オウム法廷(9)

諜報省長官 井上嘉浩

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降幡賢一 著
カバー装幀 神田昇和
朝日文庫
ISBN4-02-261388-2 \1,200(税別)

痛みに満ちた、一人の若者の成長の物語

 地下鉄サリン事件をはじめとするオウムの一連の犯罪行為の中で、常にその中心近くに身を置き積極的に活動してきた"諜報省"長官、井上嘉浩。16歳で入信し、そのめざましい実績から教団内では「神通並ぶなき者」と称揚され、外部からはオウムの行動隊長と目されてきた青年は、逮捕後は一転、麻原=松本智津夫の犯罪をすべて証言する、といい、かつての教祖と対決する姿勢を鮮明に打ち出してきた。その真意は奈辺にあったのか、そして、次々と死刑判決が出されていくオウム関連の裁判の中で、彼に司法が下した裁きとは…

 ある意味感動的な一冊。井上嘉浩は逮捕後すぐに、法廷での麻原の振る舞いの見苦しさに愛想を尽かし、教団をぬけ、積極的に自分を含むオウムの犯罪行為を証言してきた人物だったわけだけれども、同時に、微妙なところで保身に見える行動を取ったりするところもあった人物であって、どこまでが真摯な自分の心情なのか見えてこない、という部分も併せ持っていた人物だったわけだが、ここに来てマインドコントロールがあったと主張する静岡県立大学の西田講師や、後に井上被告のカウンセリングを担当する、元東北大教授浅見定雄氏(イザヤ・ベンダサン=山本七平のでたらめぶりをばっさりと切って捨てたあの方である)の証言によって、16歳で信徒となり、その後ずっと教団の中で人生を過ごしてきたこの人物は、年齢的には30を迎えようとしているけれども、精神的には(出家した)16歳の高校生のままである、という鑑定が明らかにされる。

 感受性はあっても、社会的な責任とか、なんていうのかな、生きていく上でのさじ加減みたいな物を学ぶことなく歳を経た井上には、理想の人物として崇拝する革命家としての坂本龍馬の姿を安易に自分に逆投影し、それですべては問題ないのだと信じることはできても、龍馬の人生の過程における様々な苦渋に思いをはせる余裕はなかったということだろうか。

 頭では自分の責任(=罪)は理解できるけれども、その罪を償うために自分が何をするべきなのか、という部分の理解というか覚悟というか、そんなぎりぎりの気持ちまで、実は麻原と対決する、という立場を鮮明にした時点ではまだ達してはいなかった、ということなのだな。これは精神鑑定を行ったえらい学者先生にも、分析はできるがその事実の重大さを本人に突きつけるところまではできない。そんな彼だが、(どんなかたちにせよ)彼が関係したオウムの犯罪によって肉親を失った遺族の糾弾に向かい合ったとき、それまでの自分が取ってきた、どこかエエカッコしいな態度があまりにも薄っぺらい物でしかないことを思い知らされる、そこまでの過程はあまりにも重く、辛く、そして感動的な物がある、と思う(実際に被害に遭われた方とその関係者の方からすれば、それが何の慰めにもならないものであるのは承知しているが)。ここまで重い荷物を突きつけられないと、人は自分のやってきたことを真剣に実感できないと言うことなのか。

 教団にあってエリートの地位を得ようとした日々、教祖である麻原の真実の姿をかいま見て、そこから離別しようと決意した時期、だけどそれだけでは、本当にごく普通の人間としての考え方を取り戻すところまでは至っていなかった。普通であるためには、尋常でない批判にもう一度(遺族の方からの激しい批判を受け止めることによって)我が身を晒さなければならなかった、という彼の人生のふってわいたような過酷さに、なんと感想を申し述べればよいのやら。すべては16歳の時から成長を止めてしまった彼の精神に起因するものではあるのだけれど。

 もとより彼が犯した行為の悪辣さをことさら弁護しようという気などないのだけど、それでも(あえて効果を狙って『ですます』調で行われた事は明らかだが、それでも)弁護側の最終弁論はあまりに感動的だ。

 弁護人は、被告人を何とか元の自分自身に戻してやりたいと思います。
 そうでなければ、被告人がやったことの意味を本当にはわからないと思うからです。
 そうでなければ、社会で生きることの意味、社会で生きる喜怒哀楽の素晴らしさを本当にはわからないと思うからです。
 今、被告人を死刑にしてしまえば、被告人にそれらのことを本当にわからせることが出来ません。
 浅見証人が言われたように、もし、被告人がそれらに気付けばボロボロになるでしょう。
 被告人は、ボロボロにならなければいけないのだと思います。
 刑罰は、犯罪者を真に反省させ、人間として更正させる意味を持つものであるはずです。
 被告人を死刑にすることは、それに反します。

 こんな感動的な弁論、わたしゃ映画でもお目にかかったことはありません

 とはいえ、映画ならこれだけの大技が出ればすべては丸く収まる方向に進むのだけれど、現実はそうはいかないってのもまた確かなことな訳で。オウムを巡る法廷での争いはまだまだ終わっていないのでした。

02/10/25

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