人はなぜエセ科学に騙されるのか

表紙

カール・セーガン 著/青木薫 訳
カバー写真 ©AP/WWP
デザイン 新潮社装幀室
新潮文庫
ISBN4-10-229403-1 \667(税別)
ISBN4-10-229404-X \667(税別)

 UFOの目撃談、さらには宇宙人による誘拐、人体実験、はたまた謎のミステリー・サークルやキャトル・ミューティレーション。後を絶たないカルト宗教の勃興。クリエイショニズムやキリスト教原理主義………。科学で説明のつかない、あるいは科学的には簡単に否定できてしまう物ごとを、ひとは何故簡単に信じ込んでしまうのか。

 テレビ番組、「コスモス」などでも知られる惑星科学の専門家、カール・セーガン博士による科学エッセイ。テーマはタイトルが伝える通り、なぜに人はこうもたやすくいかがわしい風説を信じ込んでしまうのか。それはつまり、話を聞く側に真の意味で科学的な思考をする能力が足りないからだ、というのがセーガンさんの主張。科学的な思考とは、まず、全てを疑ってかかるということ。そして疑いがある時にそれをうやむやにしてしまわず、必ず公正な方法を用いて検証を行うことである、ってわけで、たとえばオウムに転んでしまうひとびとが(いろんな事情があるにせよ)どこかで"自分で考える"ことをやめ、全てを他人のいうままにまかせ、やがてのっぴきならないところまで自分を追い込んでいってしまったことを考えればこれはまことに正鵠を得た主張であるといえるでしょう。

 人間というのはよくよく業が深いのか、オウムの騒ぎがあったように、かつてはマッカーシズム、ナチスによるホロコースト、中世ヨーロッパにおける魔女狩り、さらに十字軍による異教徒の虐殺、と、少し冷静になれば愚考でしかないことを、なぜ二千年以上にもわたって繰り返すのか、その裏に潜む大きな原因の一つが、科学する、という意識がいろいろな理由で希薄だったんだろうな、てのはなんとなく理解できますね。

 非常に理路整然とした、納得できる本で、良書といっていい本だと思うんですが、なぜかイマイチ"乗れない"感じも同時にあって少々複雑。たとえば日本が誇る「トンデモ本の世界」のように抱腹絶倒なエッセイを実は期待してたこっちの気分もあるかもしれないんですが、でも、たとえばクラークやアシモフなんかの科学エッセイでは、納得の内容が実に軽妙なユーモアにまぶされて出てくるものだから、難しめの話題でも楽しく読めたものが、本書ではそこまでユーモアが効いてるとは思えない。優れた科学者による科学エッセイには、レベルの高いユーモアが必ずあると思っていた僕としては少々意外な感じもあったんですが、解説やあとがきでようやく得心。本書ってばセーガンさん、最後の著作だったんですね。

 なんかなあ、そういう事情を知っちゃうと、「えーいどうしたんだセーガン、面白くないぞ。」などと思いながら読んでた自分が少々恥ずかしく思えたりしてしまうなあ(^^;)。ということでセーガンさんの、あとに続く人びとに対して発せられたメッセージを三つほど。

 しかし私は、直感では物を考えないようにしている。もしも真剣に世界を理解したいと思うなら、脳ミソ以外では物を考えないほうがいい。

 こうした発見のことを考える時、私はいつも胸のすくような思いがする。心臓が高鳴って、どうにも抑えられない。科学は、驚きであり喜びなのだ。宇宙探査機がほかの惑星のそばを通過するたびに、私は驚いて目をみはる。そして惑星科学者たちは、こうつぶやくのだ。「ああ、こうなっていたのか。どうして思いつかなかったのだろう。」だが、自然はいつだって、われわれの想像など及びもつかないほど精妙で、複雑で、エレガントだったのではないだろうか。

 科学と民主主義はどちらも、因襲にとらわれない意見を出し、活発な議論をするようにわれわれを励ます。そのどちらもが、十分な根拠と筋の通った意見を出すよう、証拠には厳しい水準を課すよう、そして誠実であるようわれわれに求める。科学は、知ったかぶりをした人の嘘を見破る手段にもなってくれるし、神秘思想、迷信、まちがった目的に奉仕させられてる宗教から、わが身を守ってくれる砦にもなってくれる

これが最期、と思い定めたセーガンさんの、あまりに"素"な、それゆえ真摯なメッセージなんでしょうね。

00/11/09

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