オウム法廷(6)

被告人を死刑に処する

表紙

降幡賢一 著
カバー装幀 神田昇和
朝日文庫
ISBN4-02-261315-7 \840(税別)

 死刑は確実と思われた林郁夫に対する無期懲役の求刑と求刑通りの判決を受けて、オウムの被告たちには微妙な変化が現れはじめていた。あるものは積極的に事件への関与を供述しはじめ、またあるものは逆に教祖の教えという殻の中に再び閉じこもってしまう。そんな中、教団でも最古参の信徒の一人、岡崎一明被告に対する裁判がいよいよ大詰めを迎えようとしていた。

 幼い頃から養父との確執のなかで育ち、自分の面倒は自分で見るしかない過酷な半生を送ってきた、他の知的エリートとは明らかに一線を画したある意味地に足をしっかり付けて生きてきたはずの岡崎が、オウムの教義になぜたやすくのめり込み、麻原こと松本容疑者の指令を唯々諾々と受け入れ、凄惨な殺人を犯すまでに至ったのか………

 岡崎被告の自供がなければ坂本弁護士一家"失踪"事件の真相究明の手がかりが得られなかったかもしれないこと、その後も自らの罪を深く悔いているように見えることは、林郁夫被告の一件も考慮すれば情状酌量の余地もあるかと思われたのですが一転、検察側は一定の悔悛を認めつつも、それをもって情状酌量の材料とはし得ない、という極めて峻烈な求刑を行い、裁判所もそれを指示し、一連のオウム裁判の中で初めての死刑、という判決が出てくるまでのドキュメント。一読して思うのは、日本の裁判官ってこんなに極刑を恐れないモノだったろうか、てことか。

 裁判といえば徒に時間だけを浪費し、その結果妙に歯切れの悪い判決が出されるもの、ってイメージがあったんですけれども、なぜかこのオウム裁判に関しては、比較的スピーディーに審理が進み、しかもある意味歯切れのいい判決が出過ぎているように見えてしまうんだがそんなことないでしょうか。

 検察官のやけに情のこもった論告求刑、それを受けた裁判官の判決、さらにそれを傍聴する降幡さんの筆、どれをとっても共通しているのは、一方的な"オウム憎し"の感情に見えてしまうのだけれど。

 オウムの犯罪があまりに理不尽で残虐であったことには異論はないのですが、なにかこう、オウムだけを叩けばそれですむ、というコンセンサスがあまりに安易に成立しすぎてやしないか、というそこはかとない心配があったりします。オウムは憎い。オウムのやったコトは許せない、遺族の皆さんの心痛を考えるとあまりにひどい犯罪である。ぜんぶ同意。そのうえで一連のオウム裁判、なにか拙速な感じがしてしまうんだが。

 オウムの犯罪は憎い、だけど、たとえば神奈川県警に坂本弁護士に対してこだわりなくその失踪事件を捜査する気持ちがあったなら、あるいはそれ以前に坂本弁護士(とそのご家族)に対する危険を察知する感性があったら、と思ってしまうのです。その事に罪はないんでしょうか。オウムの信徒だけを一方的に断罪して、それですむ問題なのかという気がしてしかたがないのです。

00/11/01

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