「余燼」

表紙

北方謙三 著
カバー装画 中一弥
カバーデザイン 安彦勝博
講談社文庫
ISBN4-06-264700-1 \667(税別)
ISBN4-06-264701-X \667(税別)

 「破軍の星」などに代表される、大河歴史冒険ロマン(何やそれ)とは別に、北方謙三さんの時代小説には「活路」に代表される"剣豪小説"とでも呼べるジャンルがあるんですが、この作品もそんな"剣豪小説"側の物語。"剣豪小説"とはつまりどういうことかというと、こういう描写です。

 お互いに吐く息が、はっきりと聞き取れるほど、呼吸は荒くなっていた。ただ、苦しさはどこにもない。刀を構えている自分と、荒い息を吐いている自分とは、別のものであるような気がする。
 誠一郎は、もう一度渾身の力をふり搾った。
 踏み出す。白い光。一度だけ、刃が触れ合った。顔に、山根下記の吐息が吹きつけられてきた。夏の風のように、それは熱い。
 離れた。
 誠一郎は、左の肩に灼けるような熱さを感じていた。山根下記は、片膝をついた格好で剣先を誠一郎にむけている。

 たたみかけるような体言止めの文体で描写される剣戟シーンに代表されるように、北方謙三さんの時代小説には、ハードボイルドの名手でもある北方さんならではの、現代的な、乾いた文章の魅力が存分に感じられ、ここが個人的にお気に入りになってる最大の理由だと思うのですけれども、本書でもその魅力はたっぷり。しかも本作品では、北方さんの青年時代の体験である、学生運動の記憶も織り込まれており、興味深いものになっています。

 お話は、天命の大飢饉の後、老中職から失権した田沼意次にかわって、新しい老中を立てようとする複数の勢力の争いに巻き込まれた剣士、誠一郎を中心に、町火消しの常吉、松平定信配下の武士、沢井、さらにさまざまな剣士が入り乱れ、江戸の街を舞台に一世一代の大博打がなるかならないか、ってな感じ。どんなに凶作でも、武士が飢えることはなく、飢え、苦しむのは農民、町民だけ。この社会的な不合理がどこから来るのか。最初は単純な武家の間の権力闘争でしかなかったものが、いつしかさらに一段上の問題に目を向け、それぞれに変わっていく登場人物たちの昂ぶりと失意、挫折を描いて読み応え充分。

 たとえば司馬遼太郎の時代小説では、登場するのはあくまで指導者や権力者でしかないわけで、それらの人々のふるまいが、市井にいったいどういう影響をもたらすかについては、ややもすればおざなりな描き方しかされていないような気がするんですが、北方歴史小説の主人公たちは、折りに触れここに思いを馳せ、悩み、考えるシーンがでてきます。僕が北方さんの歴史小説が好きなのは、その乾いた文体もさることながら、この、主人公たちのものの考え方にあるんだと思ってます。

 北方さんの最新作は赤報隊の相楽正三(「るろ剣」の佐之介が尊敬する人ですな)を主人公に据えた作品だそうですが、こっちも楽しみです。

99/9/26

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