ダニエル・キイス 著/堀内静子 訳
カバーイラスト 影山徹
カバーデザイン ハヤカワ・デザイン
ハヤカワ ダニエル・キイス文庫
ISBN4-15-110104-7 \800(税別)
ISBN4-15-110105-5 \800(税別)
1977年、一人の男性が女子大キャンパスでの連続レイプ事件の容疑者として逮捕された。被害者の面通し、逮捕時に彼の居室から応酬した証拠品などから、その男、ビリー・ミリガンの有罪確定はまちがいなしと思われていた。だが、彼を接見した弁護士たちは、ビリーの様子が何かおかしいことに気がついた。今まで話していた人物とは明らかに、物腰、性格、場合によっては話し言葉まで異なる、あたかも全く別の人間が入れ替わってしまったかのような状況が頻発するのだ。精神科医の助けをかり、弁護士チームは信じられないが、信じるしかない一つの事実に直面することになった。ビリー・ミリガンという入れ物の中には、そのときどきに応じて表に出てくる、10もの異なる人格が共存している、という事実。しかも事はそれだけではすまなかった。ビリーの中には、共存する10の人格以外にも、人格たちの判断によって、ビリーにとって好ましくないために表に出ることが許されていない人格がさらに13も存在していたのだ。
「アルジャーノンに花束を」を読んで感銘を受けたビリー自身の要望によって、キイスが実際にビリーとその人格たちとの対話を続けて著した、掛け値なしのノンフィクション。「五番目のサリー」以上に衝撃的な、多重人格の物語。事実は小説より奇なり、とはこのことか。
「五番目のサリー」は小説ですから、細部は刈り取られ、読みやすく構成されているわけですが、本書はあくまで現実のお話。印象的なのは一人の(あるいは24人の)人物を支えるさまざまな人物が登場し、また同じように、彼の立ち直りに対して(悪意と自己顕示欲の充足のため、という情けない理由から)反対の立場をとる人々もまた存在している、ということでしょうか。
実際の話、多重人格という概念自体が、それに関係のない人々にとっては多分にマユツバ物であるという問題がそこには存在しているのでしょう。ある人にとって多重人格が必要になる状況というのは、つまるところその人が、堪えがたい苦痛に間断なくさらされて来たのだということだと思うのですが、その事を実感できる人はまだまだ少ないのでしょうね。それが実感できなければ、それを「演技」と片づけてしまう人になってしまうのはしかたのないことのような気がします。僕も理屈じゃわかる(というか言ってることは理解できる)けど、現実にそういうことが起きるのかどうかについては、正直実感としてありうる、と断言することは難しい。
現実ってのは厳しいもので、本書は必ずしもハッピーエンドという形でその物語を終えていません。その中で多重人格という精神の病にかかってしまった個人が、なぜそうなってしまったのか、そしてその結果どういう目にあうのかを淡々と描いて印象的な本。ベストセラーにはワケがあるって事なんでしょうねえ(^^;)
99/10/13