凶獣リヴァイアサン

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ジェイムズ・バイロン・ハギンズ著/中村融 訳
カバーイラスト 久保周史
カバーデザイン 矢島高光
創元SF文庫
ISBN4-488-71601-6 \800(税別)
ISBN4-488-71602-4 \800(税別)

アメリカン怪獣映画の可能性と限界

 アイスランド沖の孤島の地下深く建設された、米国の巨大企業の研究施設。軍によって厳重に警備されたそこでは今、最新の遺伝子技術とバイオコンピュータ技術を総動員した怪物が生まれようとしていた。コモドオオトカゲをベースに、大脳に戦闘プログラムをインストールされ、強靱な肉体と驚異的な治癒能力、そして体内での化学変化を利用した超高温の火炎放射能力を備えた、全高5メートル、全長10メートルのまごうかたなき竜。それは秘密裏に敵国に侵入し、破壊の限りを尽くして再び姿を隠す、究極の生体兵器となるはずだった。だが、リヴァイアサンのコードネームで呼ばれるそれは、その創造に関わった科学者たちの予想を超える進化と、そして怒りを内に秘めていたのだった…。

 早い話がバラゴンがフランケンシュタインに改造されて大暴れ、みたいなお話(そうか?)。かなり荒唐無稽な設定なんだけど、「ジュラシック・パーク」もあることだし、こういうアプローチの娯楽作があってもいいでしょ。絶海の孤島の秘密水路から出撃し、アメリカに仇なす敵国に上陸して大暴れ、そしてまた水中に姿を隠して基地に帰還。こうすれば敵もまさかそれがアメリカの攻撃だとは気がつくまい、という着想自体がすでにトンデモなんだが、舞台を孤島に限定し、そこからの脱出のためにこの怪獣を何とかして倒さないといけない、という一点にテーマを絞って押しまくるお話のおもしろさはなかなかのモノ。細かいことを気にすると「あれ?」ってなっちゃうところも多々あるんだけど意外に楽しめた。

 ほとんど不死じゃないかと思える怪獣相手に、ただの電気技師である主人公が持てる知識と経験を総動員して対抗していく姿とか、この地に住み着く謎めいた北欧人の優しい大男とか、主人公とともに戦う軍人たちとか、ええ方のキャラがかなり立ってていい感じ。反対に悪役サイドは少々物足りなさも残る。通常この手の話は、悪い連中がええもんの話を聞かないせいで話がどんどん悪い方に進んでいき、さらに事態がのっぴきならない状況になっていてもこいつらが相変わらず考えを改めないせいで危機が拡大する、てな構造が望ましいわけだが、そこらの悪さがちょっと薄味か。ついでにそこまで悪事をはたらいた以上、これらの悪党さんたちにはそれなりの因果応報が待ってないといけないんだけど、そっちの方もちと弱かったかも。どうしようもなく不出来ってほどではないんだけど、そこはちょっと残念。

 ま、そんなことよりも、アメリカ人が「怪獣」にイメージするモノって言うのはこれなんだろうなあ、って思いを新たにさせられるお話ではあった。どんな怪獣であれその出自はちゃんと説明がつかなきゃいけない、怪獣は強力だが人間に倒せない相手じゃない、愛する者を大切にする良きアメリカ人は最後に勝利する、みたいな構図。これって「原子怪獣現る」とか「恐竜グワンジ」から「ジュラシック・パーク」やトライスター版の「ゴジラ」に至るまで、アメリカ製怪獣映画に常に共通しているトーンだと思う。で、こちらは小説なんだけど、やはりそのパターンからは一歩もはずれていないなあ、と。非常に映画向きに作られている小説であるってのも確かなんだけど。

 これが日本だったら、たぶんリヴァイアサンはたちまち島を抜け出し、どうにかして巨大化して(^^;)大都会に現れそうなもんだが、ハギンズの小説では怪獣はあくまで孤島にとどまり、そこにいる人々を一人、また一人と屠っていく。どんぶり勘定で「被害甚大です!」とやる日本軍と、「あと、生き残っているのはだれとそれだ」で明確にサスペンスを盛り上げていこうとするハリウッド的手法の違いとも言えるのかもしれないけど、その分向こうの怪獣モノって、怪獣そのものには愛が注がれてないんだなあという感じ。なんだか判らんがとにかく倒さなきゃいけない相手、という位置づけしかされないのね。だから怪獣側の悲しみは描かれない。

 どっちがいいとか悪いとか言うんじゃなく、国民性ってのはやっぱりあるんだろうなあ、と改めて思ったことでした。(ほぼ等身大の)十字架のキリスト像をありがたがる心と、巨大な大仏様をありがたがる心根の違いなのかしらね、やっぱ。

03/05/20

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