「彼女たち」の連合赤軍

サブカルチャーと戦後民主主義

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大塚英志 著
装画 会田誠「美しい旗(戦争画RETURNS)」
装幀 鈴木成一デザイン室
角川文庫
ISBN4-04-419109-3 \667(税別)

 「あさま山荘」事件に先立ち、日本アルプスの連合赤軍山岳ベースで起きた、「総括」の名のもとの凄惨なリンチ殺人事件、その指導者の一人、永田洋子が獄中で描いたさまざまな絵の中には、いわゆる"おとめちっく"な少女マンガ風味のものが多数含まれていた。12人の活動家を死に至らしめた責任者の一人と、思想性とは一見無関係に見える少女マンガのあいだに、どんな接点があったのか………。

 しばしば"ラディカル"と形容される日本国憲法だけど、そのラディカルさは戦争放棄を定めた9条よりも、男女平等に踏み込んだ24条にこそあるのだとする大塚氏の基本的な姿勢が大変興味深い、し、戦後民主主義の根幹というのが、この"平等"という理念を神経質なまで遵守しようとしてきたところにあること、その傾向は時が経つに連れてどんどんいびつな方向に向かっていること、そのいびつさの上で、いつかこの国がサブカルチャー大国に変質してしまった、とする氏の意見には頷ける部分が多いと思う。

 江藤淳の「成熟と損失」を引きながら語られるこんな一節が、つまりは現在ただいまの日本を形作る、最初の原型になったのだろうな。

 近代という時代が「教育」による階層間の上昇を可能にしたとき、母によって夫とは、より上の階層に達し得なかった失敗者として映る、と江藤は考える

中略

 しかし、江藤がここで指摘した事態はあくまでも「息子」の問題である。戦前の社会において「フロンティア」が示されたのはもっぱら「息子たち」に対してだが、ベアテ・シロタと小柴美代による日本国憲法の女性の権利条項はその「フロンティア」を娘たちにも等しく開いた。それが戦後という時代の新しい困難さであり、可能性でもあった。

 つまり、永田は娘でありながら「息子」のように生きねばならないという「自由」あるいは「呪縛」を与えられた「近代」で最初の女性たちの一人なのである。

 ものを作る社会から、ものを消費するそれへと、社会が大きく変容する、そのうねりのなかで無防備な「少女趣味」がある日突然、革命思想に出逢ってしまったこと、そして、あえて詳しくは語られていないけれども、若い女性たちにやってきたこの変革を、当時の男性がついに理解できないままでいたことが、あのような悲惨な事件の引き金となってしまったとした上で、その変容が、やがて男の側に連続幼児殺害のM青年を産みだし、女性の側にはオウム真理教の女性たちを生み出す、その発端であったとする考えは正しいと思う。戦後、女性は考え、男性は考えなくなったのだな。ただ、考えても考えなくても、もはや世の中は普通に暮らす上ではなんの不都合もない社会になってしまった。そこに閉塞を感じたとき、女性はソトに救いを求め、男性はウチになごみをもとめ(ヒッキーですな)るようになってしまったということか。

 この流れを積極的に批判した、丸谷才一や江藤淳が、その発端を戦後の占領軍における民主化に求めて批判する態度を、(オレもそうなんだけど)第一期オタクと呼べる年代である大塚氏は、一定の賛意を見せつつも完全にそこに組みすることはしない。ここもいい。

 例え「憲法」が「与えられた」(あるいは強制された)ものであったとしても、五十年の歴史を具体的に生きたのは日本人たちである。そこで達成されたもの、さらにはその過程で顕わになった困難さ、それら歴史的所産の主体は戦後社会を生きた日本人たちの責任である。安直な戦後民主主義批判や憲法押しつけ論に戦後社会の諸問題を無批判に結びつけてしまう類の言説は、それこそ「歴史」に対する責任の放棄に他ならない。だって占領軍が悪いんだもん、という歴史観と、戦前のこの国の過ちを一方的に天皇制の問題に帰結させてしまう歴史観はともに「歴史」という事象への責任のあり方において同質であることにそろそろ気づくべきだ。

 全く同感。たとえサブカルチャーばかりが氾濫し、正史たり得ない半世紀であったとしても、その半世紀をワシらは生きてきてるんである。訳知り顔の年寄りに、あっさりムダヅモ扱いされてたまるかい。

01/7/9

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