「国語改革を批判する」

表紙

丸谷才一 編・著
カバー 和田誠
中公文庫
ISBN4-12-203505-8 \1048(税別)

 いわゆる"歴史的かなづかい"ってのがあって、今でも何人かの方はこちらを使ってモノを書いていますよね。「思う」ではなく「思ふ」、って書くようなヤツ。"旧かなづかい"とかいうもので、単純に古いもの、使われないもの、あるいは使うのは望ましくないものと戦後生まれの我々は教育されてきたせいか、古めかしく時代にそぐわないものという捉え方をしてしまいがちですが、かつて日本人がそのかなづかいでモノを書いてきた、という事は、そこには何らかの理由があったはずですよね。それはどういう理由だったのか、そしてそのかなづかい、漢字の文化がなぜ今のような形に変わったのか、そしてそれは正しいことだったのかを、丸谷才一さんら6人の識者が考察する本。明治から現代に至る国語改革の歴史お確認、それから、とりわけ敗戦後の国語改革が日本語に与えた影響(というか、いかに日本語が壊されたか)に対するきびしい批判の書となっています

 個人的に、言葉というものは生き物で、その時代時代に合わせて変化していくものであり、それに対して必要以上に神経質になったり、この流れを押し止めようとする動きは無意味だと思っているんですが、敗戦とそれに続く占領軍の軍政下で行われた国語改革の詳細を読んでいくにつれ、今私たちが特に疑問も持たずに使っている日本語というものが、妙な外国語コンプレックスと役所の都合でずたずたにされてしまったのかがわかってきます。

 敗戦で自信を喪失した日本人の中に、日本が負けたのは漢字を使っているからだ、という意見があり、国語を英語やフランス語にしよう、とか、かな漢字まじり文を捨ててローマ字で言葉を書き表すべきだ、という意見があったことは何かで読んだことがあったのですけれども、これと一部平行するように、複雑な旧かなづかいをやめ、極力話し言葉に近い書き言葉を持つべきだ、とする流れがあり、この勢力が今の日本語の根幹を形作ったのだそうです。で、この"言文一致"の流れが日本語をおかしくしてしまった、と丸谷さんたちは主張します。

 考えてみれば英語だってrightとかいて"らいと"と読む(ghは発音されない)、みたいな実例はいくらもあるわけで、これはその語源になった言葉があり、大昔にはghも発音されていただろうけれど、時が過ぎていくにつれてより読みやすい形に変化して今に至っている、つまりその単語にはその単語なりの歴史があり、その歴史は英語やフランス語もしっかりと継承しているわけで、同じことが日本語の旧かなづかいにも継承されていたから「おもう」と発音しても書き言葉の上ではあくまで「思ふ」になるのだ、という説明は初めて知りました。この歳になるまで旧かなづかいがなぜそういう書き方をするのか、さっぱりわからなかったんですが、そうと知ってみると確かに旧かなづかいと言うのは、今我々が使っているかなづかいに比べて体系的にしっかりした物であることだと思えてきます。理屈にあってるんですね。

 戦後の国語改革によって、日本人のものを読む能力は飛躍的に向上したのだそうです。そこには確かに、理屈にあってはいるけれどもその体系を把握し、正しく書き言葉のルールを理解しなければならなかった旧かなづかいから解放されたことのメリットはある(事は丸谷さんたちも一定の評価をしています)けれども、それと引き換えに平明ではあるが何ら体系だったところのない、あいまいな言語体系が日本人にしみついてしまった、というのは確かに大きな問題であると感じました。固い話題をあつかった本で、文章もけっして平明ではないにもかかわらず、ついページをめくってしまう魅力に満ちた本。一部の筆者の方は旧かなづかいで文章を書いてらっしゃるんですが、この旧かなづかいもつリズム、実は読みやすい文章を書くうえでとても強い味方なんだ、ってことなのかもしれないですね。

 本書の筆者の皆さんの説には、そういうわけでほぼ文句なしに賛同できるんですけれども、でも言葉は変わっていく。悪い変わり方を強いられてしまった日本語は、それはそれで変化してしまったわけで、これはもう取り返しがつかないのでしょうね。さらに本書の筆者の皆さんがいかに論じても、でもその新かなづかいで書かれた文章の中に、旧かなづかい文に負けない名文もあるわけで、複雑な問題だよなあこれは(^^;)。

99/11/18

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