野球術

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ジョージ・F・ウィル 著/芝山幹朗 訳
© ROB KERNEY/amana images
デザイン 大久保明子
文春文庫
(上)監督術・投球術 ISBN4-16-765112-2 \667(税別)
(下)打撃術・守備術 ISBN4-16-765113-0 \667(税別)

 オレは野球についてそんなに詳しいわけではない。関西にいるから在阪の球団が好調だとそれなりに機嫌はいいけど、特定の球団が調子悪いからといって仕事(してないけど)に影響が出る、とかそんなこともないし、そもそも野球の技術的な面、戦術的な面に知識がある訳でもない。テレビで見る野球中継は(日米どっちも)そんなに楽しくない。しかし、アメリカ人が書いた野球の本、これはごくまれに例外もあるが、ほとんどは抜群に読み応えがあるんである。このコーナーでは紹介してないけど、ロバート・クーヴァーの「ユニバーサル野球協会」なんてのは傑作だと思う。ハルバースタムの「男たちの大リーグ」もよかった。

 さてこれは、ピューリツァー賞も受賞したことのあるアメリカの著名な政治コラムニスト、ジョージ・F・ウィルが、膨大な数の野球人とのインタビューをもとに、野球における、監督、投球、打撃、守備の各分野のエキスパートたちがそれぞれ、どのような意識を持ちグラウンドに立ち、そして動いているのかを解き明かしていく本。

 野球とは、フィールドで競い合う選手たちの、おどろくほど高い知的水準を反映するゲームである。あるいは、高度な知性をひきだすゲームといいかえてもよい。そして野球ファンとは、そんなゲームを心ゆくまで堪能する存在にほかならない。知的なファンになるとは、その対象とねんごろな関係をとりむすぶことだ。つまり、それはひとつの行動である。なんなら、個人の精神、ひいては社会の精神を豊かにしてくれるすぐれたものを鑑賞する行為、といいかえてみようか。

 のっけからこれですもん(^^;)。ベースボールと野球は別物だ、とはよく言われるけれども、確かにアメリカ人にとっての野球というスポーツは、何か特別なものなのだろうと感じさせられる。第一線の政治コラムニストがどういう時間のひねり出し方をしたのか判らないけれども、かなりな時間を使い、さまざまな選手にインタビューを行い、また自らの記憶、公式な記録などを丹念にあたり、野球をプレイするとはつまりどういうことで、何が求められ、選手たちは求めるものをどうやって手にしていくのかを丹念に考察してみせた本。しかも凡百のスポーツライターと比べて、ウィルの語彙と引用できる言葉の質と量は桁違い。つまらないわけがないのだ。

 我々はアメリカ野球というと、何となく小細工ナシ、力と力の真っ向勝負、というイメージを持ってしまうが現実にはそんな単純なものじゃなく、やはり彼らもデータは重視するし、データから来る確率をおろそかにするようなこはしない。力対力、言い替えれば投手と打者の勝負を中心に動くのが野球の醍醐味なのではなく、投手と打者、野手と打者、野手と打者走者、それぞれの間に駆け引きがあり、それは、一見凡打に見える打席であっても知的なファンが見ればさまざまな情報に満ちたイベントなのであって、選手、観客、ともに高いレベルでゲームに参加するのが野球なんだ、というウィルさんの筆、国技とも言うべき野球に対する愛情と自負に満ち満ちている。ここまで言うんだよ、彼は。

政治からポピュラー音楽、さらにはネクタイの柄や幅にいたるまで、六〇年代とは、ほとんど何もかもが、あくどい行きすぎに彩られた時代だった。そんな時代がフットボールと恋に落ちても、まるでふしぎではない。時代が調子っぱずれになっている時には野球が時代遅れあつかいされる———これはむしろ、野球にとっての名誉といわねばなるまい。

 本書の各章でメインとなる大リーガー、監督のトニー・ラルーサ、投手のオレル・ハーシュハイザー、打者のトニー・グウィン、守備のカル・リプケン。かろうじて名前を知っていたのはハーシュハイザーとリプケンだけだったんだけど、超一流の大リーガーのものの見方ってのが、こちらが思っていた以上に、緻密で論理的、かつ想像力に富むものであることに驚かされる。おそらく一試合、あるいはシーズンを通じて、集められる情報の質と量という点においては、わが国の野球も決して本場にひけをとるものではないと思うけれども、最後の、個人の想像力という点において日本野球はアメリカの野球に圧倒的に差をつけられているのではないか、それゆえに高校野球からプロ野球にいたるまで、徒に勝つことのみが優先され、"組織野球"の名の下に個人の想像力が封殺されている現状が、日本の野球を面白くなくしている最大の理由だなあと思ってしまった。

 野球に関するさまざまな知識を得、感心する以上に、多くのアメリカ人は、程度の差はあれ、野球という物を、自分たちの暮らしの中でここまで身近で、切り離しがたい物として捉えているのだ、と言う部分の感銘が大きかったな。ヨーロッパ人のサッカーに対する姿勢、日本人が相撲に求めるもの、そのどちらともまた違った思い入れがあるような気がする。サッカーってのはスポーツに準えて他国を叩きのめす事に血をたぎらせるものだし、相撲(に限らず日本のスポーツってのは)ってのは「道」を極めたものが勝利を得られる、って思想に満ちているとするなら、アメリカ人の野球ってのは、攻撃的過ぎもせず、禁欲的過ぎもしない、もっと日々の暮らしに根ざした、人(まあ、アメリカの男、ってことになるのか)が生きていく上で支えの一本になるようなものなのかもしれない。政治にコメントをつけるのが本職のウィルさんは、こんなことをおっしゃってます(本書は1980年代後半、まだまだアメリカがいろんな意味で苦しんでいる時期に書かれた本である)。

 ひとつだけ断言しておきたいことがある。リプケンが併殺をとるように、グウィンがヒットを打つように、ハーシュハイザーが球を投げるように、ラルーサが決断をくだすように………もしアメリカ人がそんなふうに製造やサービスの仕事に励むなら、この国はすでに峠を越してしまったなどという声は聞かれなくなるにちがいないのだ。

 国を語る時にひきあいに出せるスポーツがあるってのは、やっぱりスゴいと思ってしまうな。

01/8/25

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