「トニー谷、ざんす」

表紙

村松友視 著
カバーデザイン:幻冬舎デザイン室
幻冬舎アウトロー文庫
ISBN4-87728-825-2 \533(税別)

 さすがにワタシも、この本で紹介される、トニー谷さんの全盛期の印象の記憶はありませんが、「アナタのお名前なんてーの」の"アベック歌合戦"のほうは憶えてます。この番組の司会をつとめたのが、トニー谷さん。「変わったおっちゃん」てなイメージしかなかったのですが、彼の全盛期を知る人(僕より一回り以上は年配の方ってことになるのかな)にとって、彼が"芸"の世界に持ちこんだインパクトは強烈なものだったようです。

 おかしな日本語まじりのカタコト英語と、「〜ざんす」、「バッカじゃなかろか」など、矢継ぎ早に繰り出される造語の連発。徒弟制度を無視するような傍若無人な振る舞いや特定の人々に悪意を持ったおちょくりを浴びせる、というのは言ってみれば、今でいうたけし、さんま、タモリの芸風のおおもとを作り出したといえるのか。今の大物芸人たちにはそれらの芸風をある程度認めてもらえる土壌があったのに対して、終戦直後、今ほど人の心の抽斗がおおきくなかった時代にあって、トニーさんの芸風を押し通すってことは、それだけで大変な消耗が要求されることだったのでしょうね。

 第一、トニー谷の芸は戦後の日本という特殊な時代の空気と、ぴったり合ったところで成立している。つまり、極めて特殊な環境で花開いた芸だった。人々は、自分をも含んだ時代の空気を、あざとく切り裂いてみせるトニー谷を面白がったが、半分は自らを笑っているようなところもあった。それこそが、トニー谷の芸の毒だったのだ。

 他人を笑うことが、いつ自分に返ってくるかわからない危うさの上に立脚する笑いでもある、というスリルが、トニー谷の人気の大本にあった、ということなんでしょうか。

 したがって、あの時代に生きた人々は、あるときはトニー谷に自分の影を映して苦く笑い、あるときはトニー谷を自分とかけ離れた詐欺師に見立てて笑い飛ばしていたはずだ。そんな屈折した気分に飽きたとき、人々はトニー谷の笑いから離れていった。そして、自分もこなしていたカンニング含みの生き方を、器用に忘れていったのではなかろうか。

 "時代と寝た女"なんて形容された人気歌手がおりましたが、その伝でいくとトニー谷さんってのは、"世相と寝た男"だったのかもしれませんね。世相が様変わりすれば、誰もトニー谷とは寝てくれなくなる。その時にトニーが取るべき(だった)方法は何だったのか、実際にはトニーはその世相にどう対処したのか、ってあたりは読んでいただくしかないのですが、結局、一見破壊的な芸人にみえたトニー谷という人が、実は一貫して変わらない、オーソドックスな芸人でしかなかった、と思えてくるのが興味深い。

 あまり好きな分け方ではないですが、それでも"芸"と"ギャグ"てのは違うんですね。潮健児さんの「星を喰った男」でも感じたのですが、人が真剣に磨き上げた"芸"を見せてもらう機会がずいぶん少なくなってしまいました。それは一つには、芸を見る側のレベルが悲しいくらい低いものになってしまった、という理由もあるのだろうと思います。そんな時代にあって、なんとか自分のやすらげる場所を見い出しかけたトニー谷さんの晩年には、「良かったなあ」と思いつつも一抹の淋しさを憶えなくもないですね。

 なかなか、軽くて重い内容の一冊でありました。比較的薄い本ではありますが、読み応えは充分ザンス。

99/12/7

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