歴史をかえた誤訳

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鳥飼玖美子 著
カバー写真提供 AP/WWP・毎日新聞社
装幀 新潮社装幀室
新潮OH!文庫
ISBN4-10-290095-0 \581(税別)

 ときの総理大臣、鈴木貫太郎によるポツダム宣言の"黙殺"の訳し方が異なったものであったら、原子爆弾の投下はなかったのではないか、というのは有名な話だけど、その後も現在に至るまで、しばしば問題を引き起こすのが、通訳を介して異国語に翻訳された発言の意味合い。なぜ誤訳は起きるのか、通訳の難しさはどこにあるのか、互いの意志を正しく伝えるとはどういう事なのかを、自身通訳であり、現在は大学教授としても活躍している鳥飼玖美子氏が解き明かして行く本。

 有名な中曽根康弘の"不沈空母"発言、本来彼は"大きな空母"と発言したのを、通訳者が"不沈空母"と通訳したがゆえに話がややこしくなってしまったというのは知らなかった。もっとも、その後中曽根が自分で"不沈空母"発言をしたという前提で弁明にこれ努めるあたりが中曽根らしいんだけど。

 このエピソードからも感じられるのだけれど、誤訳が発生するときというのは、往々にして通訳が妙に気を回したときなのだな。気の利いた言い回しにしたいとか、そのまま通訳すると相手に失礼になると思って脚色するとか、通訳者自身が勝手に"国益"を斟酌して発言を勝手にねじ曲げてしまうとか。ちょっと考えればすぐにバレそうなものだが、何故かそういうことはしばしば起きているような。

 本書で触れられている、国会議員による東ティモール視察団の記者会見における、外務官僚のむちゃくちゃな通訳ぶりなんかを見ていると、今何かと叩かれている外務官僚と呼ばれる人達の頭の構造というのが、普通の人間のそれとはずいぶんと違うものなのだということが見えてくるあたりは興味深い。

 国民性や言葉の構造の違いもあり、単に言われたことをそのまま訳するだけでは通訳の意味はなし、さりとて通訳が勝手気ままに訳することも赦されない、非常にさじ加減の難しいところなのだとは思うけれど、基本的に通訳とは"透明な存在"であり、"通訳者は発言者になりきる"ことが肝要であるとするなら、通訳者もまた発言者になりきるため、常に必要な情報を集め、万全の体制で事に臨まなければならないということか。

 前に読んだ、米原万里氏の「不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か」でも、この辺の通訳業の苦労は楽しく語られていたけれど、あちらが一人の通訳としての話なら、こちらは個人的経験をふまえ、通訳のあり方、さらには日本語と英語の文章構造の違いから見えてくる文化の違い、さらには通訳を使う側が持つべき意識まで、幅広く論じた本と言えるかな。なかなか楽しかった。

 ただし文庫版タイトルの「歴史をかえた誤訳」はちょっと大袈裟。初出時のタイトル、「ことばが招く国際摩擦」の方がよほどふさわしいタイトルだと思う。もう、しばしば言ってることだけど、なんで文庫化するときにタイトルを改題しちゃうんだろう。しかもたいがい改題されたタイトルって、酷いシロモノなんだよな。なんか理由はあるんだろうけど、あんまり変なタイトルつけて欲しくないなあ。

01/6/15

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