デューンへの道

公家(ハウス)アトレイデ

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ブライアン・ハーバート&ケヴィン・J・アンダースン 著/矢野徹 訳
カバーイラスト はやみあきら
カバーデザイン ハヤカワ・デザイン
ハヤカワ文庫SF
ISBN4-15-011397-1 ¥840(税別)

壮大にして普通な権謀術数

 SF史上屈指の大作、"デューン"シリーズの最新作。なくなったフランク・ハーバートに代わってその息子、ブライアンと「無限アセンブラ」などで知られるアンダースンの共著で再スタートした物語は、「砂の惑星」に先立つこと約40年前のお話。「砂の惑星」の主人公、ポウルの父、レト・アトレイデはまだ14歳。人間の洞察力と寿命を拡大する奇跡の香料(スパイス)メランジがとれる宇宙ただ一つの場所、惑星アラキスは、やがてレト、ポウルが死闘を繰り広げることになる相手、ハルコンネン家の支配下にあり、帝国は何とかしてその奇跡の香料の秘密を探り出そうとしているような時代。後にポウルの側近として活躍する、ダンカン・アイダホはハルコンネン家の奴隷の8歳の少年、てな設定。その他、やがてフレーメンの重要人物になるスティルガーとか、懐かしい名前、ベネ・ゲセリットだのトライラックスだのサルダウカーだのサンパーだの、懐かしいキイ・ワードがたくさん出てきてそこはちょっとうれしい。でもなあ。

 「砂の惑星」がすごかったのは、SF的なガジェットたちの魅力を超越した、全く特異な環境の緻密なまでの設定と、そこに生きる人々の精密なシミュレーションに乗っかった、少々宗教的なメサイア伝説みたいなものにつながる流れのユニークさにあったと思うわけで、その異質さに、ワシらは「すげー」って思ったはずなんだよな(ちなみにオレ個人の感じではあるが、より理系の頭を持った人ほど、このシリーズを大喜びで読んでいたような気がするね)。その、ほかのどの作品にもない魅力があったから、「砂の惑星」(と、おまけで「砂漠の救世主」「砂丘の子供たち」も)はSF史上屈指の作品たり得た訳なんだけど、それ以降の作品では、それ以上に新しいことをなんにもやってないんだよね。で、それ故に"デューン"シリーズは途中から、やけに観念的な方向にシフトしすぎたお話になりすぎてしまったような感じがある。

 そこらの経緯を倅であるブライアンも「こりゃいかんなあ」と思いながら見ていたのかどうかは知らんけど、久々の"デューン"はずいぶんと読みやすいものになったと思う。「砂漠の神皇帝」以下の三部作がもう、退屈で退屈でうんざりする出来だったことを考えれば、そこそこエンタティンメント風味をまぶしたこのシリーズの開幕、様々なキャラクタがそれぞれの環境で異なるストーリーを生き、それがやがて一本の太い糸により合わさるであろう予感も持たせてくれて印象は悪くない。

 ところがそれが却って、"デューン"が持っていた「解らんやつは来んでよし」的な、どこか突き放したような、読んでる側が「孤高の」とでも形容したくなるような独特の雰囲気までも著しくスポイルしてしまったように感じられちゃうってのはなんかちょっと惜しいな。いろいろ凝った演出はあるんだけど、読んでる側は、「でもそりゃ全部親父が決めたことから一歩も外には出ちゃいねーべ」などとけちつけちゃくなっちゃうのね。あれだな、"スター・ウォーズ"のエピソードⅠからの流れが、「結局そりゃこれまでの設定を再確認するだけのお話なんでしょ」って思えちゃうのと同じ感覚というか。いや、決してお話としてどうしようもなく悪いってものではないのだけれどもねえ。

02/05/08

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