紙の迷宮

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デイヴィッド・リス 著/松下祥子 訳
カバーデザイン ハヤカワ・デザイン
ハヤカワ文庫HM
ISBN4-15-172851-1 \760(税別)
ISBN4-15-172852-X \760(税別)

 18世紀初頭。産業革命はまだ半世紀ばかり先の英国にはまだ警察もなく、私設の"調査員"、"盗賊捕獲長官"などと呼ばれる私立探偵まがいの人々が、富裕な層の依頼を受け、犯罪捜査の一環を担っている世界。ユダヤ教徒で、かつては国内最強の拳闘士の一人だったわたし、ベンジャミン・ウィーヴァーもそんな調査員の一人として、正直で公正な調査員としてそこそこの評価をもらっている。そんな彼を、一人の依頼人が訪れる。さきごろ破産に追い込まれ、自殺したとされる彼の父は、自殺などではなく他殺の疑いがあるという。さらに彼は、同じ頃事故死したウィーヴァーの父も、事故死などではなく何者かによって殺害されたのだ、とまで主張するのだった。半信半疑ながらも捜査を開始するウィーヴァーだったが、彼の前には次々と不可解な事件が発生して………

 史上初の財テクバブル崩壊パニック、「南海泡沫事件」を背景に、ユダヤ教徒の元拳闘士の探偵が謎の事件に挑む異色ミステリ。産業革命以前の、暗く汚泥にまみれたロンドンを舞台に、やや(かなり)エピキュリアンな医者である親友、エライアスの助けを借りて難事件に立ち向かうウィーヴァーってのは、もしかしたら史上初の私立探偵なのかも知れない。何でも初めてのことにはとまどいが付き物なんだけど、ウィーバーもそれまでの調査員としての方法論だけに頼るだけでは捜査の進展はおぼつかなく、ここでエライアスが(遊び人だが学はあるのだ、彼は)科学的な帰納法的思考によって推理し、捜査していく、という、探偵としての全く新しい方法論を提案していくあたりの流れが実に楽しい。そういえばホームズの良き相棒もまた医者であったなあ。

 「行き当たりばったりというのとは違う」彼は言った。「確実にわかっていることはないが、理性的に推測して、その推測をもとに行動すれば、犯人が誰かを突き止めるチャンスは最大に、失敗のチャンスは最小になる。行動しなければ、発見のチャンスはない。前世紀の偉大な数学的頭脳の持ち主たち———ボイル、ウィルキンズ、グランヴィル、ガサンディ———が、きみの殺人犯探しに必要な考え方の規則を発表している。きみは自分の目と耳が示すものではなく、頭が"ありうる"と考えることに従って行動する」

 引用のアンダーライン部分は実際には傍点です。

 著者のデイヴィッド・リスは、もともと博士論文の執筆中に様々な資料をあたっているときに本書のモチーフを得たらしいけれど、もとが研究者って事があるのか、18世紀初頭の英国の世相や人々の暮らしぶりなどのディティルにもさりげなく考証が加えられているあたりが、このお話に魅力的な奥行きを与えてて楽しめる。好きなときに水を飲むことが贅沢な時代、ってのはなかなか現在ただいまの我々からは想像もできない世界であるよ。人々の生活を影で支えているにもかかわらず、守銭奴として忌み嫌われるユダヤ教徒という存在、ロンドンの暗黒街に暗躍する史上初の犯罪王など、脇の描き込みも魅力的だし、ミステリとしての二転三転のお話の展開もよく考えられてて、こっちの系統は苦手なオレでも楽しめた。

 それまでの、金なり銀なりの貴金属自身が通貨としての価値を持っていた時代から、紙幣、そして株券など、それ自体には価値がないにもかかわらず、"信用"を仲立ちにした兌換可能な財産が登場したことによって起きる財テクの狂乱、ってのは今も昔も変わらないのだな。よほどこの、株って言うものには人間を狂わせる何かがあるということなのか。事件の真相を知ったウィーヴァーが漏らすこんなつぶやきは、なかなか示唆に富んでいると思ったですよ。

 「新金融みたいだ」わたしは言った。「われわれが真実だと信じているかぎりは、それが真実になる」

 なかなか、意味深です。あ、「南海泡沫事件」に興味のある人は、このへんが参考になるかも。

01/9/16

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