ゴジラ2000ミレニアム

豪華版パンフ表紙 スタッフ
監督大河原孝夫
脚本柏原寛司/三村渉
撮影加藤雄大
製作富山省吾
出演者
村田雄浩/阿部寛/西田尚美
佐野史郎

 たびかさなるゴジラの被害に対して、その来襲を早期に予測、リスクの分散を図ることを目的に設立された民間団体、"GPN"(ゴジラ予知ネット)の代表、篠田は、その日も北海道でゴジラ探索の活動中だった。その彼の計測機械に捉えられた波動は、紛れもなくゴジラ………。根室に上陸したゴジラが破壊の限りをつくしている頃と時を同じくするように、日本海溝では謎の岩礁が発見される。強力な磁気を帯びたその岩礁を引き上げようとする、政府直属の危機管理チーム、"CCI"だったが、なかば自力で浮上して来たその岩礁は、彼らの予想を遥かに越える物体だったのだ………

 情報がリリースされてからずっと感じていた違和感、不安感みたいなものを一気に吹き飛ばしてくれる映画であって欲しいと思って観にいったのですが、残念ながら多大な失望感しか残らない映画でした。製作に関った多くの方には申し訳ない気もしますけど、でもこれは駄作です。

 平成ゴジラでは回を重ねるにつれ、「お話」がどんどん抜け落ちていっているように感じていたのですが、この作品ではその「お話のなさ」が頂点に達したように思います。人間のドラマが全くない。仮にも映画なら、登場人物(もちろん怪獣まで含めて)の行動には、何らかの必然性がなければいけないと思うんですが、誰一人として何かに駆られて行動する人物がいない。CCIからのリクルートを蹴ってまで、民間団体であるGPNを作ってゴジラを追いかける篠田ですが、じゃあなぜ彼はゴジラを追いかけるのか、追いかけていった先に何を求めているのかさっぱりわからない。ゴジラを倒す側になるCCIの片桐も、なぜゴジラを倒したいのかがわからない。巻き込まれるヒロイン、一ノ瀬もそう。ゴジラの行動も意味不明。登場人物の誰にもドラマがないから、人間に感情移入できない。ただの背景の添え物になってしまっているように感じます。そんな人達がどんな気の効いたセリフをしゃべっても、こちらに説得力をもって響いてくるはずがありません。

 コンティニュイティーの無茶苦茶さも健在ですな。「ゴジラが出ましたー」とか報告に来たかと思ったら次の瞬間、深海調査艇に乗り込んでる佐野史郎。北海道だろうが東京だろうが、必要なときと場所には必ず到着できる主人公。おいおいおいおい、って感じですが、これもまた、ちゃんとお話を作ろうとする姿勢をはなから放棄してしまっているからなんでしょう。

 それなりに利用できる設定はいくつもあったと思うのです。ゴジラがしょっちゅう出てくる日本(だからといっていきなりゴジラが漁船咥えて出て来てうれしいんかい、という問題はあえて目をつぶるとして)で、以前から篠田と片桐、篠田と宮坂、片桐と宮坂の間ではさまざまな確執があった、とか実際に何回か前のゴジラの襲撃で、三人の間に決定的なヒビが入る原因となるできごとがあった、とか、そういう部分をほんのちょっと描くだけで、主要な登場人物の動機づけははるかにわかりやすいものになってたと思うんですけどね。そういうところ、手を抜いたらいかんでしょう。そういう前提の下で、あえて国の権力に頼らない、民間のネットワークを築き上げた篠田が、最後、万策尽きたCCIに取って代わって、民間のネットワークを最大限に駆使して状況を一気に逆転する、とかいう感じで、怪獣同士の破壊合戦のカタルシスに、人間ドラマの痛快感が上手に絡んでこそ、怪獣映画だと思うんですがどうでしょうか?おもしろい怪獣映画はみなそうなっていると思うのですが。昭和のゴジラシリーズは絶対そこで手を抜いていなかったと思うんですけどね。

 どんな形であれ、お話ってものは、見てるこっちに「おお、これからどうなるんだろう」と思わせて、次に「あっ、その手があったか」と納得させてくれなきゃウソだと思うんですが、どうも最近の日本映画(に限らんか)は、自分で困難な局面を作り出したはいいけど、それに対してスマートな解決方法を見い出せないまま、むりやり映画を大団円に持っていっているように感じます。これは「ガメラ」のシリーズでもそう感じましたけど。いいんでしょうか、こんな映画ばっかり作ってて。

 ドラマらしいドラマが見当たらないのならば、せめて絵的にすごいシーンでもあればまだしもなのです(それでいい、とは言えないですけれども)が、こちらも悲しくなってきてしまいます。いくつか、かなりいい感じの構図も確かにありました。実写の風景にとけこむゴジラの姿をロングの鳥瞰視点で捉えたシーンや、これまではなかなか見ることのできなかった、人間の視点からゴジラを見るシーンなどは評価できるのですが、それらも連続する映像のなかで、瞬間として切りとった絵として評価できるだけで、映画の流れとして評価することはできません。

 時間の制約とかコストの問題とか、理由はあれこれあるのでしょうが、たとえば岩礁を引き上げようとするCCIの船団のシーン。一隻の船だけ撮影して、後はデジタル処理で複数の船がいるように見せかける処理をしていますが、遠近感も光と影の関係への注意もおろそかになっているものだから、とても現実にそこに船が浮いているようには見えません。上から輪になった船団を見下ろすシーンでも、一隻の船の喫水線にあたる波頭が船よりも上側に見えてしまってますけど、で、現実としてそういう見え方をする可能性もあるんでしょうけど、映画として見たとき、それってすごくカッコ悪い絵だと思うんですが、平気でそういう絵を映しちゃう。他にもこの手の、素材を水増しして使用している箇所が何ヶ所かあります(攻撃ヘリのシーンとか、戦車のシーンとか)が、総じて違和感を感じてしまいます。個々の"ゆらぎ"みたいなものがないから、全然自然にみえないの。

 でも、もっと根本的なところで、なんかこう想像力のなさを感じてしまうのはオレだけでしょうかね。ミサイルを発射した後、揃って反転する攻撃ヘリ部隊の絵(敵の目の前で反転するなんて、的にしてくれといってるようなものじゃない)をしつこく繰り返してみたり、バカみたいに航空ショーのデモンストレーションみたいな飛び方をするF−15の絵を入れてみたり、恥ずかしげもなく繰り出される他の映画のパロディっぽいシーンを撮って見たり………。肝心のゴジラとオルガのバトルも(ドラマがない、って話にも関連しますが)お互いなにをしたいかがわからないうちに、なしくずし的にバトルに入っちゃうので、こっちは戦う必然性すら見えてこない。怪獣同士のバトルで眠たくなったのは生まれて初めてです、ワタシ(^^;)。

 総じて脚本の力のなさが、映画全体に悪い影響を与えてしまった映画であるといえると思います。お話に観客を前へ前へと引っ張る力がないから、その場その場のカットで適当なごまかしや、しょーもないパロディ(佐野史郎に山根博士のマネをさせる意味がいったいどこにあったのか。これ、個人的に一番ハラたってます)を脈絡もなく注ぎ込み、結局見終ったときになんにも残らないという………

 土曜日の午後だというのに、劇場のロビーが森閑としていたのが大変印象的でした。つまるところお客さんも、この作品が胡散臭い経過を経て、胡散臭いものに仕上っている、ということを直感したってことでしょうかね。続編も決定しているそうですが、失地回復って意味でも、作るならせめて今回の倍は脚本に力を入れて欲しいです。子供が見るから適当にゴジラを登場させ、見せ場を作らなくちゃいけない、って考えもそろそろ捨てませんか。そうやって子供をバカにするから、映画を観る人が減っていくんだと思います。子供には"ホンモノ"を見分ける目がちゃんと備わってるもんです。子供たちが怪獣映画から卒業しちゃうのは怪獣映画が子供をバカにしてるからに他ならないと思うんですけどね。

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