃の動きに沿って、それは動いた。先ほどから気付かなかったわけではないが、それは自分に向けられていると思っていたのだ。雪乃が去ってから、応対しようと思っていた。
 だが、それは雪乃も逃がすつもりはないらしい。
「何?」
 忘れものでもしたのかと、呑気な表情のまま、雪乃が如月の立つ店先に戻ろうとする。
 如月の表情に気付いたのだろう。それの動きは迅速だった。
 雪乃の背後の上空から、一陣の風が振り落ちてくる。その黒い風には、ぎらりと光るものがあった。
「雪乃さん!」
 恐ろしい想像が頭をよぎり、鳥肌が立った。懐にしまってあった玄武を取り出すと、迷わず鞘を抜く。雪乃との短い距離を埋めるため、無心のまま駆け寄る。
 なぜ、こんなに遠いんだ。
 もどかしい気ははやる一方で、風の携えた刃は、今にも雪乃に吸いこまれそうだった。
 が、ただならぬ如月の表情に、雪乃はすぐさま気付いたようだった。そして、それの殺気がすぐ近くに迫っていることも。
 それは、闘いの勘というものであろうか。考える前に、体は動いていた。
「はあっ!」
 気合の声と同時に、手にしていた薙刀を、包んだ布ごと頭上で振り回した。
 空振りで自分の血を見ることになるのかと思った一瞬後、薙刀に手応えがあった。予測しなかった反撃であるにも関わらず、それはくるりと体を回転させ、きれいに着地する。
 それは、二人いた。それぞれの全身を包む黒い装束。その顔には、忘れることのできない般若の面があった。
「鬼道衆!?」
 息をつく間もなく、それは二人同時にはさみ込むようにして雪乃に突進してくる。
「ちぃっ」
 舌打ちしつつ、背後に跳ぶ。が、その刃は目の前に標的がいないと知ると、横になぎ払われた。守るように持っていた薙刀を包む布が切り裂かれる。
「雪乃さんっ!」
「如月、後ろ!」
 駆け寄る如月に、背後から襲いかかる影を認め、雪乃は叫んだ。みっつの影が、如月の背中を狙っている。
 如月は、振り向きざま、正面の刃を玄武で受けとめた。すでに、両脇からの刃は目の前だ。3人もの攻撃を一度に受けとめられるほど、如月の体は超人的にはできていない。
 如月は、高く跳躍した。忍であることを証明するかのように、その跳躍は高く、ゆうにそれの身長を越える。と、機用に体を振り、蹴りでひとつの刃を弾いた。
 アスファルトに落ちた刀が、からんからんと虚しく音をたてる。その隣で、音をたてずに着地した如月を追うように、刃が振り下ろされる。
 が、それは、予測していたもので、如月がほんの少し体をずらすと、勢い余ってアスファルトに刃が突きたてられ、飲み込むことのできない刃は弾き返された。
 その一瞬の隙を、如月は見逃さない。
 懐に潜りこんだ如月は、玄武の柄を腹に突き出した。
「うぐうっ!」
 うめき声がもれ、それは腹を抱えたまま倒れ、失神した。それを確認する暇などない。如月は、視界の端にそれを捉えていた。
 刀を振りかぶる。
「気付いていないとでも思っているのかい?」
 その大きな動作に、刃の軌道など如月には分かりきっていた。振り下ろされるその手は、映像をコマ送りにしているかのようである。するりとその軌道を避けると、手首を狙って叩く。その手からあっさりと刀が離れると、首の付け根に手刀を入れた。
 がっくりと膝をつく。
 雪乃は?
 一瞬でも雪乃から注意が逸れてしまったことを後悔し、振りかえる。
 一人、般若の面をつけた者がアスファルトにのびていた。もう一人は、必死に雪乃へ攻撃を繰り返しているが、振りまわされる薙刀に、近寄れないでいる。
 雪乃の薙刀の腕前も、確かなものだ。ただ振りまわすだけの薙刀とは違う。懐に入られなければ、勝算があることなど承知だ。全く隙がない。
 雪乃に気を取られている間に、如月はその者との距離を詰めた。
「そこまでだ」
 ぴたりと、その者の動きが凍る。その首には、玄武がつきつけられていた。
「前も言ったかと思うが、僕はあなた達を殺さない。それでも来るのなら、僕は拒まない。だが、仲間を巻き込むなら話は別だ」
 如月の背後で、失神した者達が意識を取り戻し、立ち上がる。玄武が突き当てられた者を意識してか、微妙な距離を保ったまま、如月の動向に緊張を走らせていた。
「飛水に復讐するのだろう?僕に復讐をさせるのが目的ではないはずだ。その虚しさを知っているあなた達を、僕は斬りたくない」
 如月の瞳がすっと薄められる。
「お引取り、願えるね?」
 有無を言わさぬその問いに、般若の面の者達の行動は早かった。
 潮が引くような撤退に、雪乃は少なからず感嘆の息をつく。
「怪我はないかい?」
「あー、大丈夫大丈夫。このくらいで怪我なんかしないって」
 ひらひらと手を振って、雪乃は笑った。が、如月の顔はいたって真剣で、振られた腕に切り傷があることを目ざとく見つける。
「手当を…」
「かすり傷だって」
 引っ込めようとした腕を、掴んで離さない。雪乃も、如月の表情にようやく気づいたようだった。
「如月…?」
「本当に心配したんだ。…僕は、鬼道衆に復讐などしたくない」
「…ごめん」
 初めて見る如月の痛々しい表情に、雪乃は思わず謝っていた。それほどまでに、如月の中で鬼道衆の存在は大きいのだろう。自分がおかしたわけでもない行いの復讐を受けること。その複雑な思いは、理解できるわけもなく、雪乃には、ただその重さだけを感じることしかできなかった。
「手当は受けるからさ。本当に大丈夫だから、な?」
 言い聞かすように、如月の顔を覗きこむ。それを聞いて、如月は少し安堵したようだった。堅かった表情が、ほんの少しゆるむ。
 向かい合った雪乃の背後で何かの影が動いた。距離は遠いそれは物陰に隠れていたが、人、らしかった。遠目にも確認できるものがある。黒い装束で、その顔には…、般若の面。
 そんな馬鹿な。
 鬼道衆は、反対方向に撤退したばかりではなかったか。どういうことだ。
 動揺の走る如月の胸をよそに、般若の面の者が構えたものがあった。
(拳銃!)
「雪乃さん!」
 ぐいと強引に雪乃の体を抱え、自分の体を盾にし、横に飛ぶ。
 背中に、鈍い痛みがあった。
 音はない。サイレンサー付きなのだろう。外れた弾丸がアスファルトや塀に当たって、チュインという小さな音と共に火花を上げた。
「如月?」
 横倒しになり、何が起こったのか分からない雪乃は、そのまま体を起こそうとした。
「だめだ!体勢を低くし……うぐっ」
 その口から、紅いものが吐き出される。雪乃の手にぬるりとした感触があった。それが何であるか認識するまで、一瞬の間がある。
「な、なんだこれっ!…如月!」
「だめだ、まだ、…いる」
「だって、如月が死んじゃうよ!」
 雪乃が、絶え間なく血を流しつづけている如月の体を押しのけようとする。が、簡単に押さえつけられ、身動きがとれなくなった。
「如月っ!」
「少し、じっとしていてくれ」
「じっとなんかしてられるかよ!」
 それでももがき続ける雪乃を、銃弾を受けた体のどこにそんな力があるのか、如月は強い力で押さえつける。
 辺りで弾丸による火花は散りつづけていた。このまま見逃してはくれないようだ。息の根を止めるつもりなのだろう。
 雪乃の盾となった状態のまま、如月はすばやく印を組む。途中、肩に弾を受けたが、気にしている余裕はなかった。
 体を襲ってくる激しい痛みと、ふとすると気を失いそうな自分を叱咤し、歯を食いしばる。
「…裂!」
 水柱が上がり、標的が悲鳴を上げたのが耳に入った。飛水十字である。
 そして、銃撃が止んだ。
 般若の面の者達が姿を消すのを認めると、如月は雪乃の拘束を解いた。…いや、正確に言えば、拘束する力が抜け、アスファルトに倒れこんだ。
「如月っ!」
「…雪乃さん、怪我はないかい?」
「あるわけないだろう!」
 悲鳴に似た声をあげ、雪乃は如月の体を見まわす。数カ所から血が流れ出ていた。すでに衣服は紅く染まり、雪乃の服まで真っ赤に染まっている。辺りは血の海だ。
 胸と腹から流れ出してくる血を、掌で押さえるが、そんな雪乃におかまいなしで、血は流れ出てくることを止めない。
「止まれ!止まれ!」
 祈るように叫びつつ、その頬には涙が流れていた。指の隙間から、絶え間なく血が溢れつづけている。
「止まれってば!」
「…良かった…、雪乃さんに怪我がなくて…」
「如月!」
 意識が朦朧としているのか、如月はふっと笑った。ゆっくりと、意識を手放していく。
「…よかった…」
「如月!しっかりしろ!」
「……」
 すうっと瞼が閉じられる。
「いやだ!目を覚ませ!如月!!」
 必死の呼びかけにも、反応はない。
「如月!如月!!」
 含みのあるあの笑みも、その顔には浮かばない。無表情のまま、その瞼は閉じられたまま。
 雪乃の視界は涙でくしゃくしゃになってゆく。
 手は、如月の血で濡れて真っ赤になっていた。溢れる血は止まらない。
 如月は目を覚まさない。
「如月ぃーーー!!」


to be continued


瀬戸際が書きたい。
そんな話をしましたが、ホントにその通りのものを書きたい所存。
無理かも?
そう思ってるのは本人かもしれないので、多めに見てやってくださると嬉しい限り。

…とは言ったものの、所詮は二次創作なので、
改めて剣風帖って面白いゲームなんだなあ、と思いました。
キャラがたってるよなあ、と。
その分書きやすいんですね。

さて、まだまだ続きます。この話。
お時間あればつきあっていただきたいです。
本人、最後まで仕上げずに公開するのは、二次創作で初めてです。
(オリジはやっちゃってるからなあ…)
無事最後まで書き上げたいです。(…当然か…)

   index next