「神戸新聞の100日」

表紙

神戸新聞社
カバー写真 神戸新聞社
角川ソフィア文庫
ISBN4-04-352301-7 \857(税別)

 5年たってしまいました。5年前のあの日、神戸とはいえ北区にいた僕はたいした被害も受けず、ただ動きのとれない状況で、意外に早く復旧した電気や水道、ガスの恩恵もあり、ただひたすら、テレビに映し出される震災の状況を見つめながら、寝るに寝られず深夜まで酒を飲んでいたんでした。それからはや5年、どうも時間が経つにつれて、震災に関する報道などがストレートに涙腺を刺激するようになってきたなあ、と感じる今日このごろです。実際にガレキの中をうろついて、壊れかけた会社のなかで仕事みたいなことをしていたときには笑い飛ばせたあれこれが、実際の現場から離れてずいぶんになる最近になって、ようやく効いてきたということでしょうか。

 そんなときになって読んだのがこの本。震災で壊滅的な打撃を受け、新聞の発行もままならない状況に陥りながら、京都新聞社の協力なども受け、なんとその日の夜には夕刊を刷りあげることに成功し、その後も苦しい状況下にあって新聞社としての再興をめざしながら、同時に被災地のさまざまな物ごとを現場に根を張って取材しつづけた、神戸新聞社の苦闘の日々の記録。いかんわこれ、読んでるとこう、涙目になっちゃうよ。

 なんていうかなあ、こう、オレは震災直後の数日っていうのは実はぬくぬくとコタツに入って、刻々と増えていく死傷者数のテロップなんかを、なんと言うか一種弛緩したような、放心したような状態で眺めていたわけだ。でも、震災の直撃を受けた地区や、その中でなんとか新聞を作ろうと頑張る人達も、同じ時間に神戸にいたわけで、その事に関する罪悪感みたいなものを今ごろになって思い起こさせる本なんだな。人それぞれ、できないことはできないし、できることしかできないわけで、それを恥じることはないんだってのは理屈としてはあるんだけれども、どうもそう簡単にわり切れないんだなあ。わかってもらえるかなあ。

 確かにこの本のなかで描かれる神戸新聞の人々の、新聞人としての戦いの記録は感動的なものであるんだけれども、10ページおきになんか涙腺がうるうる来ちゃうような、そんな感じってもしかしたら神戸にいなかった人には分かってもらえないのかな、って気がする。神戸新聞社が何かをやっているその日づけに、自分も神戸のどこかにいて、自分なりに神戸を見ていた人でないとこの気持ちはわかってもらえないかもしれない。でも、だからといって神戸の人間以外には読んでも無駄、なんて本でないことも確か。というか、そういう人にこそ読んで欲しい気もします。

 本書が書店に並ぶ頃、被災地は五度目の「一月十七日」を迎える。この日だけは、日本中のメディアが被災地に注目し、驚くほどの情報が流れるだろう。しかし、被災の現実は日々の暮らしの中にある。

 なにかにつけて忘れっぽくなってしまっている私たちですが、忘れてしまえる人は恵まれた人な訳で、どんなに忘れたいと考えていても、現実がその事を忘れさせてくれない、そんな辛い日常をいまだに送らざるをえない人々がいることは事実です。入れ物だけの復興で事足れりとする行政の態度に、常に異議を唱える存在が無くなってしまったら、救われない人々はいつまでたってもなくならない。

 「神戸新聞は未来永劫、この地にいるということだ。退くことも、遠のくこともありえない。この地で新聞を発行しつづける以外、存在する場所はない。当然、視点は地域に据えつづける」
 地域ジャーナリズムはと問われたら、そう答えるしかない。

 この矜持ですわ。かたやこの矜持、他方今のオレ。恥ずかしさで涙が出るよ。

00/1/17

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