現代マンガの全体像

表紙

呉 智英 著
カバー絵 ピーター・ブリューゲル「二人の阿呆」(ブリュッセル ベルギー王立図書館蔵)
カバーデザイン 日下潤一+大野リサ+川島弘世
双葉文庫
ISBN4-575-71090-3 \562(税別)

 日本の文化のうち、諸外国に見られないほど特異に発達した民族の遺産というべきものは、たった二つしかない。それは、歌舞伎でもなく、茶の湯でもなく、和歌俳句でもなく、日本的経営学でもなく、天皇制でもない。それらは、表面的な相異はあっても本質的には類似なものを、どこかの国で見出すことができる。日本の誇るべく文化の二つとは、第一に、膠着語の特性を生かし、表意文字と表音文字を混用する漢字仮名まじり文、第二に、極めて高度に発達した表現ジャンル、マンガである。

 保守系の思想家(ってのは乱暴な分類になるのかなあ)、呉智英さんが1986年に発表したマンガ評論。この本の存在はずいぶん前から知ってはいたのですが、なかなか手にするチャンスがなくって、文庫化、再販の機会をようやくつかまえて読むことができました。この本、かなり重要な本で、それはなんといっても本書の初出が1986年という比較的早い時期に登場した、本格的なマンガ評論であるということ。この時期、マンガ評論というのは、まだまだまとまった物も、納得できる物も登場してはおらず、かろうじて"だっくす"、"ぱふ"など、一部のマンガ評論誌がようやく登場して間もない時期で、これだけまとまった評論が出たというのはなかなかに画期的だったんですね。

 思想的バックボーンがかなり強固な呉さんなので、特にトンデモマンガ評論家であった石子順氏(ワシもコイツはおかしいと思ったですが)あたりを厳しく批判しつつ、マンガを評論するということは、近代の純文学が"物語"を否定しつつ、その圧倒的な訴求力をついに突破できなかったという背景なども踏まえ、文学が約一世紀をかけて通ってきた道のりを、その三分の一に満たない時間で駆け抜けつつあるマンガという文化について、体系立った評論体系の必要を説き、みずからその叩き台となるものとして本書を上梓した、その心意気やよし。こんな一節があるんですが、個人的にかなり賛成。

 われわれが"高尚な""文化的・文明的な"作品をもって、"低俗な"勧善懲悪を否定しようとしても否定しきれないのは、実はこの両者は、ともに神話であり物ドラマ語であるからだ。高尚と低俗の対決ではないのだ。

 マンガというもののルーツを(何かにつけて言われるような)鳥羽僧正の"鳥獣戯画"に安直に求めるようなことをせず、明治後期に登場した時局マンガにその祖を求め、さまざまな雑誌の勃興、隆盛、衰退を交えて80年代後期に至るまでのその歴史を総括した第二部は本書の白眉と申せましょう。マンガと言うジャンルの解説や作家論については他に優れた本も今となっては登場しているし、さらには作家に関してはそれぞれの個人的な思い入れもあるでしょうから評価は一定しないと思いますが、この第二部は掛け値なしに労作であるといえると思います。

 そのうえで"個人的な思い入れ"にしたがって言わせていただくならば、少女マンガに対して(ご自分でも認めておられますが)ツッコミが浅い(なぜにマンガ評論を書く人は三原順を評価しないのでしょう)、小林よしのりのいかがわしさを見抜けなかった(『東大快進撃』まではともかく、『おぼっちゃまくん』、というかそれに付随する読者のメールに対するエッセイトーク・コーナーのいかがわしさは感づいて欲しかった)、等々不満もありますが、15年をへてもなお価値のあるマンガ評論であることは確かであります。必ずしも呉さんの意見のあれこれの全てに賛同はできないけど、この本にはかなりの部分で同意できます。マンガ好きなら読んでみるよろし。

00/11/16

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