パイド・パイパー

自由への越境

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ネビル・シュート 著/池央耿 訳
カバーイラスト 杉田比呂美
カバーデザイン 東京創元社装幀室
創元推理文庫
ISBN4-488-61602-X 700(税別)

胸にしみる、とはそういうことだ。(©北上次郎)

 年老いた元弁護士ハワードは、少しばかり鬱屈がたまっていた。海峡を越えたところで始まった戦争の知らせを受け、何か国のために役立つことをしようと思っても、70になろうという老人を働かせてくれる場所などありはしない。募るもやもやを晴らそうと、彼は突然釣りに出かけることを思い立つ。行く先はかつてバカンスで訪れたことのあるフランスの田舎。戦火もまだフランスに及ぶことはなかろうと考えて。だが出かけた先の南フランスの片田舎で、ハワードは戦火の拡大を危惧する英国人の国連職員夫婦から、彼らの息子と娘を、一緒に英国に連れて帰ってやって欲しいと依頼を受ける。突然の要請にとまどいつつも、同国人のたっての願いを無碍に断ると言うのも自分の気持ちが許さない。なに、戦時下とはいえフランスは大きく、強い国だ。二日や三日で状況が大きく変わることもあるまいと考えて夫婦の頼みを聞き届けるハワード。だがそのころ、ドイツ軍の電撃戦はフランス軍を一蹴し、その機甲師団は猛スピードでドーバー海峡に向けて進撃を開始していたのだ………。

 ネビル・シュートといえば、終末SFの名作「渚にて」で有名な作家。日本ではほとんどこの作品ぐらいしか知られてはいないけれども、英国ではアガサ・クリスティらと同等の人気を誇る大作家なんだそうだ。しかもこの方、戦争映画ではおなじみの"ホルサ"グライダーなどで知られる英国の航空機メーカー、エアスピード社の創業者でもあるという、なかなか凄い経歴の人だとは知らなかった。

 そんなシュートが戦時中の1942年に発表したのが本書。舞台は1940年、夏のフランス。破竹の快進撃を続けるドイツによって蹂躙され、大量の難民が安全地帯を求めて逃げまどう中を、望みもしないのに押しつけられた幼い子供たちを連れ、何とか故国イギリスに戻ろうと悪戦苦闘する英国の老紳士の物語。

 パイド・パイパーってのは、ハメルンの笛吹きの物語の元にもなってる民間伝承。伝承では笛吹の青年の笛で、村の子供たちがみな連れ去られてしまう訳なんだけど、こちらの物語で笛吹を演じる爺さんには、頼みもしないのに子供たちがついてくる。しかも戦火の中を旅していくうちに子供たちは病気になり、物は盗まれ、列車は止まり、空からはドイツの軍用機が機銃を撃ちかけてくる。そしてその混乱のあとには彼の保護だけが頼みの綱の子供がまたひとり取り残され………そしてハワードはそんな子供を見捨てられない。だから一行に加えて英国を目指す。道理もわからずむずがる子供たちをなだめ、すかし、時には少し厳しい態度をとりながら。この、どうにも融通の効かない、いかにも古風なハワードの老紳士ぶりがとてもいい。

 ハワードの顔を薄笑いが(よぎ)った。なんのことはない。恐怖にうろたえた自分がおかしかった。恐怖は乗り越えなくてはならない。子供たちは彼の責任である。病気であろうがあるまいが、そのことに変わりはない。それこそが、責任を負うということではないか。子供たちを引き受けたときには思っても見なかった困難が待っているとしても、いったん負った責任は最後まで果たさなくてはならない。

 爺さん、あんた最高だよ(少し涙目)。

 なにせ爺様と一番年長でも十歳足らずの子供たちが主な登場人物。派手な見せ場がある訳じゃあない。でも、戦争というなんだかわからないけど巨大なうねりの中で、とぼとぼと旅を続ける年寄りと子供たちという、すごくちいさくありきたりな者たちの姿の描写がすばらしい。お話そのものは特にひねったところもない、ごくシンプルなものであるのだけど、"旅の仲間"(^^;)たちのディティルのすばらしさ、特にいきなり迷惑な物を押しつけられてしまったというのに、一度それを受け入れたからには、それは自分がやらなくちゃいけないことなのだ、ということを毛ほども揺るがせないハワード爺さんの姿に、古き良きジョンブル魂みたいな物を感じてしまってなにかこう、しみじみと暖かく、それでいてちょっぴりの淋しさも併せて感じさせてもらった。いやこれはいい本です。北上次郎さんの解説も素敵だった。

 小説を読んでいて、失ったものに対する追憶と哀惜の念に出合うと、私はしばし立ち止まるが、このくだりも例外ではない。こういう小説に、私は極端に弱い。胸にしみる、とはそういうことだ。すなわち、これは老人小説でもある。若い読者が本書をどう読むかはわからないが、中年男性なら身につまされるのではないか。

 ええもう、つまされまくってますともさ。

02/03/06

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