A.I.

a_i.jpg/1.9Kb スタッフ
監督スティーヴン・スピルバーグ
脚本スティーヴン・スピルバーグ
イアン・ワトスンのスクリーン・ストーリーに基づく
ブライアン・オールディスの原作にもとづく
製作総指揮ジャン・ハーラン/ウォルター・F・パークス
製作キャスリーン・ケネディ/スティーヴン・スピルバーグ/ボニー・カーティス
出演者
ハーレイ・ジョエル・オスメント
ジュード・ロウ
フランシス・オコーナー/ブレンダン・グリーソン/ウィリアム・ハート
公式サイト(日本語)
http://www.ai-jp.net/

 乱開発の影響でかつての物質文明の大半を失うことになった近未来の地球。そこは天然資源の枯渇と有効なエクメーネの減少から、厳格な人口抑制作の取られる社会だった。そんな中、人間の生活にさまざまな助けと潤いをもたらすものとして、さまざまな用途で多彩なロボットたちな開発が進められていた。そして今、初めて「愛」という感情をインプットされた少年型ロボットが誕生しようとしていた。彼の名はデイヴィッド。愛する息子を不治の病に侵された若い夫婦の許に彼は送り込まれる。愛すること、そして愛されることを経験する初の人口知能として………

 巨匠、故スタンリー・キューブリックが温めていたアイディアを、スピルバーグが引き継いだこの夏最高の話題作。キューブリックはオールディスの「スーパーおもちゃの長い夏」に、「2001年」にも匹敵しようかというSF的可能性を見い出し、まずクラークの推薦で(オレの大好きな)ボブ・ショウをシナリオのヘルプに呼び寄せ、続いて(これまたオレの大好きな)イアン・ワトスンと組んで脚本の練り込みを行っていたようだ。この時点ですでに、オールディスの原作に、さらに童話「ピノキオ」のエッセンスも取り込もうと考えたらしい(このあたりの経緯は、「SFオンライン」の映画レビューに詳しい)。

 結局キューブリックは自分でこの作品を映像化することはできず、換わってスピルバーグがキューブリックのベース・ストーリーをもとに、改めて脚本から興しなおしたのがこの映画な訳だけれど、その事が却って、キューブリックらしさもスピルバーグらしさも、等しく損なってしまう結果になってしまったのではないかと思う。キューブリックの映画の特徴っていうのは、突き放したような映像の連続で客に考えることを強要するところにあるのだし、スピルバーグという人は、映像で客を引き込んでおいて、引き込まれた客にはきっちりそのあと映像的なショックを与えてヤマをつくり、その都度オチをつけながら、次々とヤマを積み重ねていく(思考が後を引かない)タイプの作家だと思うのだが、そんな二人がかかわってできた一本の映画は、突き放した映像の中で、細々とした起承転結があり、しかもそれが映画の大筋にほとんど影響を与えていない映画になってしまったのではないかと思った。客に対して、何かを考えさせようとも、責任を持って楽しませようともしていない映画だと思うのだな。不満に思うことがいくつかある。

 「ピノキオ」を人工知能に絡めて描いたら、っていうキューブリックの発想はそんなに悪いものではないと思う。だが、スピルバーグによって映像化されたシリコンのピノキオは、少々スピルバーグ好みな、あまりにも無垢なお人形さんになってしまったのではないかと思う。木でできたピノキオは、あれで結構困ったヤツなんであって、無垢である→善悪の区別がつかない→悪いこともそれと知らずやってしまう→それが間違っていることを知る→善の本質を知る(悲しみとともに)→救いが与えられる、というプロセスを経て初めて人間の子供として生れ変るわけなんだが、シリコンのピノキオのほうは、どうもそのあたりの、成長のために必要な傷みみたいなモノが、あまりに軽く捉えられてはしないだろうか、と思える。このへんかなり惜しくて、実際に「愛」を知るロボットとしてかどうするためのアクティベート・コードを与えられないデイヴィッド=ピノキオは、かなり不快な存在なのだ。この不快さが、いくつかのキイ・ワードで豹変はするが、それでもAIゆえに加減を知らない存在が、多少なりとも人間の生活に軋みを生み出す、ってあたり、描きかけてるんだよなこの映画。それが中途半端なところでうやむやになってしまっているようで、見てる方はどうもおさまりの悪いモノを感じてしまうんだった。

 ついでに言うと、オレは映画に登場するキャラクタは、どんな形であれ信賞必罰があるべきだと考えている。悪人には報いがある、善人は報われる、あるいは、善人であったが非業の最期を遂げる、その結果はお話の流れの上でいろんなバリエーションが出来ていくものなんだろうと思うが、少なくとも主要なキャラであれば、その人々にはそれぞれに、ちゃんとした結末が用意されていて欲しい。この映画では曲がりなりにも結果が待っているのは、デイヴィッドだけ。それではダメなんだ。デイヴィッドとかかわった、さまざまな人々の物語の、それぞれのエンディングがなく、ただデイヴィッド一人の「癒し」が語られただけでは、比較するものがない。デイヴィッドに感情移入できないんだ。

 全体に、どこかで他人をあてにしているような感じの造りの映画のように思う。キューブリックだから多少突き放しても大丈夫、スピルバーグだから、小さなカットごとに見ごたえがあれば大丈夫。そんな感じで、つくったモノを、トータルに一本の映画として見て面白いかどうかを評価することをしないまま、公開されてしまった映画なんではないかと思った。ちょっとこれでは感動も共感もできない。

 あー、それはそれとして、この映画でのスーパーおもちゃ、テディには個人的にちょっと泣かされたですよ。コイツが主役で、「愛」とかいう訳のわからんモノをインプットされたばっかりにおかしな事をしてしまうデイヴィッドを、端からヤキモキしながら見守るような映画だったら、オレはラストでちょっとほろりとしたかも知れんなあ(^^;)

猿の惑星 (Prev)   「来た、観た、書いた」メニューに戻る (Back)  ジュラシックパークⅢ (Next) トップに戻る (Top)