郵便的不安たち#

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東浩紀 著
カバー装幀 大塚ギチ
ロゴデザイン・人形製作 西島大介
朝日文庫
ISBN4-02-261378-5 \780(税別)

解読困難

 ポストモダン以降の「知」の世界に登場した新進気鋭の評論家、東浩紀。とはいえ個人的にはこの方の文章を読んだのは、ギブスンの「あいどる」の文庫版あとがきぐらいだったりする。それ以降も時々名前を見る人だったんで、どういう人なんだろうと思って読んでみたのが本書。で、感想なんですけどね。

 すいません何言いたいんだかさっぱりわかりません。いや、いくつか興味深い文章もあるにはあったのですけどね。

 一応、ポストモダンちゅう知の流れが'80年代にあったわけだけれども、それらの流れは日本に於いては必ずしもその思想の真実を理解した形で使われていたわけではなかった、と。「近代主義」が終わり、それに変わる何物かが必要とされたときに、日本ではそちらに向けての考察はなされないまま、"ニューアカ"などというキャッチコピーでおおざっぱにくくられたジャーナリスティクな、知の上っ面を掻くような動きばかりが顕在化してしまった(そうでない人物ももちろん居たのだけど)、と。そこで東氏は、かつての日本におけるポストモダンは「終わったもの」(これはあれだ、我々が日常的によく使う、『終わっとるなコイツは』的用法なのだろうと思う)と位置付け、それに続く'90年代を「終わったポストモダンの終わり」の時期であるとし、今こそポストモダンとはなんだったのか、をもう一度検証すべき時であるのだ、と、まあその辺が東氏の立ち位置であり出発点でもあるらしいように思えた(全く自信なし)。

 その上でポストモダン以降に登場した、サブカルチャーへの評論家の注目度の上昇、オタク文化の担い手たちの中に発生した閉塞とその突破のための試み、あるいはオタク文化を取り入れたアーティストの誕生、と言った流れに注目し、ポストモダンの終焉が生み出したものとは、大量の「意味を消費する」社会であって、それはまず「物語の消費」から始まり、そして今それは「データベース消費型」社会へと移行している、と言うようなことをいいたいんでしょうかどうなんでしょうかもごもご………、いやその、まとまりかけるそばから脳内の思考が砂のようにさらさらと崩れていってしまうんですわ。

 唐沢俊一氏は東氏を一言、「文章が下手」で切り捨ててしまっているけど、そういうもんなのかな、そうでもないような気がする。ごくごく乱暴にまとめるなら、オレはこの本を読んで、東浩紀という人は、「今って、わかんない状態が蔓延してるんだから、まずその『判らん』ってことをちゃんと『判る』ように考えようよ」ってことを言いたい人なのかな。それはなんか矛盾してないかー、とは思った。奇しくも解説で斉藤環氏が東氏の評論の特徴の一つとして、"問いかけに解答を示さない"ってのを挙げてて、すぐれた解はすぐれた問いを誘発する。その限りにおいて、問いと答えは等価なのだ、と述べておられる。だがそうか?東氏のやってることは既存の問いを分解して、もう一度問いを組み立て直す作業なんではないのか?判らん物事たちを分解してまた判らんものに再構成しているから、読んでて訳分からなくなるんではないのか?

 とりあえずバカなわたくしの脳みそではほとんど理解不能な文章が続いて大変辛かったっす。文庫化に際していくつかの文章が差し替え、追加されてる(ページの端がバーコード模様になってる)んだけど、その部分はまだしも読みやすいってのは、新しいものほど文章がこなれてきている→バカな読者への対応もしてくれるようになった、ってことなのかな。あ、んじゃやっぱり唐沢さんのツッコミが一番正しいのか?ううむ………。

 こういうときに、年寄りはこういうのだな。「若いもんの考えることはわからん」と。

02/06/24

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