パトリック・オリアリー 著/中原尚哉 訳
カバーイラスト 野中昇
カバデザイン ハヤカワ・デザイン
ハヤカワ文庫SF
ISBN4-15-011444-7 \940(税別)
1962年、ミシガン州サギノー。10歳のマイクと8歳のダニエルは草むらに寝ころんで、他愛のない話をしている最中だった。この前テレビで見た「地球が静止する日」のこと、「死」のこと、今はまだ判らない大人たちの言葉のこと…。その最中、ふたりは頭上に銀色に輝く物体を目撃する。忽然と現れ、同じように忽然とふたりの視界から消え去ったその物体。ふたりにとってその日はとても重要な日だったのだが、そのことをふたりはまだ気づいていない。そしてそのまま30年以上の時が過ぎていく。
そして2000年。売れっ子のCFクリエイターとなったマイク、大学教授となったダニエルのふたりは、それぞれが喜びと悲しみをともに味わいつつ、普通の毎日を送っていた。ある日突然、自分に全く思い当たる節がないのにマイクを拉致しようとする一団が現れるまでは…
自分は本当に自分なのか、もしそうならそれはどうしたら証明できるのか、ってのを常にテーマにしたのがディックだったとするなら、オリアリーがこの作品でやろうとしていることというのは、「自分であるためにはどうあるべきなのか、自分が自分であり続けるとはどういう事なのか」をテーマに据えて、そこにSF的(かつ少々魔術じみた)な、味付けを施した物語を作る、って事なのかもしれない。ネタバレにならないように書くのが難しい(ていうかカバー裏の紹介文は反則だー)のだけど、自分がいつの間にか自分じゃなくなっている事に気づいたとき、そして本来の自分に戻ると言うことが多大な傷みを伴う事が分かり切っているときに、それでもその傷みを受け止めることができるのか、できるとしたらそれはなぜなのか、ってあたりに切り込んだ、どこか不条理なんだけどとてもハートウォーミングな佳品になっている、と思う。
本来の自分であれば不要な存在の「不在の鳥」とは、一種の奇跡な訳なんだけど、奇跡が奇跡として機能するためには、それを信じて疑わない人々の存在が不可欠なわけで、そこに疑義を差し挟む者が現れると奇跡は一転して地獄になってしまう。そのとき、奇跡を否定して、さらに地獄を抜けてあるべき場所に戻るときに人は何をすべきなのか、それは…ってあたりの答えの出し方、異議なしとはしないのですよ、実のところ。最後の最後に他人任せ、みたいな感じがあって。それでもこのラストは、ちょっといい。なので許す。他にもあちこちちょっと、そこを放ったらかしにして欲しくないな、て所もあるのだけど、許す。終りよければすべてよし、ということで。いや、なかなかいいですよ。ただし絶対にカバー裏を先に読んじゃダメ。買うときはカバーつけてもらって、読み終わるまでカバーは外さない方がいいと思うね、うん。
あ、あと蛇足も蛇足、どうでもいいことなんですが「ゴート・バラダ・ニクト」じゃなくて「クラトゥー・バラダ・ニクト」が正しいんじゃないでしょうかー、などと。
03/06/19